第一章 其の一
冬の足音が聞こえ始める十月の深夜、藤宮康介はパーカーを羽織って、コンビニに向かった。時刻は既に午前一時をまわり、健全な高校一年生であれば、とうに就寝している時刻である。
「少し寒いな……」
康介はぼやく。吐く息はまだ白くないが、体感温度は冬のそれを思わせた。
すでに夜も更け、康介が住む閑静な住宅街で目につくものは、心許ない光で足下を照らす街灯が、等間隔で列しているばかりであった。
康介の活動時間帯は昼から夕方へ、夕方から夜へと移行し、いよいよこの時刻に感覚が最も冴え渡るようになっていた。昼の苛烈な太陽とは久しく絶縁状態にあり、夜の漆黒の闇とは親しく手を結び合っていた。
――いわゆる、引き篭もりである。
生活感が狂った康介は、昼下がりに目が覚めて、部屋に閉じ篭ったまま空想やゲームやネットに一日の大半を興じ、朝方に床に潜り込んだ。
そして、一週間に一度だけ、家と隣町のコンビニを往復することを常とした。別段、コンビニに行かねばならない所用がある訳ではなかった。ただ週に一度だけ、人目を憚り深夜のコンビニ向かうことで、部屋に閉じこもって積る、鬱屈とした胸の蟠り(わだかまり)が少しは取れるような落ち着いた気分になれたからである。隣町のコンビニまでわざわざ行くのは、学友となるべく顔を遇わせたくない為であった。
そのような生活を始めてから、康介は既に二十の指を折らんとしていた。
「オリオン座か」
康介は一際明るく輝く三ツ星を捉えながら、右手に国道を臨んで自転車を走らせていた。
康介とて望んでこのような生活をしているわけではなかった。
始めは釦の掛け違いとでもいうべき、一寸した周囲との行き違いからくるものであった。しかし、修復しようとすればするほど却って傷口は深く抉られ、やがて現実との齟齬は極めて大きくなってしまった。
康介の場合、周囲の人々と折り合いがつかなかった。単に彼が人付き合いが不器用だからと云ってしまえばそれまでだが、それではあまりにも残酷であった。彼なりに幾度か歩み寄りを試みたが、徒労に終わってしまった。好んで唾を吐き捨てながら生きている訳ではなかった。
途中、康介は小さな公園に立ち寄った。
昼間は子供で賑やかであろう公園も既に人気は失せ、ジャングルジムや鉄棒などの遊具が寂しく佇んでいるだけだ。
康介はベンチに腰を下ろし、公園中央の時計台を見た。
「一時三十三分」
康介はここで時折時間を潰す。
康介は、昼間子供達が作った、砂場の盛り上がった砂山に目を遣った。子供たちの小さな手で押し固められた山の中央部に、刳り抜き(くりぬき)かけのトンネルがあった。康介も幼い頃は、近所の公園で友達や三歳上の兄と砂場でよく遊んだことを思い出した。
深夜に初めてこの公園を訪れた時、人っ子一人居ない、うらぶれた公園に寂寥感を抱いた。そしてそのような公園こそが、周囲の人間との関係性を断った自分に似つかわしい場所だと思った。
誰もいない公園で一人夜空を見上げる。時折通り掛かる人が居たが、例外なく彼らは一瞥するだけで足早に去った。康介のことを深夜に散歩している奇妙な少年と感じたのか、もしくは気味の悪い奴だと思ったに違いない。どちらにしても、進んで彼らが康介に近づくことはなかった。
何度か足を運ぶにつれ、深夜の公園は寂しいのではなく、人を拒む気配さえあることに気がついた。それを発見した時、康介は自分自身に良く似ていることに驚いた。
康介が引き篭もり始めた頃、海外出張に出ていた両親は、二、三度帰宅して康介の部屋を訪ねてきた。しかし、康介は両親と顔を会わせるのを嫌い、結局彼らとは一言も会話を交わすことはなかった。
