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プロローグ

――――プロローグ――――


 康介が光の抱擁から離された先は、月の底だった。

 見上げる虚空には淡い緑色と青色の月が昇り、大地に煌々と光を投じていた。

 眼前には地平線の彼方まで湖が広がり、湖面に二つの月が映えていた。

 辺りには静謐が降り、背後の森から木々の先達が擦れる音が時折聞こえてくるばかりであった。


 静寂が支配する中、康介は湖畔にたたずむ一人の小柄な少女を見た。

 歳は自分より一つか二つ年下、即ち十四五歳ぐらいだと判断した。

 少女は水浴をしているのか、服を着ておらず、体の前に一枚の布を垂らしているだけであった。裸体同然にもかかわらず、彼女はあらゆる肉の感とは遠く離れて、まるで本から抜け出した妖精のように神秘さと華美を有していた。


 月下に、少女の体は白磁のように美しく感じられた。否、白磁のようにというにはいささか語弊があった。

 肌の内側から光が零れ出ているように白く、それでいて清流の如く透き通り、若い少女特有の瑞々しく、触れれば吸いつき押し返す弾力性をもっているかのように思われた。

 布の端からは少女の白い脚が顔を覗かしていた。

 草原を駆け抜ける獣のように無駄な肉はついていない引き締まった太腿、それに続くしなやかで艶やかな脚。一見華奢のようで、それでいて大地を踏みしめる力強さを備えている。

 胸元の布は僅かばかり押し上げられている。

 未だ膨らみ切っていない、二つのなだらかな丘陵は、あらゆる肉の感と離れた妖精のような小柄な少女の澄明さとぴったりと符合していた。


 そして何より特筆すべきは、少女の顔であった。

 腰までかかる長い濡れそぼった髪は、うちに秘めたる情熱のつぼみが隠し切れずに、身体のうちから熱を帯びてしまい、身体をも焦がしてしまうような鮮やかな深紅の薔薇色。

 神に帰依するような儚さを含んだ瞳は、茜色の西日を浴びた刈り入れ時の稲穂のような朱が差した金色。

 無垢な小さな唇は、成熟した女性の其れに至る途中の、ふっくらと膨らみ始めた果実のような初々しさがあった。

 それらは、鼻梁の高い、彫りの深い顔に凛然とした感を一層与えていた。


 康介は素直に思った。

 ――少女はとても美しい。


 少女に心を奪われ、息を呑むことすらも忘れてしまう。

 今や風の一音すら、康介の耳朶に紛れ込まなかった。

 時は縫い附けられ、広い世界に少女と自分しか存在しない錯覚を覚える。きっと、それは錯覚などではなく、紛れもない事実だろう。

 少女の魂に康介の魂が惹かれ、魂の深いうちに触れた。


 遙か彼方まで広がるパノラマの風景を背景に、虚空を仰いで佇む少女は、芸術その物であった。

 しかし、言葉で表そうとすれば零れ落ちるところが生まれるのは必然であり、如何なる言葉をもってしても少女を表現することはあたわなかった。絵画も同じく、目の前の光景を白いキャンパスに写し取ろうとしても、必ず描ききれない箇所が出てきてしまうであろう。

 存在自体を尊ぶべき美は、美の永遠の保存の企てである芸術の性質と本質的に相反し、言葉や絵では美を表すのに力が及ばない。

 美とは一瞬に閉じ込められた永遠――。


 幾許の時がたった。

 康介が枯れ枝を踏んだ拍子に乾いた音が響き渡り、振り向いた少女の視線と交錯した。

 少女は驚いたような表情を見せ、がばっと、前を隠すように布を抱きしめる。


 康介は気がついた。

 ――俺は覗き見をしていたのではあるまいか?


 少女の白い顔は熟れた桃のように赤く染まり、頬は風船のように脹らみ、肩は怒気に震えていた。

 少女は頭から湯気を出しながら大股でずんずんと康介に近づいて来る。

 「えーっと、えーっと」

 気の利いた云い訳の一つでも捻り出そうとしたが、咄嗟のことに頭がまわらず、言葉の見つからない康介は、口をまごつかせて、しどろもどろするばかり。


 少女と距離は二三歩までに縮まる。

 間近にしてみると、少女の美しさがより際立った。

 あどけない幼さが残る顔に、くっきりとした目立ち。肌に張りつく雫は月の光を浴び、一滴一滴が真珠のような輝きを帯びていた。


 少女は怒気を露にしながら、康介を睨みつけた。

 「あんた見たでしょ?」

 「えっ」

 「あんた見たでしょ、と訊いてるのよ」

 目的語を伏せるあたりは乙女の恥じらいによるものか?

 剣幕に気圧され、康介は、

 「見ました」

 と素直に謝った。

 康介自身は水浴に遭遇したのは偶然が重なった事故だと思ったが、弁明をしたところで少女の怒りは納まる気配がなかった。又、たとえ見ていないといい張ったところで信じてもらえず、話はよりねじれるだけだと考えた。ならば素直に謝罪をした方が穏便に済ませられると、康介は判断した。


 しかし、事は往々にして思い通りに運ばない。

 少女は右手を康介に突きつけ、一息大きく吸い込んで叫んだ。

 「死んで詫びろ――!」

 少女の掌に光の粒子が凝集し、瞬く間に出来上がった、拳大程度の光弾は文字通り爆ぜた。

 「ぎゃっふん」

 爆風に煽られ宙を舞う康介は、身をもって、「あ々、人間ていうのはその気になれば空を飛べるんだな」と実感した。

 康介は、意識を手放す前に思う。

 ――そもそもココはドコなんだ?


 かくして、生きることに臆病な少年は、薔薇色の髪の少女に邂逅した。


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