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学校一の完璧な優等生に「私を惚れさせてから振って」と頼まれた――どうやら彼女は、最初から俺が好きだったらしい

作者: 雨城 光
掲載日:2026/09/22

一話完結です。

少し曇らせ要素を含みますが、最後はハッピーエンドです。

白峰黒羽は、誰にでも優しい。


「ありがとう、白峰さん。本当に助かった!」


「気にしないでください。私もちょうど手が空いていましたから」


 放課後の教室で、白峰は頼まれていたらしいプリントの束を女子生徒へ手渡した。


 艶のある黒髪が肩から流れ、柔らかな笑みが浮かぶ。整った顔立ちを鼻にかけない、親しみやすい優等生。それが、クラスにおける白峰黒羽の評価だった。


「白峰さんって、本当に何でもできるよね」


「そんなことありませんよ。できないことの方が多いです」


「またまたー」


「本当です。たとえば、皆さんの期待を断ることとか」


 少し困ったように笑う。相手を責めず、それでいて次からの遠慮を促す、実に巧妙な言い回しだった。


 頼み事をした女子生徒は「ごめん、次は自分でやるね」と反省しながら、満足そうに教室を出ていった。


 あれを天然でやっているなら聖人だし、計算しているなら相当性格が悪い。


 俺は後者だと知っている。


「灰谷くん」


 白峰が俺の机の前へ来た。


「申し訳ありませんが、放課後に少しお時間をいただけますか?」


「もう放課後だ」


「では、今から少しお時間をいただけますか?」


「用事がある」


「悠人、今日まっすぐ帰るって言ってなかった?」


 斜め前の席から、桃瀬ひまりが元気よく口を挟んだ。


 机に頬杖をついた俺を、丸い瞳が面白そうに覗き込んでいる。肩まである明るい茶髪が、動きに合わせて揺れた。


「帰るという用事がある」


「それ、用事に入るの?」


「俺の予定表では最優先だ」


「灰谷くん」


 白峰は笑顔を崩さなかった。


「来てくださいますよね?」


 疑問形だが、選択肢が用意されている声ではなかった。


「……五分で済ませろ」


「ご理解が早くて助かります」


「え、何? 告白?」


 ひまりが勢いよく立ち上がる。


「それなら私も聞きたい!」


「どうしてお前が参加するんだ」


「白峰さんみたいな美少女から告白される幼馴染を、保護者として見届ける義務があるから!」


「いつから俺の保護者になった」


「小学校五年生から」


「初耳だ」


 白峰は口元に手を添え、可愛らしく笑った。


「ご安心ください。桃瀬さんが心配するようなお話ではありませんよ」


「そうなの?」


「はい。ほんの少し、灰谷くんにお願いがあるだけです」


 嘘ではない。


 ただし、この女の「ほんの少し」は信用に値しない。


 ひまりが不満そうに帰り、他の生徒たちも教室から出ていく。


 やがて廊下の話し声も遠ざかり、教室には俺と白峰だけが残された。


 白峰は廊下へ顔を出し、左右を確認した。後ろ手に扉を閉める。


 かちり、と音がした。


 同時に、その頬から笑顔が消えた。


「遅い。何分待たせるつもり?」


「三分二十秒」


「具体的な数字を尋ねているんじゃないの」


「なら質問の仕方が悪い」


「あなた、本当に腹が立つわね」


 これが白峰黒羽の本性——という言い方を、俺はあまり好まない。


 教室で笑っていた白峰も、目の前で俺を睨んでいる黒羽も、どちらも本人だ。


 ただ、こちらの黒羽を知っている人間は、おそらく俺しかいない。


 そうなったのは、去年の文化祭準備がきっかけだった。


「それで、何の用だ」


「そこに座って」


「立ったままでいい」


「これから大切な話をするの。五分で帰ろうとしないで」


「さっき五分で済ませろと言った」


「了承した覚えはないわ」


 さすが優等生。都合の悪い会話を忘れる能力まで優秀だった。


 俺が諦めて椅子へ戻ると、黒羽は向かいの席を引き寄せた。鞄から数枚の紙を取り出し、机の上へ置く。


 一枚目には、こう書かれていた。


『恋愛感情形成および失恋経験に関する協力契約書』


 俺は紙を裏返した。


「断る」


「まだ一文字も読んでいないでしょう」


「題名だけで十分だ」


「読んで」


「嫌だ」


「読まないと、あなたが授業中に寝ていた回数を、担任へ日付入りで提出する」


「契約書より脅迫状を作る方が向いてるんじゃないか?」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 仕方なく紙を戻す。


