ポン太
カエルは水が大好きです。身体がぬれていないと命にかかわるからです。だから、緑のいなほが
一面に広がる田んぼはカエルの天国。ほら今日も,にぎやかなカエルの大合唱が聞こえてきますよ。
真っ青な空にかがやく田んぼから
「ゲロゲロゲ」
サワサワサワ、風と遊ぶ田んぼから
「ゲロゲロゲーロ」
カタカタカッタン、水車の回る田んぼから
「ゲロゲロゲッゲッゲー」
ああ,冷たい水は生き返る。あかげでのどはぜっこうちょう。そんなふうに聞こえます。
つゆのあい間の昼下がり。夏のさかりを思わせる太陽が,地上にするどい光の矢をはなちます。
バッタとりに夢中のわんぱく小僧の声も聞こえません。空をにらんでたつかかしさえ、かたを落として
一休み。でもカエルはそんなのへえっちゃら。水面から丸い目だまをプックリ出して、プカプカうかべば
ごくらくごくらく、まるで温泉気分です。
「ゲロゲロゲッゲッゲー」
(あれ)
ポン太のすがたが見えません。あっちの田んぼこっちの田んぼ,いねの林をのぞいてもやっぱり
すがたはありません。こんなあつい陽ざしの中,一体どこに行ったのでしょう。むねがドキドキして
きました。急いで探さなくては心配です。
いました、いました。ここは田んぼから百メートルもはなれた赤い屋根のお家です。小さなお庭の
すみっこで、丸い目だまをギョロッとむいたカエルがいっぴき、緑石の置物みたいに
じっと何かを見ています。
「ポン太,何してる。早く田んぼにもどっておいで」
それでもポン太は動きません。頭の上で,手のひらみたいな大きな葉っぱがフワフワゆれて、
きけんな陽ざしからポン太を守ってくれています。でも長い間水に入っていない身体は,カラカラサラサラ。
早く水をあびないとおおごとです。
「だめだよ、死んじゃうよ」
ぼくの手は,いつしか汗でびっしょり。おや、お家の中から声が聞こえます。かわいらしい男の子の声です。
でもちょっと変ですよ。
「いたいよう、いたいよう。ちゅうしゃはこわいよう」
あれあれ,男の子は泣いているのです。
「だいじょうぶよ,健ちゃん。お母さんがついてる。先生もいたくしないって」
「健ちゃん,ちょっとのがまんだよ。ちゅうしゃをすれば、あっという間に熱が下がって元気に
なるからね」
ヤギそっくりなひげを生やしたおじいさん先生が、かばんの中からちゅうしゃきを取り出しながら
言っています。でも細くとがった針がチラッと見えただけで,もうこわくてこわくて。
お母さんにしがみついた健ちゃんは,足をバタバタ大あばれ。
「健ちゃん、お願い。いい子になって」
お母さんはおろおろ,今にも泣きそうです。
その時です。
「ゲロッ」
と,庭で声がしました。そしてちょっと間をおいてまた
「ゲロゲロッ」
と声が。
「健ちゃん、お庭でカエルが鳴いている。きっと『弱虫健ちゃん,しっかりしろ』って、言っているんだわ」
しゃくり上げる健ちゃんの小さな背中をポンポンたたき、お母さんはひっしです。
「さあさあ。健ちゃんは弱虫なんかじゃないよなあ。ほれ、ほれほれ」
おじいさん先生の白いひげが,ニューッと近づいてきました。
「カエルなんかに負けるなよ」
健ちゃんの細くあけた目の前で,とがった針の先からちゅうしゃえきがピューッとふきだしました。
「ワー、ワー、ママー」
だめです。ちゅうしゃの大きらいな健ちゃんには,何を言っても効き目はありません。
「やれやれ」
白いひげをまさぐるおじいさん先生は,すっかりお手上げです。
「どうしたもんかなあ」
また,庭から声がしました。
「ゲロゲロッゲロッ」
それは,さっきより低く大きく強くなったような。まるでおこっているみたいです。
ところで,ポン太はどうしてここにいるのでしょう。それは一週間前のことでした。
ポン太の暮らしている田んぼのそばを,大きな道路が通っています。一日中ひっきりなしに、
車がもうスピードで走ります。あぶないなんてものじゃありません。たくさんの仲間が,車に
