宗谷(地領丸) 2
最初の目的地はマリアナ諸島のサイパンでした。今はアメリカ領ですけど、当時は第一次世界大戦で得た日本領で、現地の人に混じって日本人もたくさん住んでいました。島で一番大きなガラパンの街の賑わいは有名で、乗員の中には着く前から街で遊ぶ算段をしている人も多かったですね。
ただ小笠原諸島を超えて南下すると、ビックリするぐらい暑くなりましたね。ずっと北の海にいた私としては、最初は応える部分もありました。ただそれも、直に慣れましたけど。
サイパンに入港すると早速与えられた測量任務をこなし、それが終わると私はさらに南の海を南下しました。
広い太平洋はどこまで行っても水平線で、時折出会う船と挨拶を交わす以外は一人ぼっちの旅が続きます。数年後にはいつ潜水艦に襲われるかわからず、乗員の皆さんと一緒に緊張し、怯えながら航海しましたが、まだ戦争が始まる前のこの頃は、そんなことを気にする必要も無く、私はのんびりと旅を続けました。
夜になると北の海とは全く違う星空が広がり、その瞬きを眺めながら私は走りました。どこまでも続く広い海を、一人ぼっちで走るのは寂しいことでしたが、満点の星空はその気持ちを慰めてくれるようでした。
年が明け、昭和16年(西暦1941年)になりました。私は1月から11月まで断続的にポナペ島などの南方海域における測量任務に従事しました。内地と違い、文明の色は濃くありませんでしたが、その分美しい自然を楽しみながら、私は乗員の方たちと一緒に測量任務を黙々とこなしました。
ただし、そんなのんびりとした時間が長くは続かないこともわかっていました。時折出会う内地に向かう商船の中には、本土に帰ったら軍の徴傭を受けると話す人が徐々に増えていましたし、ラジオや新聞のニュースもアメリカやイギリスとの関係が急速に悪化しているのを伝えていました。
そして運命の12月8日、私は久しぶりに日本の横須賀に戻り、その日は停泊していました。そんな中で、ラジオが米英等の国々に日本が宣戦を布告したと言うニュースが流れてきました。
とうとう来るべき物が来たのか、と思いました。薄々は感じていたとは言え、やはり実際に戦争が始まったと聞かされると、何ともいえない不安のような気持ちを抱きました。それは間もなく入ってきた第一機動部隊によるハワイ真珠湾への奇襲成功や、陸軍のマレー半島上陸と言うニュースを聞いても晴れませんでした。
開戦の報を受け、私も早速出撃準備に入りました、最初の任務はトラック島への輸送任務でした。慌しく物資を積み込んだ私は、横須賀を再び離れて南の海へと向かいました。それまでの南洋行きとは違い、今度はいつどこで攻撃を受けるかわからない、不安だらけの航海となりました。
しかしながら幸いにも潜水艦の襲撃などもなく、私は無事年が明けたばかりのトラック島に入港しました。ラジオや味方からの通信でも我が軍は連戦連勝しているようでしたので、取り越し苦労だったかとさえ思いました。
ですが好事魔多しとはまさにこの時のことです。夜間停泊していると、敵の長距離爆撃機がやってきて爆弾を落としていったのです。命中弾はありませんでしたが、この時初めて戦争を身近に感じました。
それから間もなく、私は再び横須賀へと帰港しましたが、ここで新たなる辞令を受けました。新たな配属先は第4艦隊。当時ウェーク島やラバウル方面の攻略などを担当していた部隊です。
私はまたも南洋方面へと向かい、そこで測量任務を行うこととなりました。そして3月には初めて赤道を跨いで、我が軍が占領したばかりのラバウルに入港し、同港を中心とする南東「方面での測量を始めました。
後に、日米両軍の激しい戦場となるソロモン方面も、この頃はのんびりした物でした。戦争じゃなければ、それなりに楽しい航海になったんでしょうけどね。