 甲(灰谷悠人)は、乙(白峰黒羽)を甲自身に惚れさせるため、二週間にわたり誠実な努力を行うこと。期間中、双方は恋人に準ずる交流を行うこと。期間最終日、乙は甲へ告白し、甲は必ずこれを拒絶すること——。


 最後まで読んでも、意味は変わらなかった。


「頭でも打ったか?」


「失礼ね」


「なら病院を紹介してやる」


「私は正常よ」


「正常な人間は、自分を惚れさせて振れなんて頼まない」


 黒羽は脚を組み、背筋を伸ばした。こうして黙っていれば、学校中が憧れる完璧な美少女だ。


「恋愛は人間の判断能力を著しく低下させるそうよ」


「お前の判断能力はすでに低下してる」


「最後まで聞きなさい」


「聞いても改善の見込みがない」


 机の下で足を蹴られた。


「私は来年、県外の高校へ転入する予定なの」


 初耳だった。


 どうやら黒羽は、全国でも名の知られた全寮制高校の特待生選考に通ったらしい。来春から一年間、県外にある提携校の特別課程へ参加することになる。


「ずいぶん急だな」


「以前から準備していたもの。誰にも話していなかっただけ」


「それと失恋に何の関係がある?」


「環境が変われば、人間関係も変わる。将来、恋愛で判断を誤らないために、一度くらい安全な失敗を経験しておきたいのよ」


「安全な失恋?」


「最初から振られると分かっていれば、必要以上に傷つくこともないでしょう?」


 理屈は整っている。


 整いすぎていた。


「何で俺なんだ」


「暇そうだから」


「帰る」


「待ちなさい」


 立ち上がった俺の袖を、黒羽が掴んだ。


「あなたは私の素を知っている。それでも態度を変えなかった。実験相手として都合がいいの」


「性格が悪いのは最初から分かってた」


「その無気力な顔、窓から投げ捨ててあげようか?」


「品を忘れてるぞ」


「上品に投げ捨てるから安心して」


 指先は袖を強く掴んでいる。


 けれど、俺の目を見ようとはしない。


「期限は?」


「二週間後」


 契約書の日付を見る。


 俺の誕生日だった。


「本当に、俺が振れば終わりなんだな?」


「ええ」


「理由を聞いても、お前は正直に答えない」


「今、答えたでしょう」


「そういうことにしておく」


 黒羽が不機嫌そうに目を細める。


 俺は机の上のペンを取り、契約書の下へ名前を書いた。


「……本当に引き受けるの?」


「意外そうな顔をするなら頼むな」


「あなたなら、断ると思っていたから」


「だったら、どうするつもりだった?」


「もう少し卑劣な手段を使う予定だったわ」


「聞かないでおく」


 契約書を鞄へしまう黒羽の指先は、もう震えていなかった。


「言っておくけれど、手加減は必要ないわ」


「何の話だ?」


「私を、本気で落として」


 挑むように言ってから、黒羽は俺より先に教室を出た。


 取り残された俺は、窓の外へ視線を向ける。


 夕焼けを背負って歩く彼女の表情は、もう見えなかった。


     ◇


「悠人、おはよう!」


 翌朝、昇降口で背中へ衝撃を受けた。


「重い」


「女の子に言ったら駄目な言葉ランキング、かなり上位!」


「鞄の話だ」


「私ごと乗ってるんだから同じでしょ」


 俺の肩から顔を出したひまりが、不満そうに頬を膨らませる。


「降りろ」


「教室まで運んで」


「歩け」


「幼馴染が朝から疲れてるんだよ? 優しさは?」


「家に忘れた」


「じゃあ帰りに取りに行こう。今日、悠人の家寄っていい?」


「駄目だ」


「えー」


 ひまりとは、小学五年からの付き合いだ。


 俺が何を言っても気にせず、こちらの予定も聞かずに入り込んでくる。人の領域へ侵入することに関しては、黒羽以上にたちが悪い。


「おはようございます、灰谷くん。桃瀬さん」


 教室へ入る直前、後ろから声をかけられた。


 白峰さんモードの黒羽が、鞄を両手で持って微笑んでいる。


「おはよう、白峰さん!」


「おはよう」


「灰谷くん。昨日お願いした件、覚えていますか?」


「忘れた」


「まあ。灰谷くんは冗談がお上手なんですね」


 笑顔が怖い。


「昨日のお願いって何?」


 ひまりが俺たちを交互に見る。


「大したことじゃない」


「大したことです」


 答えが重なった。


 黒羽が一拍置いて微笑み直す。


「委員会のお手伝いをお願いしたんです」


「悠人に? 人選間違えてない?」


「俺もそう思う」


「お二人とも、私の判断に何かご不満でも?」


「ない」


「ないです!」


 俺とひまりの声が揃う。


 黒羽は満足そうに頷き、先に教室へ入った。


「白峰さんって、やっぱりすごいよね」


「どこを見てそう思った」


「笑顔だけで悠人を黙らせたところ」


「あれは笑顔じゃない。警告だ」


 席へ着くと、スマートフォンが震えた。


『初日から予定を乱さないでもらえる?』


 送り主は黒羽。


『まだ何も始まってない』


