第一章 其の二
柔らかい風が頬を撫でた。
陽射しが高く上った頃、康介は目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながら、周囲を見回す。
ごつごつした樹肌の木々に囲まれていることも、そもそもパーカーを被って木の根元の草叢に寝転がっているかも分からなかった。
「ようやく目が覚めたわけ?随分寝坊さんさんねぇ」
無愛想な声が木の上から降ってきた。
康介が見上げると、深紅の髪を長く伸ばした少女が木の枝に腰をかけて、所在なさげに足をぶらつかせている。
「よっと」
少女は蝶のように軽やかに地面に着地すると、すたすたと康介に歩み寄った。背は康介より幾許か小柄で、髪は量質感抜群の情熱的な薔薇色。顔立ちは些か彫りが深く険しいが、それでいて端整である。
康介は、昨日の夢に出てきた少女であることに気が附く。勿論服は着用している。
「あれ、俺まだ夢を見ているのか?」
少女の顔は不機嫌に曇り、何の断りもなく康介の頬をぐいぐいと抓った。
「ちょっと、アンタふざけているの!?それともまだ寝ぼけているわけ!?」
「ハラオニャフレユウヒテ」
頬の痛みと少女の一喝に、康介は是が夢でなく現であることを理解した。
「えーっと、夢じゃない……?」
「当たり前でしょう!」
康介は、自分でも随分間抜けなことを云っている気がした。
周囲を改めて見渡す。周りは聳え立つような高い木々に囲まれているが、左手の茂みの奥には湖畔が見えた。
急に昨日の水辺の出来事が思い出されて、康介の瞼の裏には、月下に映える少女の艶やかな白い素肌が浮かび上がった。頭の沸騰が、自分でも分かった。
「どうかした?」
押し黙った康介を不審に思って、少女は問いかけた。
「いや、何でもない」
康介は、煩悩を投げ捨てるかのように、頭をぶんぶんと振る。
「それより、その……、昨日の事は、事故みたいなものなんだ。何て云ったら好いのか、……、ともかくゴメン」
康介は、継ぎ接ぎだらけに云った。
しかし、其の対応に満足したのか、少女は満面の笑みで自己紹介をした。
「好いわ、許してあげる。ここで出遭ったのも、何かの縁でしょうし、仲直りしましょう。私の名前は、コロナ=バッセル。コロナと呼んでくれたら好いわ」
誇らしげに語るあたり、コロナは自分の名前が気に入っていると見えた。
「……」
「……」
「……」
「あなたの名前は?」
コロナが先ほどから無言で物珍しげな視線を送ってきたが、康介は云われるまで名前を期待されていることに気が附かなかった。
「あ、藤宮康介。康介と呼んでくれたらいい」
「ひょとして、昨日のもの打ち所悪かった?手加減した積りだったのだけれども……」
コロナは朱の差した金色の瞳で心配そうに康介の顔を覗きこんだ。
「違う。そんなんじゃないんだ」
「其れなら好かった。頭の打ち所が悪かったなんて洒落にならないしね」
コロナが破願する。
康介は、コロナの微笑にどぎまぎしてしまう。咄嗟に口が動かなかったのは、人を避ける引き篭もりの弊害、思考の自己完結性であった。久方に人と会話をすると遣り取りに幾分か支障をきたす時があった。
「さてと。そろそろ出発しないとね」
「何処に?」
「其れは次の街、リュックブルセルクよ。今から発っても、着く頃には日が沈んでいるでしょう」
当たり前のように云うコロナに、康介は顔を顰めた。
「勿論、康介も行くんでしょ?それとも他に行く当てあるの?」
「……俺は行かない」
「へ?」
康介が着いて来るとばかり思っていたコロナは、彼の言葉に虚を突かれた。気を遣って、何処から来たのかなどの仔細を尋ねることはしなかったが、コロナにはどう見ても康介が迷い人にしか見えなかった。其の彼がこの場に一人で残ることは自殺行為にも等しく思われた。
康介も無論其のことは承知していた。其の上で此処に残ろうと思った。
