第一章 其の十
康介は長い一日の最後をベッドの中で終えようとしていた。
康介が湯を浴びた後、さり気なくエルシールに尋ねると、コロナからも了承が得られたとのことだった、コロナは、「ええ、別に好いわよ。まだ次の目的地も決まっていないし、それに路銀も稼がなくちゃ行けないしね。宿代と食事代が浮くなら、其れは其れで願ったり叶ったりよ」とすんなりと受け入れたそうだ。いかにも、コロナらしい捌けた考えだと康介は思った。
その後、カミーユの食事が康介たちに振る舞われた。
「お口に合うかどうかは分かりませんが……」、と自信なさげに、康介たちの前にシチューが差し出された。湯気を立てるスープと柔らかい肉は、康介の口の中で蕩けるように広がった。 「美味しいよ」、と舌鼓を打つ康介に、カミーユは、「有難うございます」、と朗らかな笑みを返した。まだ眠くないと駄々をごねる子供たちを、エルシールが宥めて寝かしつけた。
そして食事のあと、康介はベッドの中から天井の木目を仰いでいた。小奇麗な洋室の部屋で生活していた康介には、木に囲まれた素朴な部屋が珍しかった。木目は奇妙な目玉の模様にも、まるでうねり狂った妖怪にも見えた。
天臥する康介に声が掛かった。
「康介、もう寝た?」
「いやまだ」
康介とコロナは客用の部屋を宛てがられていた。エルシールの部屋より一回り大きく、窓を頭に二つのベッドが並べられていた。コロナは康介の隣のベッドで寝ていた。
「若しかして、いやらしいこと考えていないでしょうね?」
「とんでもない」
康介が横を見遣ると、コロナが寝返りを打った。カーテンの隙間から洩れた淡い月光が、コロナの薔薇色の髪と金色の瞳をほっそりと浮かび上がらしていた。コロナは愛らしい仔猫のように布団から首を突き出していた。
最初にエルシールからこの部屋を宛がわれたとき、コロナは康介と同じ部屋を割り当てられるのを嫌った。コロナは、「康介には前科があるので到底信用できない」、と主張した。康介は慌てて、「其れは誤解だ。単なる齟齬だ。若し仮に見たとしても、あれは事故の範疇だ」、と否定した。疑いの眼差しを向けてくるコロナに、康介も負けじと視線を逸らさずに対抗した。此処で退いてしまえば、エルシールの前で罪を認めることになるからだ。さらに康介は、コロナと違う部屋が好いとぶっきら棒に云ってみた。
云い方がコロナの癪に触ったのか、「其れどういう意味よ」と喚いた。勿論康介はコロナに配慮した積りなのだが、有り体の儘云えば、康介はコロナの顔を立てたことになり、いがみ合っている状況下では甚だ面白くなかった。そこで態と、「コロナのいびきが五月蝿そうだし」、と悪態をついた。さらに、「大体俺は子供っぽいコロナに興味がないです」、と強がってみせた。其れを聞いたコロナはますます憤った。
愈々行線をたどる二人に、エルシールは、「まあまあ二人とも、使える部屋は一間しかないから、悪いけど我慢してくれないかしら」、と康介とコロナの仲を取り持った。暫く膠着状態が続いたが、結局二人は其れを認めることになった。
「本当でしょうね?」
「当たり前だ」
語気を強める康介はコロナと不意に視線が交錯した。月光に照らし出された、吸い込まれるような瞳に康介は思わず見惚れてしまった。そして又、月夜に晒し出されたコロナの白い肌は、月の底に広がる処女雪のように息を呑むほど美しく感じられた。
むっつりと黙ったままの康介を不自然に感じたコロナは、「どうしたの?」、と問うた。忘我していた康介は耳の後ろが熱くなるのを感じた。態とそっけなく、「何でもない」、と云い張り、コロナに背を向けた。
むっと声を呑むコロナ。
「何よ。一寸からかっただけじゃないの。そんなに怒らなくても」
「俺はからかわれるのが嫌いだ」
「ゴメン」