『もう始まってる。今日の昼休み、屋上』


『寒い』


『上着を着なさい』


『面倒だ』


『屋上から落とされるのと、階段を上るの。どちらがいい?』


 返信を諦めてスマートフォンを伏せる。


「悠人」


 ひまりがこちらを見ていた。


「白峰さんと、何かある?」


「脅迫されてる」


「またまた」


 冗談ではないのだが、ひまりは楽しそうに笑った。


     ◇


 昼休みの屋上には、冷たい風が吹いていた。


「遅い」


「一分前だ」


「私を待たせた時点で遅刻よ」


「知らない規則を増やすな」


 黒羽はベンチへ座り、隣を指した。


 俺が一人分空けて腰を下ろすと、無言で詰めてくる。


「近い」


「恋愛感情の形成には、物理的距離を縮めることも重要よ」


「受け売りか?」


「昨日調べたの」


 鞄から二段重ねの弁当箱を取り出す。蓋を開けると、色鮮やかなおかずが隙間なく並んでいた。


「作ったのか」


「そうよ」


「いつ?」


「今朝」


「お前、何時に起きた?」


「五時」


「そこまでしなくていいだろ」


 黒羽の眉がわずかに動く。


「手を抜いて、私が惚れなかったら困るのはあなたでしょう?」


「俺が困るのか」


「契約不履行になるもの」


 弁当と一緒に、一枚の紙を渡された。


『恋愛感情形成計画』


 一、毎日一度は二人で食事をする。


 二、二人きりの際は下の名前で呼ぶ。


 三、放課後、最低三十分間行動を共にする。


 四、一週間以内に手をつなぐ。


 五、休日に一度、恋人を想定した外出を行う。


 六、最終日に黒羽が告白し、悠人がこれを拒絶する。


「恋に落ちる予定まで決めるのか」


「計画なしに結果が出ると思っているの?」


「恋愛に最も向いてない人間の発言だな」


「それをあなたが言う?」


 反論できないので、卵焼きを口に入れた。


 少し甘い。


「どう?」


「うまい」


 黒羽が瞬きをする。


「……それだけ?」


「感想文でも提出するのか?」


「もう少し、何かあるでしょう」


「味つけが俺の好みに合ってる。毎朝作るのは大変そうだが、これなら明日も食べたい」


「…………」


「何だ」


「あなた、そういうことを平然と言うのね」


「聞いたのはお前だ」


 黒羽は顔を背けた。風のせいではなさそうな赤みが、耳に差している。


「それから、今後は私を黒羽と呼んで」


「分かった、黒羽」


「……躊躇がないわね」


「呼べと言ったのはお前だ」


「もう少し段階を踏むという、人間らしい配慮はないの?」


「面倒だ」


「本当に可愛げがないわね。今のは無効。もう一度」


「何でだ」


「いいから」


「黒羽」


「……何?」


「呼べと言われたから呼んだ」


「分かっているわよ」


 黒羽は俯きながら、弁当の中身を箸で意味もなく移動させた。


 自分で作った計画に自分で翻弄されている。


 本当に、恋愛に向いていない。


     ◇


 それから数日、黒羽の計画はおおむね予定どおり進んだ。


 昼は一緒に弁当を食べた。放課後は駅まで歩いた。名前で呼び、時には黒羽の買い物にも付き合った。


 ただし、計画どおりに進まないこともある。


 その原因の大半は、桃瀬ひまりだった。


「二人で帰るの? 私も帰る!」


 昇降口で待っていた黒羽の横へ、ひまりが並ぶ。


「桃瀬さん。今日は灰谷くんと、委員会の仕事がありますので」


「私も手伝うよ!」


「結構です」


「三人なら早く終わるよ?」


「本当に、結構です」


 白峰さんの笑顔を維持したまま、声だけが冷えていく。


「でも悠人、委員じゃないよね?」


「細かいことを覚えてるな」


「幼馴染だもん」


 ひまりは俺の腕へ自分の腕を絡めた。


「というわけで、三人で帰ろ!」


 断るという概念が、ひまりの辞書には載っていない。


 黒羽は笑顔で頷いた。


「ええ。そうしましょう」


 その日の帰り道、黒羽はほとんど白峰さんのままだった。


 ひまりは小学校時代の話を次々と持ち出し、俺の過去の失敗を黒羽へ披露した。黒羽は楽しそうに笑いながら、時折こちらへ冷たい視線を投げる。


「悠人、飲む?」


 ひまりが買ったばかりのミルクティーを差し出した。


「いらない」


「一口だけ。新商品なんだよ」


「自分で飲め」


「感想を共有したいの!」


 押しつけられたので、一口だけ飲む。


 隣で小さな音がした。


 黒羽の持っていた紙パックが、中央からへこんでいた。


 ひまりが別れると、黒羽は白峰さんの笑顔を即座に消した。


「幼馴染だからって、距離が近すぎない?」


「そうか?」


「そうよ。あの子、自分が女だという自覚が足りないわ」


「何で怒ってる?」


「怒っていない」


「紙パックが死んでる」


「脆弱な容器を採用したメーカーの責任よ」


「ひまりが嫌いなのか?」


「嫌いとは言っていないでしょう。明るくて、素直で、誰にでも好かれる可愛い子だと思っているわ」