同居している兄からも幾度となく部屋の外から語りかけられた。しかし、康介は黙ることを貫き、次第に兄も言葉少なくなっていった。「ご飯できたぞ」、「今日クラスメイトの鈴木さんが来たぞ」、そのような言葉を投げかけられた時分もあったが、既に数ヶ月かテレビを除いて言葉を耳にした覚えがない。そもそも、最期に聞いたのは、何時で何という言葉だったか――。
ぼんやりと沈思黙考していると、康介は視界の端に青白い光を捉えた。
公園の片隅の草叢で、何かが光っている。
「何だろう?」
初めは誰かが落とした携帯が光っているのかと思ったが、それにしてはやけに明るい。康介は恐る恐る光の元へと歩み寄って覗き込む。
本であった。
一見してB5サイズのハードカバーに体裁は近かったが、少なくても自分が知っている如何なる類の本とも異なっていた。カバーは革製のようであったが、随分と使い古され、薄汚れて草臥れ(くたびれ)ていた。手に取ってみると、三百頁そこらの文庫本の厚みにもかかわらず、想像以上にずしりと重かった。そして、表紙に書かれている文字は何処の国の文字なのか、そして何と書かれているのか判別できなかった。強いて云うならば、かつて見たことのあるB級映画に出てきていたルーン文字とやらに似ていた。
「まさかな……」
薄っすらと青白い蛍のような燐光を身に纏っている本。
得体の知れない本に、一瞬「魔術書」という三文字が浮かんだが、康介はすぐさま一笑を飛ばした。
興味本位に、康介は本を開けたい誘惑に駆られた。表紙の文字を見る限り、開いてみたところで読めるものではないことは容易に想像でき、書かれている内容自体への関心度は低かった。けれども、何故だかこの本を開かなければならないような気がした。理由はよく分からない。理由がなくても、康介はその本に強く惹きつけられた。青白い光は、一見して冷淡なようであったが、どこか郷愁の色のように感じた。旧知の明友が懐かしい声で、古い記憶の奥底に呼びかけているように思われた。たとえれば、力強い魂の鼓動が心のうちに深く語りかけてくる――。
康介は、本に手をかけた。開こうとする指先が震える。
――何を躊躇っておる。さあ、私を開け、いざ汝を導かん。
頭の中に響く皺枯れた声に、康介は振り返るが、辺りには誰もいなかった。
「空耳か?」
気持ちを静めるため、大きく一呼吸する。冷たい新鮮な夜気は肺一杯に広がって、代わりに澱みが一掃される。あらためて、康介は本を手にした。
厳つい表紙をつかむと、慎重にゆっくりと捲る。
その時だった。
捲り終わった途端、光が溢れ出し、まるで風船のように膨張したかと思うと、針で突かれ割れた音すら聞こえるが如く、本の内部から勢いよく光が弾けた。弾けた光は、天を突く滝のように昇った。
予期せぬ事態に状況がつかめず、康介はよろめいて本を手放した。転がり落ちた本からは、なおも光は止めもなく洪水の如く溢れ出た。
そして、康介は光の奔流に呑みこまれた。
光の激流の中、もがかなければ押し流されていた筈だが、康介は知らぬ間に身体が軽くなるのを感じた。流れに身を委ねて、まるで光の宇宙を遊泳しているようだった。
「何だこれ?」
康介は、自分を包み込む遍く光の宇宙を見た。さらに、強く煌く真珠のような、数多の光の珠を見た。具に検めると、一つ一つの珠の中には小さな世界が見えた。数え切れない世界の大河に康介は浮遊してた。
夢心地のような不思議な感覚に捉われ、康介は声を失った。ただ呆然と光の大河を眺めることしかできなかった。突如として無数の光の珠の一つが、煌きを増した。唐突と一層明るく輝く珠からは、月光のように透き通った光の体の人型が顕れた。
「ひやぁ!」
柔らかく温かい光は、康介を優しく包み込んだ。
そして、光の抱擁から離された先で、藤宮康介は深紅の薔薇色の髪の少女と出会ったのである。