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宗谷(地領丸) 3

 年が明けて昭和18年となりました。しかしながら新年となっても日増しに戦況は良くならず、それどころかガ島での我が軍の敗退で勢いに乗ったかのように、連合軍の攻勢は激しさを増していました。


 私は幸いここまで大きな損傷も無く来れましたが、先に逝った仲間たちの元へいつ逝ってもおかしくないと考えていました。


 そして1月28日、私はいつものようにブカ島のクイーンカロライン泊地で測量任務に就いていました。その時、嫌な視線を感じました。まるで誰かに殺意の眼差しを向けられているようなそんな感じでした。


 私は恐ろしさを感じずにはおれませんでしたが、それは艦魂にしかわからない視線。ですから艦上の乗組員の人たちは気づいていませんでした。


 ですが間もなく、乗組員の皆さんも私も凍りつきました。1人の兵士が血相を変えて叫んだのです。


「右舷後方に雷跡!!」


 見れば、4本の白い魚雷の排気ガスによって出来た雷跡が一直線に私目掛けて突き進んでくるではありませんか。もちろん、ブリッジでは回避のために艦長や航海士たちが命令を出し始めました。


「総員戦闘配置!!魚雷回避!!前進強速!!面舵一杯!!」


 舵手が舵を一杯に右へと回し、また兵士たちが次々と自分の持ち場へと走りました。しかし、時既に遅く魚雷は目前にまで迫っていました。特務艦とは言え、商船出身の私が魚雷を1本でも受ければ一溜まりもありません。


(あ、私死ぬんだ。)


 私は初めて死という物を感じました。


 そして4本の魚雷は確実に私へと食い込むコースを突き進んでいました。ようやく舵が利いたのか、船首が右へと回り始めましたが、もう手遅れです。


(死んだ・・・)


 そう思った瞬間、4回私の体に小さな痛みが走ると共に、ゴーン!と言う魚雷が船体に命中した音が1回、さらに至近の海面で爆発による大音響が響き渡りました。


 ところが、次に来る筈の強烈な痛みなどは一切伝わってきません。おそるおそる目を開けると、辺りは先ほどまでの様子と一切変わらず、衝撃に備えていた乗組員たちも唖然としていました。


(不発だったの?)


「ただ今の魚雷は全弾不発!1本が船体に食い込んでいます!」

 

 その報告に、私は腰が抜けそうになりました。魚雷の不発で死の淵から生還した仲間たちは知っていましたし、その時の体験も聞いたりしていましたが、まさか自分自身それによって恐怖を味わうと同時に命拾いするとは予想もしていませんでした。


 乗組員たちはすぐに魚雷が爆発しないように、そして浸水が広がらないように作業を始めました。


 そんな中で、またも兵士が叫びました。


「後方に潜望鏡発見!!」


「対潜戦闘!爆雷投下用意!」


 つい先ほどまで、追い詰められていた私たちは一転して潜水艦への反撃へと動きました。艦尾に装備されていた爆雷を、潜望鏡を発見した付近の海面に投下します。そしてしばらくすると、水中で爆雷による爆発がおき、海上にはそれによる水柱が何本も立ちます。


 乗組員たちは固唾を呑んでその様子を見守っていました。


 しばらくして、海面を確認していた兵士が報告します。


「海上に油膜と大量の気泡!!」


 潜水艦を撃沈すると、燃料の重油や艦内の空気が海上へと吹き上がってきます。ですから、この報告を聞いた誰もが敵潜水艦を撃沈したものと信じ、一斉に歓声を上げました。


 その後再度の襲撃も無く、不発の魚雷が戦利品として艦上に上げられ、乗組員の士気は一気に上がり、その日の夜はどんちゃん騒ぎとなりました。私も喜んで、酒を飲みながら歌う乗組員の姿を見て自然と心がウキウキしました。