其れを聞いたコロナは悄気て小さく、謝りの言葉を呟いた。
コロナとの間に気まずい沈黙が降りた。息苦しさを感じ、康介は話題を移すことにした。
「なあ、どうしてコロナは此処に止まることを了承したんだ?」
コロナは、「じゃあ康介はどうして?」、と訊き返してきた。漠然としか考えていなかった康介は其の問に戸惑った。「上手く云えない、確固たる何かがある訳じゃないのだけれども」、と前置きをしながら、「彼女たちを見ているうちに、只少しでも自分が役に立てるのであれば役に立ちたいと思っただけだ」、と答えた。
「ふ~ん」、と鼻で返し、「お人よしの康介らしいわね」、とコロナが続ける。
康介が見遣ると、コロナは天井の一点をじっと凝視していた。
「少し長くなるかしら。あと、少し重い話かもしれないけれども、軽く聞き流すくらいの気持ちで聞いて欲しい」
コロナは不意に口を開く。
「わたしの両親は、わたしが物心つく頃に流行り病で亡くなったの」
ぽつりぽつりと述懐するコロナ。其の告白は、誰に聞かせるともなく、只自分の古い記憶を引き出しているだけのような、淡々としたものだった。
――わたしが五歳の時だった。
両親は流行り病にかかり、死んでしまった。始めは父が病気にかかかり、間もなくして息を引き取ると、父の後を追うようにして母も死んでしまったわ。父の病気は恐るべき伝染病だった。それが、傍で看病していた母に伝染したのよ。当時のわたしは其れを理不尽な暴力だと呪った。どうして、父と母が死ななくてはならないのだろうと思った。
両親が死んでから、わたしは親戚の間を盥回しにされた。最終的に遠い親戚であるバッセル夫妻に引き取られたわ。七歳から十三歳までの六年間、わたしは其の夫妻の元で過ごした。
夫妻は白髪が混じるぐらい御歳をとっていたけれども、とても優しくて、わたしのことを本当の孫のように可愛がってくれた。わたしの姓であるバッセルは、夫妻の姓から取っているわ。
夫妻はわたしに善くしてくれたけれども、わたしは心のどかかで窮屈さを感じていたわ。夫妻は、朝には笑顔で挨拶をしてくれて、昼には笑顔で買い物に連れ出してくれて、夜には笑顔でお休みなさいと云ってくれた。だけど、夫妻が笑顔を掛けてくれるたびに、自分は余所者なんだ、憐憫を掛けられるているんだと強く感じた。
今にして思えば、其れは単なるわたしの思い過ごし、邪推に過ぎなかったのだけれども、当時のわたしは自分の居場所がないんだと強く思った。一層のこと、生まれてこなければ良かったとすら考えたわ。――
編まれるコロナの語りに、康介は静かに耳を傾けた。
「――きっと、わたしは生きることに臆病だった」
其れはコロナの心の吐露であった。
然し、康介はコロナは強いヒトだと思った。少なくても自分よりは。生きることに臆病だと、自ら打ち明けられるヒトは数多く居ないだろう。打ち明けられるヒトは、自分の弱さを認めているヒトだ。
そして、生きることに臆病なのは寧ろ自分の方だと康介は思った。圧し掛かってくる現実に押し潰されそうになり、其処から目を逸らしたのだから。折れそうになる心に康介は何度も自己弁護を繰り返すことしか出来なかったのだから。今でも自分は悪くないと云えるが、それでも其処から逃げ出すことしか出来なかった自分に嫌気が差した。舌を鳴らす蛇のように、鎌首を擡げる現実に康介は余りにも無力であった。
コロナは独白を続けた。
――わたしは十三歳の誕生日を迎えた翌日に、バッセル夫妻の元を去ることにした。其れは随分前から密かに計画をしていて、少しずつ旅の支度もしていた。
あの頃のわたしはまだまだ世界を知らない子供だったから、旅支度と云ってもそう仰山なことではなかった。夫妻に手紙を書き残しておいたのと、幾許かのお金を握って、街に来ていた旅芸人の一座に隣町のさらに隣町まで連れて行ってもらうように予め頼み込んだだけよ。
