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宗谷(地領丸) 1

 私が生まれたのは昭和13年の6月10日、もう70年以上も前のことです。長崎にある香焼島川南造船所で、私は産声を上げました。と言っても、船である私の声を聞いてくれる人なんていませんでしたけどね。


 その時の私は、船体全体が真っ黒に塗られていて、名前もまだ今の「宗谷」じゃなくて、「ボロチャベツ」と言うロシア名でした。船である私が知る由もないことでしたが、私は姉妹2人と共に当時のソ連から日本に発注された船でした。


 大きさは4000総t弱しかない中型貨物船でしたけど、ロシアの寒い海でも使えるように、耐氷構造になっていたのが特徴であり、自慢でした。その頃は寒い海でも仕事が出来る位にしか考えていませんでしたが、これが後に私の運命を大きく変えるなんて、その時は思いもしませんでした。


 その年の内に私たち姉妹3隻は無事に完成し、後はソ連に引き渡されるだけの筈でした。ところが、時あたかも中国との戦争の真っ只中で、しかも工事が遅れていた私たちは結局ソ連には引き渡されないこととなりました。


 そんな私たちでしたが、私たちを作った川南工業と神戸にあった辰馬汽船が、私たちのためにわざわざ辰南汽船と言う会社を作ってくれたので、私たちは竣工早々根無し草と言う事態を避けられました。そして私たちは、辰南汽船に所属して祖国である日本のために働き始めました。


 この時の私の名前は「ボロチャベツ」から日本名の「地領丸」に変わっていました。船体も黒色から若草色に塗りなおされ、煙突には辰南汽船のマークが描かれていました。もちろん船尾には日本国籍であることを示す日の丸を掲げました。


 予定とはかなり違ってしまいましたが、とにかく私は船として働けることに誇りを感じながら、姉や妹たちとともに仕事に就きました。


 最初のお仕事は中国への荷物運びでしたが、その後は自慢の耐氷構造を生かして千島や樺太なんかにも行きました。北の海は波が荒く、さらに霧も多いため船長さんや乗組員の皆さんも神経を使う場所で、私も最初の頃はおっかなびっくり進んだものです。


 そうやって私たち姉妹は日々荷物や人を運ぶ、単調ながら幸せな毎日を送っていました。けど、乗組員や乗客の人たちの話す話や、ラジオの放送から中国での戦争は終わる気配がないようでしたし、アメリカやイギリスとの関係も悪くなっているようでした。


 そのことをちょっとばかり気にしたこともありましたが、私にできるのはひたすら荷物や人を運ぶことだけでした。


 港に入れば他の船の娘たちとお喋りに興じて、自慢の船員さんを紹介したり、嫌いな船員さんの愚痴を零したり、自分の行ってきた場所の話をしたりして盛り上がったりもしました。


 そんな平和な時間も、長くは続きませんでした。生まれて1年ほど経った昭和14年の11月、私は海軍に買い取られることとなったのです。もちろん、私がビックリしたのは言うまでもありません。


 後から聞いたことですが、当時の日本海軍は完成前から私の買収を計画していたそうです。その目的は、旧式化していた測量艦の代替艦と大量の物資を輸送できる輸送艦の確保にあり、また私の耐氷構造と搭載していた英国製の音響測深儀も魅力的に映ったからでした。


 こうして私は3人姉妹の中から1人海軍に移り、測量艦としての必要な改造工事を東京で受けて、特務艦(運送艦)として帝国海軍の一員になることとなりました。単なる商船に過ぎなかった私にとって、それは危険かつ大きな不安を覚えることでした。


 その後姉の「天領丸」(元「ボルシェビキ」)は昭和20年の5月に、妹の「民領丸」(元「コムソモ-レツ」)は昭和19年2月にそれぞれ撃沈されたと後から知りました。本来戦争をする軍隊に入った私が生き残ることとなり、商船のままだった姉と妹が死んでしまうとは、何と言う運命の皮肉でしょうか。