 ただ、戦後知ったところでは、潜水艦は撃沈されていなかったそうです。それを聞いた時は、ちょっと残念でしたね。


 急死に一生を得た私は、その後も輸送任務などを帯びて走り続けました。


 昭和18年2月にはガダルカナル島からついに撤退となり、さらに4月18日には前線視察中の山本五十六連合艦隊司令長官が敵機の待ち伏せを受けて戦死すると言う報せも届き、戦局は日を追うごとに苦しくなっていました。


 艦船の損失も徐々に大きくなっていきました。敵の攻勢が激しくなるのに加えて、昭和18年下旬にはアメリカ海軍潜水艦の数も大分増えて、さらにそれまで不調で不発が多かった魚雷も改善されたことで、潜水艦の脅威が増大したためでした。


 どこどこの海域で潜水艦が現われたとか、昨日は○○丸が、今日は××丸が沈められたと言う情報が頻繁に届き、もはや太平洋はどこへ行っても危険な海と化していました。


 そんな中にあって、私は敵機や敵潜水艦の襲撃で大きく損傷することも無く、日々を過ごしていました。


 そして昭和19年2月17日、私は海軍の最大拠点であるトラック泊地に停泊していました。


 トラック泊地は巨大なさんご礁に囲まれ、艦隊の停泊地として絶好の場所であり、東洋のジブラルタルとさえ呼ばれていました。開戦以降着々と要塞として整備され、竹島をはじめとする島々には飛行場が作られ、まさに帝国海軍連合艦隊の要衝でした。


 しかし2月4日にアメリカ軍の偵察機と思われる爆撃機が上空に飛来し、さらに洋上索敵に出た偵察機が未帰還となったことで、敵による攻撃が懸念されました。


 そんな中で2月10日、突如として連合艦隊の旗艦である戦艦「武蔵」をはじめとする連合艦隊の主力艦隊は次々と錨を揚げ、泊地から出撃していきました。


 商船の乗組員の皆さんは、彼らが敵艦隊を撃滅するために出撃するという情報を真に受けて万歳をして彼らを見送りましたが、実際の所は敵の襲撃の可能性があるので内地やパラオへと後退したのでした。


 「武蔵」をはじめとする各艦の艦魂たちは、一応に申し訳ないような表情をしていました。また私たち残される側は、一抹の不安を胸に抱きながら、彼らの武運長久を祈って見送ったのです。


 前日の16日、偵察機が全て無事に帰還したことから敵機動部隊による襲撃はあり得ないとして、それまで島内に発令されていた警戒態勢は最も緩い第三警戒配備にされ、泊地上空を守る防空戦闘機隊も対空砲台も、そして停泊する艦船も完全に平時の態勢へと移行してしまいました。


 そして運命の朝、まだ夜も明けきらぬ午前4時半、環礁内にけたたましいサイレンの音が響き渡りました。空襲警報を伝えるサイレンです。


 それまで敵の襲撃など全く予想すらしていなかった兵士や商船の乗組員が慌てて持ち場へと走り、各船ではエンジンの始動が開始しされました。


 しかしながら、本来泊地を守るはずの戦闘機は一行に飛び立つ気配はなく、竹島などの飛行場に翼を休めたままでした。


 そんなテンヤワンヤの私たちの様子をあざ笑うかのように、上空に雲霞のごとく敵のグラマン戦闘機が現われました。70機近い大編隊です。甲高いエンジン音が空を覆いつくすように聞こえてきました。


「対空戦闘用意!!」


 私に積まれているたった1門の8cm高角砲と、同じくった1基の25mm連装機銃に兵士が取り付き、操作されて空を仰ぎます。他の艦船でも対空砲や対空機銃が一斉に空に向けられました。しかし、所詮は商船に過ぎません。各船に積まれている武装は両手で数えられる程度の数で、中には旧式の木の輪の車輪がついたほうが1門だけという船もいました。


 米軍機はそんな私たちに襲い掛かってきたのです。


「目標!敵グラマン戦闘機!撃ち方はじめ!!」


 襲い掛かってくる敵機に向かって、環礁内の艦船が一斉に発砲を開始しました。


 こうして、地獄の1日が幕を開けたのです。


 


 

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