ひかれて死にました。まさに、天国とじごくがとなり合わせになっているのです。
「ぜったい、道路に出ちゃだめよ」
カエルのお父さんもお母さんも,子どもたちに何度も言って聞かせていました。でも遊びに夢中に
なってしまったら、子どもはそんなことわすれてしまいます。ポン太も,あっと思った時には,道路に
飛び出してしまっていたのです。身体すれすれに、きょうぼうな怪獣みたいな赤い車や黒い車が
走りぬけていきます。
(ゴーッ、ブーッ、ゴーッ)
ものすごい音,砂けむりがまい,カエルの小さな身体なんてふきとばされそうです。
「ポン太あぶない。こっちに来い」
「とぶんだ,ポーンととべ」
仲間が大声でさけびます。しかしポン太は,石のように固まったまままったく動けません。
こわくておそろしくて、ただ頭をかかえてふるえているしかできません。このままでは,
車にひかれるのは時間の問題です。ああ,かわいそうなポン太。みんながいきを飲みこんだ、
その時でした。
「あ,ママ。こんなところにカエルがいる。これじゃ,車にひかれちゃうよね」
かわいい子どもの声が,けたたましい車の音にまじって聞こえてきたのです。
「そうよね,健ちゃん。助けてあげましょうよ」
次のしゅんかん、何か大きくてやわらかい白いものがニューッとのびてきて、ポン太の身体は,フワーッと
ちゅうにうきあがりました。
「ワッ、助けてくれえ」
ポン太はびっくりぎょうてん。手足をバタバタさせてにげようとあばれます。
「それ,ポーン」
(キャーッ)
「車に気をつけるんだよー。バイバーイ」
空中をいきおいよく飛んだポン太は,田んぼにポチャンと落ちました。
「よかったなあ」
「こわかったね」
何台もの車が,そんな小さな出来事に目もくれず,スピードをあげて走り去っていきました。
「こわかったね」
「ああ、とっても」
「あの男の子が助けてくれたんだね」
「うん」
「あの子はだれだろう」
「健ちゃんさ。向こうの赤い屋根のお家の健ちゃんさ」
「赤い屋根のお家,健ちゃん・・・」
いつの間にか夕陽につつまれた田んぼは,サワサワとしずかな音を立て、ただゆれているばかりでした。
でもポン太は,そのことをわすれていなかったのです。だから今日の朝,仲間のだれかが
「健ちゃんがかぜを引いたらしいよ」
と言った時,心配で,すぐに家までようすを見にやってきた、というわけなのです。
「これでもうだいじょうぶ。明日の朝には元気になっていますよ」
「ありがとうございます。健ちゃん,よくがんばったわね」
お母さんのホッとした声が聞こえます。
「えらかったよ。カエルのおかげかな」
おじいさん先生が,ちゅうしゃきをかばんにしまいながら、歯のかけた口を大きくあけてわらっています。
健ちゃんは,お母さんのむねに顔をうずめたまま。でももう泣いてはいません。
庭のすみっこで
「ゲロッ」
と声がしました。
でも今度は,さっきよりもちょっとやさしい声に聞こえます。
手のひらみたいな大きな葉っぱの下から、何かがピョーンと飛び出しました。そのまま田んぼ目ざして
一直線。ポン太です。強い陽ざしが,カラカラにかわいた背中をチクチクさします。
けれどもちっともいたくないのはなぜでしょう。健ちゃんもお母さんも,ポン太が庭のすみっこで,
ずっと見ていたなんて知りません。もしかしたら,散歩道でカエルを助けたことだって,
わすれてしまっていたかもしれません。でもそんなことは,ポン太にはどうでもいいのです。
ただ健ちゃんが,きらいなちゅうしゃをがまんしてくれたことがうれしかったのです。
それだけで幸せな気持ちになれたのです。
しばらくして,向こうの田んぼの水が,ポチャンとかわいい音を立てたのが,風に乗って
ぼくの耳に聞こえてきました。
真っ青な空にかがやく田んぼから
「ゲロゲロゲ」
サワサワサワ、かぜと遊ぶ田んぼから
「ゲロゲロゲーロ」
カタカタカッタン、水車の回る田んぼから
「ゲロゲロゲッゲッゲー」
にぎやかなカエルの大合唱が,今日も聞こえる夕ぐれです。