 褒めているはずなのに、声が険しい。


「お前も似たようなものだろ」


「白峰さんはね」


 黒羽は前を向いたまま答えた。


「私は、あんなふうには笑えない」


 その横顔は、なぜか寂しそうに見えた。


     ◇


 黒羽がひまりから恋愛相談を受けたことを、俺は知らなかった。


 後になって聞いた話だ。


 俺たちが三人で帰った翌日、昼休みの教室で、ひまりは黒羽を廊下へ連れ出したらしい。


「白峰さん、相談があるんだけど」


「私でよければ、もちろん」


「私ね。悠人の誕生日に、告白しようと思ってるんだ」


 白峰さんは、そこで一度だけ言葉を失った。


 けれど、ひまりが気づくより先に笑った。


「そうだったんですね。お二人なら、とてもお似合いだと思います」


「本当?」


「はい。幼馴染ですし、灰谷くんも桃瀬さんには心を許していますから」


 告白する場所を一緒に考え、プレゼントの相談にも乗った。


 ひまりが選ぼうとしていた派手な財布をやめさせ、俺が以前使いやすそうに眺めていた筆記具を勧めたのも、黒羽だったらしい。


「ありがとう、白峰さん。相談してよかった!」


「いいえ。頑張ってくださいね」


 ひまりは喜んで立ち去りかけた。


 だが、数歩進んだところで振り返った。


「白峰さんは、悠人のこと好きじゃないの?」


「……どうして、そう思うんですか?」


「好きじゃないなら、そんな悲しそうに笑わないと思うから」


 白峰さんの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。


「私と灰谷くんは、そういう関係ではありませんよ」


「そっか」


「信じるんですか?」


「ううん」


 ひまりは、明るく笑ったという。


「でも白峰さんが言わないなら、私は遠慮しないね」


     ◇


 土曜日、駅前の時計塔で黒羽と待ち合わせた。


 約束の十分前に着いたはずだが、黒羽はすでに待っていた。


 薄い色のニットに、膝下まである淡いスカート。学校で見る姿より柔らかく、清楚で、それでいてよく似合っている。


 俺に気づいた黒羽が、髪を耳へかけた。


「一分前。ぎりぎりね」


「九分前だ」


「私より後なら遅刻よ」


「横暴だな」


「それで?」


「何が」


「……何でもない」


 不機嫌そうに歩き出す。


「似合ってる」


 黒羽が止まった。


「綺麗だと思った」


「…………」


「何だ」


「そういうことは、もう少し照れながら言いなさい」


「聞きたそうだったから言った」


「あなたは情緒というものを学んだ方がいいわ」


 そう言いながら、黒羽の歩調は少しだけ軽くなった。


 デートプランは分刻みで組まれていた。


 映画を観て、予約していた店で昼食を取り、大型書店へ寄り、雑貨店を見て、夕方には人気のカフェへ行く。


「修学旅行のしおりか?」


「限られた時間を有効に使うためよ」


「十分ごとに移動時間まで書く必要があるか?」


「あなたを放っておいたら、映画館から出た時点で帰るでしょう」


 否定できない。


 映画館では、黒羽が恋愛映画の盛り上がる場面でこちらを窺っていた。視線を返すと、何事もなかったようにスクリーンへ向き直る。


 昼食では、俺が頼んだ料理の方を気にしていたので皿を交換した。黒羽は「別に欲しかったわけじゃない」と言いながら、きれいに完食した。


 書店では、互いに相手へ読ませたい本を一冊ずつ選んだ。


 予定どおりでなかったのは、雑貨店を出たあたりからだった。


「次はカフェよ」


 黒羽の声はいつもと変わらない。


 だが、歩幅が小さくなっていた。


「十分休む」


「必要ないわ。予約の時間が——」


「遅れると連絡すればいい」


「計画が崩れるでしょう」


「もう崩れてる」


 俺は黒羽の手首を掴み、通りから外れた小さな公園へ連れていった。


 ベンチへ座らせ、自動販売機で温かい紅茶を買う。


「はい」


「頼んでない」


「知ってる」


「勝手ね」


「お互い様だ」


 黒羽は紅茶を両手で包み、一口飲んだ。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


「気づいていたの?」


「朝から緊張してただろ。昼食もいつもより少なかった。靴も履き慣れてない」


 黒羽が足元を見る。


「そんなところまで見ないで」


「見せてるのはお前だ」


「みんな、今日の服は褒めてくれるわ。でも、靴が合っていないことまで気づく人はいない」


「全員、お前が見せたいものだけ見てるんだろ」


 黒羽が顔を上げた。


 薄い雲の切れ間から射した光が、その瞳に映っている。


「あなたは、どうして気づくの?」


「分かりやすいから」


「私が?」


「少なくとも、俺には」


 黒羽は何かを言おうとして、やめた。


 紅茶へ視線を落とし、小さく息を吐く。


「少しだけ、予定を変更してもいい?」