――此処は元居た世界とは異なるが、人が居るのには変わりがない。だったら、一層のことこの場に留まれば好い。もう、嫌な奴らと顔を合わせることがないと思うと清々する。俺はもう自由なのだ。誰かの顔色を覗うことも、アイツらの目から逃げる必要もないのだ。
康介は草叢の上に天臥した。
コロナはごろりと横になったまま動こうとしない康介を不思議そうに眺めた。
「どうしちゃったのよ。さっさといかないと、日が暮れてしまうわよ」
「悪いが放って置いてくれ」
康介は、五月蝿いと云わんばかりに耳を塞いだ。
「折角誘ってあげているのに。だったら勝手にしなさい。さようなら」
簡潔な別れを告げて、コロナは踵を返した。親切にも一言声をかけてやったのだ、これ以上は附き合い切れない、一切合切我関せずと云う態度だった。
康介はコロナを一瞥したのち、寝返りを打った。結果的には彼女の厚意を無碍にしたことになり、康介は少しばかり名状しがたい心持になった。
しかし、康介は目を瞑りながら、これから先に彼女とも会うことはないのだろうと考えた。此処に来て、生まれて初めて一人になることができたと感じた。
――此処には自分を知っている人間はいない。
――此処には自分が知っている人間はいない。
そう考えると、不思議なことに康介は胸のつっかえが取れたように気分が晴れ、思考は極めて明瞭になった。
惨めな思いをぶら下げながら日々を過ごすことが、康介には生きたまま辱めを受け続けているようなものに思われた。生まれてきて死のみ平等に分け与えられた人間は、遅かれ早かれ、貴賎に係わらず、如何なる人間でも死に迎合する。人間が死を逃れられない動物なのであれば、此処で死んだって構いやしないと康介は思った。
だから、康介は、死ぬべき時がくれば素直に其れを受け入れる積りだった。少なくても、徒に生に執着することは、康介の美意識に照らし合わせれば、酷く不様なもののように思われた。
このまま何もしなければ、やがて空腹から餓死に至り、カラダは朽ち果て土に還るだろう。康介には、其のような死が極めて自然で、美しいとさえ思われた。
そのようなことを康介が夢想していると、焚き火の跡が目に留まった。焚き火は灯や暖をとるためにするが、周囲を厚い木々に囲まれた森では其れ以外の目的もある。獣達を追い払うためだ。野生の動物達は火を怖がって近づかないのだ。
康介は火をつける道具、マッチの類を一切持っていなかった。日が沈めば、この周辺は深い闇に覆われるであろう。火を持たない康介は、きっと獰猛な野獣たちに襲われ食い殺されるに違いない。首筋を噛まれ、肉を喰いちぎられ、ひゅーひゅーと虫の息も絶え絶えになりながら、自分の手足が咀嚼されるのを見るのだ。
血の気が引いた。
仮に獣達に襲われなくても、野盗たちに襲撃されるかもしれない。
数人の腕っ節の強い男たちに取り囲まれながら、喉元にナイフを突きつけられるのである。捻じ伏せられ、身包みを剥がされ、挙句の果てに体を切り刻まれて殺されるのだ。人の悲鳴を悦とするような残忍な野盗であれば、爪を一枚一枚剥がし取り、指を一本一本切り落とし、目を抉り取られ、獣達の餌にばかりと野に打ち捨てられるに違いない。引きこもりの康介には其のような輩を追い払えるような腕はない。襲われれば最期、苦痛に身を悶えさせながら殺されるより他はない。
急に不安に掴まえられる。
悪い考えは、次々と悪い考えを引き起こした。坂を転がる石の如く、思考は悪い方向へと落ちていく。
「コ、コロナ!」
康介は慌ててコロナを探すと、彼女の背中が木々の間に見えた。
「おい、待ってくれ!」
康介は声を張り上げた。
しかし、聞こえていないのか、それとも聞こえているけれども無視しているのか、コロナは振り返ることはなかった。背中はどんどん遠ざかり、既に豆粒のように小さくなっている。
「おい、俺を置いていかないでくれ!!」
康介は慌てて飛び起きると、そのままコロナの後を追いかけて走った。
耽美な考えに捕らわれただけの、死にたがり屋の道化であることに気が附いた康介は、自分がひどく不恰好であると感じられずにはいられなかった。