念のために、バッセル夫妻はわたしに無償の優しさ、そう、実の孫のようにわたしに愛情を注いでくれて、わたしは彼ら自身には一抹の不満すら抱いていなかったことをもう一度述べておくわ。
わたしが夫妻の元を離れたのは、夫妻以外の周りとわたしが幾許かの軋轢があり、又わたしが自分に掛けられていた親切さを誤解し、一人になることで、両親の死も含めて全てを整理したかったからよ。――
コロナはそこで一拍置いた。矢張りコロナは天井の一点をじっと見詰めたままであった。
「怖くなかったのか?」
康介はコロナに訊ねた。
――始めは怖くない積りだった。だけど本当に独りぼっちになって、初めて怖いと感じるようになった。これから自分は一人で生きていかないとダメなんだと悟ったとき、打ち消し難い沈鬱な不安に襲われた。さらに悪いことに、暗い気持ちに追い討ちをかけるが如く、暫くして手持ちの金が底を尽き始めた。子供だったわたしの懐が詫びしいことは固より承知の上だったけれども、手持ちのお金がなくなってしまうと改めて途方に暮れるより外になかった。
次第に日々の生活にも困窮し、パン一枚もミルク一杯も手に入れることすら儘ならなくなってしまった。だけど、ヒトの世もまだまだ捨てたモノじゃなかった。とある酒場にて、わたしは死んだ魚のような目をしながら、是で最後となる一杯のスープを口に運んでいたときだった。 「お譲ちゃん、そんな情けない顔をしてどうしたんだい?」と酒場の店長が声を掛けてきた。
今でも其の人のことを、わたしは良く覚えているわ。熊のようにのっそりとした其の男はガモルターゼという名で、酒場の仲間からは親しみを込めてガモフと呼ばれていた。わたしは、只行き場に困り、路銀も底を尽きたとだけガモフに打ち明けた。今にして思えば、良くそんな事をいえたと思う。自分の実情を相手に晒すなんて勇気の要ることだし、普通のヒトなら羞恥心で云えないと思う。
けれども、きっと其の時のわたしは其のようなことすら想像出来ないほど本当に悩んでいたのね。其れを聞いたガモフは、たいしてわたしの素性も気にすることなく、「そうか、そうか、だったらうちも店で暫く住み込みで働くと好い」、と人懐っこい笑みを浮かべながら云った。
わたしはガモフの中にバッセル夫妻と同じヒトとしての深さと暖かさというモノを見た気がした。尤も、其の当時のわたしは、はっきりと其れが如何なるモノであるのか掌握しきるには幼すぎて、只漠然とだけバッセル夫妻と同じ匂いを感じただけだったけれども。
兎にも角にも、わたしはガモフの下で厄介になった。一ヶ月ばかりだったと覚えている。食事を作ったり、お膳を運んだりと覚束ない手つきで慣れない仕事を色々とこなした。皿洗いもしたけれども、バッセル家でよく手伝っていたわたしにはそれだけは御茶の子さいさいだった。
一ヶ月を過ぎ、再び隣町に行って多少の生活をするに足る資金が貯まると、わたしは丁寧にお礼を述べ、ガモフと酒場の仲間たちに別れを告げた。ガモフは、一ヶ月の駄賃の外に、「是は俺からの餞別だ、取っておけ」、と相も変わらない人懐っこい笑顔を浮かべながら、わたしの手に少しばかりの金を握らした。
それからと云うもの、わたしは各地を転々としながら渡り歩いている。だけど、あの鉛を飲み込んだような重苦しい気持ちの中でガモフに出会うことがなければ、今頃わたしはどうなっているのか分からない。少なくても、わたしがわたしで居られることができたのは、ガモフの御蔭であることは違わない。わたしは、各地を回りながら自分の気持ちに少しずつだけれども整理をつけ、冷静に過去を顧みることができるようになったと思う。