「好きにしろ」


「もう一度、さっきの雑貨店へ戻りたい」


 店内で、黒羽は小さな黒猫のストラップを手に取った。先ほども眺めていたものだ。


「欲しかったんだろ」


「子供っぽいかと思って」


「今さらだな」


「どういう意味?」


「弁当の仕切り、ウサギだった」


「見なかったことにしなさい」


 俺は黒猫の隣にあった、灰色の猫のストラップも手に取った。


「何をしているの?」


「契約期間中は恋人に準ずるんだろ」


 二つとも購入し、黒い方を黒羽へ渡す。


「安物だが」


「値段の話をするなんて、雰囲気がないわね」


「いらないなら返せ」


「一度贈ったものを取り返すなんて、育ちが悪いわよ」


 黒羽はすぐに鞄へストラップをつけた。


 その瞬間、俺のスマートフォンが震える。


 ひまりからだった。


『誕生日、絶対に空けておいてね!』


 画面を見た黒羽の表情が止まる。


 しかし次の瞬間には、きれいな笑顔が浮かんでいた。


「デートは成功ね」


「そうか?」


「ええ。これなら私も、予定どおりあなたを好きになれそう」


 黒羽は俺から視線を逸らし、歩き出した。


 鞄についた黒猫だけが、不規則に揺れていた。


     ◇


 デートの翌週、ひまりが俺たちを目撃していたことが分かった。


 これも後になって、黒羽から聞いた話だ。


 ひまりは黒羽を人気のない階段へ呼び出したらしい。


「白峰さん、昨日、悠人とデートしてたよね?」


「誤解です」


「じゃあ、手をつないでたのも誤解?」


「……見ていたの?」


 計画には、一週間以内に手をつなぐと書かれていた。


 黒羽が自分から手を差し出し、指先が触れた瞬間に引っ込めようとしたので、俺が掴んだ。その場面を見られたらしい。


「どうして、私に嘘をついたの?」


 ひまりは笑っていた。


 けれど、いつもの笑顔より少しだけ弱かった。


 黒羽は答えられなかった。


「私、白峰さんのこと好きだよ。でも、悠人のことも好き」


「…………」


「だから、譲ってあげるとは言えない」


「私と悠人は、そういう関係ではないわ」


 初めて、ひまりの前で敬語が消えた。


「恋愛の実験をしているだけ。最後には振ってもらう。そういう約束なの」


「何それ」


「あなたには関係ないでしょう」


「関係あるよ。私も悠人が好きだもん」


 ひまりのまっすぐな言葉に、黒羽は目を伏せた。


「……怖くないの?」


「何が?」


「振られるかもしれない」


「怖いよ」


 ひまりは即答した。


「めちゃくちゃ怖い。でも、振られる前から諦めたら、悠人を好きだった私に失礼だから」


 黒羽には言えない言葉だった。


 ひまりは一段下から、黒羽を見上げた。


「白峰さん。本当はもう、悠人が好きなんじゃない?」


「違う」


「じゃあ、どうして泣きそうなの?」


「泣いてない」


「うん。泣いてないね」


 ひまりは無理に暴こうとはしなかった。


「でも、逃げるなら私が悠人をもらうから」


 笑って宣言し、階段を駆け下りていった。


 残された黒羽は、鞄についた黒猫を握りしめた。


     ◇


 契約最終日。


 俺の誕生日。


 黒羽は朝から白峰さんだった。


「おはようございます、灰谷くん」


「おはよう」


「本日の放課後、お時間をいただけますか?」


「契約の話なら——」


「放課後にお願いします」


 俺の言葉を、柔らかな笑顔で遮る。


 昼休みも、黒羽は俺のところへ来なかった。


 弁当もない。メッセージも届かない。


 ひまりは普段どおり俺の隣で昼食を取りながら、ときどき黒羽を見ていた。


「悠人」


「何だ」


「今日の放課後、ちゃんと白峰さんと話してね」


「お前は?」


「私も悠人に用事あるけど、後でいい」


「そうか」


「……聞かないの?」


「聞いたら、今言うのか?」


「言わない」


「なら同じだ」


「そういうところ、本当に悠人だよね」


 ひまりは呆れたように笑った。


 放課後、黒羽が待っていたのは、最初に契約を交わした教室だった。


 机の上には小さな包みが置かれている。


「誕生日、おめでとうございます」


「ありがとう」


「開けてください」


 中に入っていたのは、革張りのブックカバーだった。以前、俺が書店で眺めていたものだ。


「よく覚えてたな」


「たまたまです」


「そうか」


「はい」


 会話が続かない。


 黒羽は姿勢を正し、胸の前で両手を重ねた。


 誰から見ても完璧な白峰さん。


 それなのに、鞄の黒猫だけが小さく震えている。


「灰谷くん」


「何だ」


「私は、あなたが好きです」


 用意されていた台詞のように、滑らかな告白だった。


「初めて二人で昼食を取った日から、あなたと過ごす時間が楽しみになりました。私の小さな変化に気づいてくださるところも、不器用に気遣ってくださるところも、今では大切に思っています」


