宗谷(地領丸) 4
雲霞のごとく空を埋め尽くすアメリカ軍機の姿を見て、私は今度こそ本当にダメだろうと観念しました。数日前までその威容を誇っていた連合艦隊の姿はなく、環礁内にいるのは私のような特務艦や中小艦艇、そして輸送船だけです。軍艦がいないとなれば、それらに敵機が攻撃を仕掛けてくるのは必至です。
本来なら環礁を守るはずの戦闘機隊は、警戒が解除されているせいか中々飛び立たず、ようやくポツポツと離陸していきましたが、高度を上げないうちに次々とグラマンに食いつかれ、空しく撃墜されていくだけでした。
そして惨劇が幕を開きました。米軍機はまず飛行場に攻撃を開始し、離陸前の航空機を次々と破壊していきました。
後に聞いた話ですが、竹島の戦闘機隊はパイロットの殆どが前日夜に催された上官の送別会のため夏島にいたそうです。彼らは空しく対岸の竹島の飛行場が蹂躙され、自分たちの戦闘機が破壊されていくのを見ているしかなかったそうです。中には泳いで竹島へ渡ろうとした人もいたそうですが、敵機の機銃掃射の前に次々と斃れたと聞きます。
飛行場への攻撃が開始されると共に、間もなく私たち停泊中の艦船にも敵機は襲い掛かりました。もちろん各船は必至に抵抗します。しかし、商船に積んである武装など大した物ではありません。特に対空火器自体を積んでいない船もありました。おまけに各船とも錨を上げる余裕すらなく、停泊したままでの戦闘という不利な状況に置かれたのです。
大した武装も無く、動けない船などただの的です。高速で動き、天空から爆弾や魚雷を投下し、機銃掃射を行う航空機に対して抗う術などあろう筈がありません。
停泊中の艦船は次々と敵機の攻撃を受けて、被弾炎上しました。
「愛国丸」、「伯耆丸」、「第三図南丸」、「富士山丸」、「平安丸」。平時だったらその優美な姿を誇り、世界中を走り回り寿命を全うする筈の船たちが、こんな所で無様に沈められてしまうなんて。
もっとも、その時の私には他人を気にしている余裕などありませんでした。
「対空戦闘開始!!」
私に装備されているたった1基ずつしかない、8cm高角砲と25mm連装機銃が敵機に向けられて火を吹き、また艦長以下艦の操艦を掌る人間たちは、敵機の攻撃から逃れようと必死の操艦を開始しました。
この時、私はまたも幸運の女神に目を掛けてもらえました。私が停泊していたのは夏島の東側でしたが、そこは丁度浅いサンゴ礁と島に挟まれた海域で、敵の魚雷攻撃を受ける心配が全くない場所でした。
もちろん、止まっていたら良い的になってしまうので、艦長は一応私を走らせましたが、そのサンゴ礁と島に挟まれた安全な海面から出ることはせず、同じ所を間を行ったり来たりを繰り返す方法で敵の魚雷攻撃を完全に封じ込めました。
また爆弾に対しても、絶妙な操艦を行うことでなんとか全て避けきることができました。
しかしながら、戦闘機の機銃掃射に対してはどうにもなりません。こちらも反撃して1機を撃墜しましたが、敵弾によって砲術長をを含む10名の乗員が戦死し、さらに艦長も重傷を負いました。もちろん、私自身も被弾によって軽い怪我を負いました。
ですが私の場合はまだ良い方です。米軍機の攻撃で滅多打ちにされた船は、それはもう言葉に表せないほどに悲惨なものでした。特に兵員を沢山乗せたまま攻撃を受けた船は、それこそ船上は地獄絵図とも言える光景で、多くの兵士たちが悲しみの絶叫を上げながら死んでいきました。
また攻撃を受けた船自身も、血まみれになって死んでいきました。後から考えれば、なんと酷いことなんでしょうか。
そして私自身も危うく彼女たちの後を追いそうになりました。岩礁に乗り上げてしまい、身動きが取れなくなってしまったのです。
ですがそんな状況にあるにも関わらず、不思議と私には爆弾が命中することはありませんでした。ただし、先ほども申したとおり機銃掃射による被害はうけましたが。
その後、岩礁からの脱出を試みますが脱出不能となり、私は動けないまま空襲2日目を迎えました。しかし、この日も爆弾や魚雷を受けることなく、幸い船にとっては致命傷とならない上部構造物の機銃掃射だけで済みました。
ですがついにこの日の戦闘で高角砲弾も機銃弾も使いきってしまい、戦闘続行が不可能となりました。そのため大きな損傷が無いにも関わらず総員退艦命令が出され、全ての乗員が艦を離れました。
乗員が1人残らず降りてしまい、私は見捨てられたかのように感じました。一方で、これで私が沈められても誰も巻き添えにしなくて済むという、安堵に似た気持ちを抱いたのもまた事実です。
もはや動くことも、そして反撃することも出来ない私が米軍機によって沈められるのは時間の問題と思ったからです。
しかし、そのまま夜となり空襲は終わりました。真っ暗な筈の環礁の空を、炎上する船舶や地上の施設の火災が赤く彩っていました。まるでそれは、日本海軍の一大根拠地であるトラック島の終わりを告げているようでした。
私はただ1人、静かにその光景を眺めながら自分も明日には彼女らを追うんだろうと信じて疑いませんでした。
時間が経ち、徐々に潮が満ちてきました。すると、水位が上がって私の艦体も徐々に浮き上がり始め、ついには岩礁から外れてしまいました。乗員が退艦して重量が軽くなっていたのも幸いしました。
もちろん、乗員が1人残らず退艦した私は自己の力で動くことが一切出来ません。ただ潮の流れにのってリーフ内を漂うだけです。これではただの的です。
ところが、幾ら待てども予想した敵機の大編隊は一行に現われる様子がありません。私は昨日とはうって変わって穏やかになった環礁内の海をゆらゆらと潮の流れに任せて流れていくだけです。
こうなると、先ほどまでの死の覚悟もどこへやら、このまま流されてまた岩礁にでも乗り上げるのではないかと言う不安の方が大きくなって来ます。
ですがその不安は間もなく、ボートが私のほうに向かってくることで解消されました。私の漂流にようやく気づいた乗員たちが、私を再び動かすべく慌ててやって来たのです。
乗員たちは私に乗り移ると艦内をくまなく調べ、ボイラーに多少の漏洩があったものの、航行には全く支障がないことを確認しました。
もちろん、乗員たちが手を取り合って喜んだことは言うまでもありません。彼らの話を聞いたところでは、座礁した筈の私が消えて一時大騒ぎになったそうで、無事に浮かんでいる姿を確認でき、しかも損傷も小さいとなれば喜ぶのも当然と言えば当然ですよね。
こうして、私は2日間に渡るトラック大空襲を奇跡的に生き延びることが出来ました。この2日間の空襲で巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、輸送船32隻が撃沈され、さらに地上の航空機250機あまりが撃破されました。
かつては東洋のジブラルタルと言われたトラック環礁の基地施設も完膚なきまでに破壊され、二度と連合艦隊の基地として使われることはなかったそうです。
それ程激しい空襲を、元は商船で大した対空火器も持たない私が生き延びられたのは、幸運もあったでしょうが、最善の努力をした乗員の皆さんのお陰だとも考えています。
生き残った他の艦船たちと生きていることを喜び合い、その一方で沈んだ仲間への哀悼の意を捧げ、1ヵ月後私は横須賀へと向かいました。途中損傷したボイラーの修理のため小笠原に立ち寄ったりしながら、私は無事日本へと帰りつくことが出来ました。
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