まあ、そりゃあ色々苦労したことは事実よ。わたしが余りにも美人だから野宿をしていると盗賊や魔獣に襲われたこともあるし、わたしが余りにも色気を醸成しているから街中で怪しい店に連れ込まれそうになったこともあるわ。まあ、ドイツもコイツもコテンパンにしてやったけれども。
兎にも角にも、世の中と云うモノはそれなりに上手いことできている代物で、何かと問題が起きる度にわたしは多くのヒトに助けてもらったわ。勿論其のヒトたちには、感謝し切れないくらい感謝している。――
「だからね、わたし困っている人を見ると放っておけないの性質なの。今度はわたしが助ける番ねと。其れがエルシールの頼みを引き受けた理由ね。そうそう、康介も良い例かしら」
コロナの目はどこか過去を偲びながらも優しさを含む目だった。
言葉を失っている康介を見て、コロナはさらに附け加えた。
――あ、それから、わたしは両親の死に関しては既に受け入れているから、情けは不要よ。つまらない同情心なんても掛けられるの嫌いだし。若しそんなモノを持っていたら、わたしは許さないわよ。
きっと、コロナの気持ちは本当であろう。
コロナの言葉には一切の淀みがなく、清流のように凛然とし、それでいて極めて芯が強かった。
一筋の光すら零れない深遠な闇が降りた森の中から、コロナは、全てを包み込む優しい月の輝きが溢れた小径に脱け出したているようであった。
康介は、「聞いていいかな。コロナの両親はどんな人だった?」
――残念ながら、わたしが物心着く頃だから、明瞭に覚えていることは少ないの。
只、埋もれた記憶の底には、母が何時もわたしに優しく語りかけてくれたという像がある。何と云っていたのか、今では思い出せない。只母は好い匂いをさせていたわ。わたしが寝るときには、何時も優しく抱きしめてくれたの。そして、お休みなさい、コロナとわたしの額にキスをしてくれた。母の腕の中で擽ったい匂いに包まりながら、わたしも、お休みなさい、母さんと返していたわ。
父には何時も叱られていたかしら。だから、わたしの中では父は怖い人だった。でも、其れはわたしがよく悪戯をしたからであり、叱った後には必ず、もうこんな事はするなよと、ごわごわした大きな手でわたしの頭を撫でてくれたわ。――
古びた記憶の本を一頁一頁捲るように、コロナは云った。
その後、暫く二人の間に沈黙が降りた。壁に掛けられた時計がカチカチと鳴っていた。
コロナは不意に云った。
「元の世界に帰りたい?」
予期せぬ質問に康介は狼狽した。自分のことなのに、どう答えたら良いのか分からなかった。
康介が答えに窮して暫く黙っていると、コロナは、「エルシールに訊いたら、知り合いに魔法について詳しい人間が居るから紹介してくれると云っていたわ」、と述べた。気を利かしたコロナはエルシールに尋ねてくれたようだ。
言葉が舌に絡みながらも、康介は「分からない」、とだけ答えた。其れが康介の本心であった。自分の目の前に横たわるモノを思い浮かべるにつけ、康介は暗澹たる人生の隘路に向かい合っているような気がした。
コロナは、「一応話を聞くだけでも聞いてみたら」、と勧めてくれた。康介は暫く逡巡したが、「分かった、そうしようと」、と小さく述べた。
喋るべきことを喋りきって満足したのか、コロナは大きな欠伸を一つした。話に夢中になり、壁の時計は夜の一時を回っていた。
「一つ云い忘れていたわ。今日は有難う、わたしを庇ってくれて。少しかっこよかった」
「おやすみなさい」、と云ってコロナは布団をかぶった。
康介が振り返ったときには、既にコロナは背を向けてすやすやと寝息を立てていた。言葉を掛けようとしたが、コロナの丸まっている姿を見て、康介は何も云えなかった。其の言葉に康介は胸の奥が暖かくなるのを感じながらも、最後の最後に擽ったいことを云うなんて卑怯で反則だと思った。
(一章 了)