 さて、測量艦に改装された私には測量用の機械や部屋が新たに設置され、さらに8cmの高角砲と25mmの連装機関銃が搭載されました。それぞれたった1基ずつを設けただけでしたが、それでも大砲と言う物騒な物を乗せることに、私は随分緊張したものです。それと共に、本当に帝国海軍の一員になったのだと強く感じました。


 また艦体も商船時代の塗色から、他の軍艦の皆さんと同じ灰色の軍艦色となり、艦尾には16条の光線が美しい旭日旗(軍艦旗)を掲げました。


 そうして測量艦としての工事が終わった私は、新たに乗り込んできた海軍の兵隊さんたちとともに再び大海原へと出発したのです。


 名実共に心機一転した私に課せられた最初の仕事は、大湊経由で北上し、樺太及び千島方面での測量を行うことでした。懐かしい海へ戻れることに、そして久しぶりに顔なじみの友人たちに会えることに、私は喜びました。と同時に、初めての任務に緊張もしていました。


 測量は一見すると陽の当らない地味な仕事です。しかしながら、この測量がなければ海図は作れず、軍艦や商船たちは安心して海を走ることが出来ません。特に霧の多い北の海なら尚更です。


 私は兵隊さんたちと共に、汗を流しながら測量の仕事を一生懸命にがんばりました。


 北の短い夏が終わり、秋が訪れるころ私は測量の仕事を終えて横須賀へと呼び戻されます。休む間もなくの召喚に、軍隊は船使いが荒いなと思わずにはいられませんでした。しかしそこで私を待っていたのは、予想外の大仕事でした。


 昭和15年は皇紀に直すと2600年と言う記念すべき年です。このため、中国との戦争が長引き、米英各国との関係が悪化して国全体に暗い空気が漂う中、この時ばかりは国中で盛大な催しの数々が開かれました。

 

 そんな中で、海軍は天皇陛下御臨席の下で横浜沖で特別記念観艦式を催すこととなり、艦艇98隻と航空機527機が動員されました。そして私にも、一般人の見学者を乗せる拝観船としての名誉ある仕事が回ってきたのでした。


 私はこの時初めて、日本海軍が誇る連合艦隊の主力艦や航空部隊を目の当たりにし、乗船してきたお客さんたちとともに興奮したものです。また多くの艦や船の娘たちと出会うことが出来たのも印象に残っています。


 東京湾に整然と並んだ連合艦隊主力の横を、陛下の御召艦である「比叡」が通っていく時は、私たちも直立不動の姿勢をとり、礼をしてお見送りしました。


 しかしながら、このわずか5年後にはこの時参加した艦艇の多くが没し去り、観艦式を行った東京湾をアメリカ軍の艦艇が埋め尽くすなど、私たちは夢にも思いませんでした。それどころか、東京湾上のアメリカ戦艦で降伏調印を行い、事実上大日本帝国自体が崩壊するなど誰が予想できたでしょうか。


 そんなことも露知らず、私たちは久しぶりに開かれた観艦式に興奮して喜び、誰もがお祭り気分になっていました。


 楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去りました。私は観艦式での務めを終えましたが、お祭り気分の覚めない10月下旬に、今度は南洋諸島方面での測量任務を命じられました。私にとっては初めての南の海です。


 南の海の美しさについては、既に先輩や仲間たちから聞き及んでいました。そして観艦式の余韻も覚めていないだけに、私はそれこそ修学旅行にでも行くような気分になっていました。


 そして11月、慌しく出動任務を整えた私と乗組員たちは最初の目的地であるマリアナ諸島のサイパンに向けて出港しました。後に多くの同胞たちの命を飲み込むこととなる南洋へと、この時私は歩み始めたのでした。

 

 

 御意見・御感想お待ちしています。


 なお当作品は作者が一人称練習を兼ねて書くものであり、他の作品との更新の兼ね合いから更新間隔は長くなりますので、あしからず。

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