けど現実は厳しい物でした。勝ち戦とは言われていましたが、戦っていることに変わりは無く、港に寄港したり、航行中に他の艦船と遭遇する度に、撃沈されて死んだ仲間のことを聞く機会がチラホラと耳に入ってくるようになりました。
南東方面での測量や輸送任務をこなしていた私ですが、6月には連合艦隊始まって以来の大作戦に参加することとなりました。
あの太平洋戦争の分岐点と言われたミッドウェー海戦です。私はミッドウェー島攻略部隊の一員として物資の輸送と、占領後の同島付近の測量を行うこととなりました。
この時点における日本は、完全に波に乗っていると言う状態でした。開戦以来向かう所敵無しの連戦連勝、乗員の皆さんや陸軍の兵士の皆さんも、連合艦隊が総力を上げて行うこの作戦に、全く不安を抱いていないようでした。
ハワイ奇襲以来破竹の進撃を行い、多大な戦果を挙げてきた第一機動部隊。そして世界最大最強の「大和」を含む連合艦隊主力部隊。負ける要素などどこにもないように見えました。
しかしながら、私を含む艦船の多くは彼らほど楽観的にはなれませんでした。開戦以来味方の船の損失も増えてきましたし、それに海軍の軍艦の艦魂を通して、我が国がかなり無理な戦争をしていることが、ある程度分かってきていたからです。
それでも、私たちは自分の意志で動くことの出来ない船魂。私たちを動かす人間を信じて、彼らと共に海の上で戦う以外に道は残されていませんでした。
運命の6月5日、私たちの船団は途中で小規模な空襲こそ受けた物の幸いにも沈没艦はなく、南雲中将の第一機動部隊、そして山本五十六大将直卒の連合艦隊主力部隊がミッドウェー島の敵を撃破し、上陸命令を出すのを、待っていました。
ところが、何時までたってもその命令は来ず、逆に敵機動部隊が現われ味方部隊に大きな被害が出たらしいと言う情報が入ってきました。
仲間たちと一緒に、「デマだ!」「もしかしたら本当かも?」「連合艦隊が負けるなんてありえませんわ!!」等と話し合っていましたが、それ以上のことはわからないまま撤退命令を受けました。
この瞬間、私たちは連合艦隊に尋常ならざる事態が起きた事を悟ったのです。そしてそれは内地に帰って現実の物だとわかりました。
第一機動部隊にそれなりの被害が出たとは予測していました。ところが、私が他の艦から聞いた内容は想像を絶していました。
第一機動部隊の壊滅、しかも開戦以来活躍してきた4隻の大型空母を全て喪い、敵に与えた損害は1隻だけという完全なる大敗北。
それを聞いた時、開戦以来感じていた不安が急激に心の中に広がっていくかのようでした。
それでも戦争は続きます。ミッドウェーでの大敗は国民に隠され、海軍内でも緘口令が敷かれました。私たち艦魂は、艦魂同士の交流でその真実を知ることが出来ましたが、それを人間に伝えることは出来ませんでした。
8月、米軍は本格的な反攻を開始しました。同月の7日にソロモン諸島のガダルカナル島に米海兵隊が上陸し、日本軍はその奪還へと動き始めました。私もそのための増援部隊を輸送する準備に入り、甲板上に大発を搭載し、あとは逆上陸部隊をガ島へ連れて行くだけとなりました。
ところが、同じ任務に従事した海軍徴傭船の「明陽丸」が潜水艦に沈められたため、私は引き返すこととなりました。このお陰で、私は命拾いすることとなりました。もしあの時低速の私が突っ込んでいたら、恐らく多くの船と同じくソロモンの海に沈んでいるところでした。
危うい所で助かった私は一旦横須賀へ戻った後、9月には再びラバウルに進出しました。多くの船がガダルカナルへ向かい二度と帰らず、あるいは傷ついて帰って来る中、輸送任務に借り出されることもなく、測量任務をこなす日々を送りました。
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