 全部、本当なのだろう。


 だからこそ、嘘に聞こえた。


「契約どおり、私を振ってください」


 黒羽は制服のポケットから、四つ折りにされた紙を取り出した。


「何だ、それ」


「あなたの返答よ」


 開くよう促され、紙を受け取る。


 そこには黒羽の整った字で、短い文章が書かれていた。


『ごめん。白峰のことは好きになれない』


「これを読んで」


「俺が言う台詞まで決めたのか」


「あなたは余計なことを考えなくていい。書かれているとおりに読めば、それで全部終わるから」


「失恋に成功しようとするな」


「成功させなければ困るのよ」


 白峰さんは笑っている。


 俺が紙を持つ手だけを見つめている。


「早くして。待たされる方がつらいでしょう?」


「そうだな」


 俺は紙へ目を落とした。


「ごめん。白峰のことは好きになれない」


 読み上げた瞬間、黒羽の呼吸が止まった。


 ほんの一秒だった。


 それでも、俺には分かった。


「……はい」


 白峰さんは微笑んだ。


「短い間でしたが、ありがとうございました。灰谷くんのおかげで、とても有意義な経験ができました」


 机の上の包み紙を丁寧に畳み、鞄を肩へかける。


 俺の横を通り過ぎようとした。


「まだ終わってない」


 その手首を掴む。


「放して」


「俺が好きなのは、白峰さんじゃない」


 黒羽の肩が揺れた。


「今、きちんと聞きました。だから、もう——」


「口が悪くて、計画どおりにいかないとすぐ不機嫌になって、可愛いものが好きなくせに子供っぽいと隠して、俺のために朝五時から弁当を作る女だ」


 黒羽が、ゆっくり振り返る。


「……何を言っているの?」


「黒羽。お前が好きだ」


「やめて」


 黒羽は俺の手を振りほどこうとした。


「今さら、そんなことを言わないで」


「今さらじゃない」


「じゃあ、どうして契約なんて受けたのよ!」


「お前が初めて、俺に助けを求めたからだ」


「求めてない。これは実験で——」


「白峰」


「その名前で呼ばないで!」


 敬語が消えた。


 笑顔も消えた。


 黒羽は潤んだ瞳で俺を睨みつける。


「何も知らないくせに、全部分かったような顔をしないで」


「なら教えろ」


「教えたら、あなたは私を振ってくれるの?」


「それはできない」


「だったら話すことなんてない!」


 黒羽が鞄を抱きしめる。


 揺れた黒猫が、かすかな音を立てた。


「私は行くの。ここを離れる。ひまりは残る。あの子なら、あなたを一人にしない。毎朝迎えに来て、休日も外に連れ出して、あなたが何も言わなくても隣で笑っていられる」


「俺は一人でも困らない」


「そういう話じゃないでしょう!」


 黒羽の声が教室に響いた。


「私は、ひまりみたいにはなれない。可愛く笑うのも、素直に好きと言うのも、怖くても前に進むのも……全部、私にはできない」


「白峰さんは、できてる」


「あれは、そう見えるように努力しているだけよ!」


「努力してできるようになったなら、それもお前だ」


「そういうことを言わないで!」


 一滴、涙が頬を伝った。


「あなたは、いつもそう。私が隠しているものを勝手に見つけて、何でもないことみたいに受け入れる。そんなことをされたら、期待してしまうでしょう……!」


 黒羽は顔を覆うこともできず、俺を見つめたまま泣いた。


「好きだから終わらせたいの。好きなまま離れて、いつかあなたがひまりを選ぶのを待つなんて、耐えられない」


「だから俺に振られたかった?」


「そうよ。私は選ばれなかったんだって、最初から無理だったんだって、納得したかった」


「そのために、二週間も恋人ごっこをしたのか」


「一度くらい……」


 黒羽の声が震える。


「一度くらい、あなたに選ばれたつもりになりたかったのよ」


 俺は鞄から契約書を取り出した。


 署名の入った紙を広げる。


 黒羽が目を閉じた。


 俺は契約書を中央から破った。


 教室に、乾いた音が響く。


 さらに半分へ破り、机の上へ落とした。


「……何をしているの?」


「依頼は失敗だ」


「どうして破るのよ」


「俺はお前を惚れさせてない。お前は最初から俺に惚れてた」


「そんな屁理屈を聞いてるんじゃない!」


 黒羽は机へ駆け寄り、破れた紙を拾い集めようとした。


「返して。まだ終わってない。もう一度、最初からやり直せば——」


「終わりだ」


 紙片へ伸びた手を、上から掴む。


「どうして……!」


「失恋に成功しようとするな」


「私は、これがあったから今日まで耐えられたの!」


 その言葉が落ちたあと、黒羽自身が息を呑んだ。


「最後にあなたと一緒にいられる。最後にはきちんと振ってもらえる。そう決まっていたから、勘違いせずに済んだ。全部予定どおりなら、期待しないで済んだのに……!」


「もう期待してるだろ」


「してない!」


「なら、俺が好きだと言っても困らない」


「それは……今の私が可哀想だからでしょう?」


 黒羽の声が急に弱くなる。


「泣いた女を振れなくなっただけ。あなたは、困っている人間を放っておけないから」


「クラスには、困ってるやつが大勢いる」


「…………」


「俺が毎日一緒に弁当を食べて、放課後に付き合って、休日まで外へ出たのはお前だけだ」


「それは契約が——」


「お前が俺に好かれる努力をするより前から、俺は黒羽が好きだった」


 黒羽が首を横に振る。


「嘘」


「覚えてないか。去年、文化祭の準備で、お前が一人で教室に残ってた日」


 黒羽の動きが止まった。


 クラス全員から頼まれた作業を引き受け、夜まで一人で装飾を作っていた。


 机に伏せて眠っていた白峰さんへ声をかけたとき、返ってきたのは可愛らしい笑顔ではなかった。


『見て分からない? 疲れてるの。用がないなら帰って』


 それが、俺が初めて黒羽に会った日だった。


「他のやつには笑ってたお前が、俺にだけ本気で腹を立てた」


「あのときは、余裕がなかっただけよ」


「知ってる。だから信用できた」


「性格の悪いところを見て、好きになったって言うの?」


「白峰さんは、全員に好かれる努力をしてる。黒羽は、俺に好かれる努力を何もしてなかった」


「悪かったわね」


「だから、黒羽を好きになった俺の気持ちは、お前の計画じゃない。俺が勝手に決めたことだ」


 黒羽の頬から、また涙が落ちた。


「でも、ひまりの方が——」


「俺の気持ちまで勝手に決めるな」


 少し強く言うと、黒羽が口を閉じた。


「ひまりがお前より長く俺を知っていることと、俺がお前を好きなことは別の話だ」


「あの子は、あなたをずっと好きで——」


「それを言い訳に使うのは、ひまりにも失礼だ」


「…………」


「お前はひまりのために譲るんじゃない。自分が傷つくのが怖いから、逃げようとしてるだけだ」


「悪い?」


 黒羽が睨み返してきた。


「怖いのよ。離れたあともあなたを好きでいることも、いつか嫌われることも、信じたのに捨てられることも、全部怖い。だったら、どうすればよかったのよ!」


「普通に告白すればよかった」


「そんなこと、できるわけないでしょう!」


「なら、今しろ」


「さっきしたじゃない」


「あれは失恋するための告白だ」


 掴んでいた手を放す。


「契約でも、実験でもない。白峰さんでもない。黒羽として言え」


「……言ったら、選んでくれるの?」


「それを聞く前に言うのが告白だろ」


「本当に、意地が悪い」


「お互い様だ」


 黒羽は俯いた。


 何度か唇を開いては、声にできずに閉じる。


 俺は急かさなかった。


 外では運動部の掛け声が響いている。西日が教室を少しずつ橙色へ変えていく。


「……悠人が好き」


 ようやく聞こえた声は、白峰さんの告白よりずっと小さかった。


「うん」


「離れたくない」


「うん」


「ひまりに渡したくない」


「俺は物じゃない」


「今くらい黙って聞きなさいよ」


「悪い」


 黒羽は涙を拭い、まっすぐに俺を見た。


「私を選んで」


「最初から、そのつもりだ」


 俺は一度、息を吸った。


「白峰さんも、黒羽も、どちらも好きだ。俺と付き合ってほしい」


「……白峰さんはいらないって、言ったくせに」


「訂正する。あれも、お前が努力して作った大事な一部だ」


「今さら遅い」


「駄目か?」


「駄目とは言ってない」


 黒羽は俺の制服の胸元を掴んだ。


 強気に引き寄せたくせに、唇が触れる直前で動きを止める。


 近すぎる距離で、黒羽の瞳が揺れていた。


「これは、契約に含まれる?」


「契約書は破った」


「そう」


 黒羽の指先に、少しだけ力がこもる。


「なら、私がしたいからする」


 それでも動かない。


「どうした」


「……目を閉じて」


「何で」


「見られていたら、できないから」


 言われたとおり目を閉じる。


 すぐには何も起こらなかった。


 逃げたのかと思った瞬間、甘い呼吸が頬へ触れる。


 次いで、柔らかな唇が重なった。


 ほんの短い接触。


 けれど、離れたあとも黒羽は俺の制服を放さなかった。


 額を胸元へ押しつけ、隠すように顔を伏せる。


「……遠距離でも、好きでいてくれる?」


「お前が毎日確認するんだろ」


「する。朝と夜にする」


「多い」


「ビデオ通話も週に三回」


「増えたぞ」


「嫌?」


 制服を掴む指が、わずかに震えた。


「面倒だ」


「……そう」


「でも、その面倒を引き受けるって言ってる」


 黒羽は顔を上げた。


 涙の残った、不格好な笑顔。


 学校の誰にも見せない、俺だけが知っていた笑顔だった。


「悠人」


「何だ」


「もう一度、して」


「今度は契約か?」


「恋人としての命令よ」


「交際初日から横暴だな」


「嫌なら断れば?」


「断らない」


 今度は俺から、黒羽へ顔を寄せた。


 黒羽は逃げずに目を閉じる。


 二度目のキスは、最初より少しだけ長かった。


     ◇


 翌朝、校門の前でひまりが待っていた。


「悠人、おはよう!」


「おはよう」


「昨日渡せなかったから。誕生日プレゼント!」


 差し出された細長い箱を受け取る。


「ありがとう」


「大事に使ってね。白峰さんと一緒に選んだんだから」


 その言葉に、俺はひまりを見た。


 ひまりはいつもと同じように笑っている。


「桃瀬さん。おはようございます」


 背後から黒羽が来た。


 白峰さんの笑顔。だが、迷うことなく俺の隣へ立つ。


 ひまりは俺たちを交互に見た。


 そして、俺の鞄についた灰色の猫と、黒羽の鞄についた黒猫へ目を落とした。


「そっか」


 ほんの一瞬だけ、その笑顔が曇る。


「二人、付き合ったんだ」


「……はい」


 黒羽が答えた。


「桃瀬さん、その——」


「謝らないで」


 ひまりは黒羽の言葉を遮った。


「私、まだ悠人に告白してないし、振られてもいないから」


「それは、どういう意味ですか?」


「二人が別れたら、次は私の番!」


「別れません」


「白峰さん、笑顔が怖いよ」


「気のせいですよ、桃瀬さん」


 ひまりは黒羽の顔をじっと見つめた。


「ねえ。二人きりのときは、そんな喋り方じゃないんでしょ?」


「……何のことですか?」


「昨日、一回だけタメ口になったよね」


「気のせいです」


「悠人は何て呼んでるの?」


「白峰」


「悠人」


 低い声で呼ばれた。


「あ、今の喋り方!」


 ひまりの顔が輝く。


「じゃあ私も、黒羽ちゃんって呼んでいい?」


「よくないわ」


「わあ、本当に変わった! 黒羽ちゃん!」


「ちょっと、抱きつかないで!」


「黒羽ちゃん、可愛い!」


「悠人、この子をどうにかして」


「無理だ」


「即答しないで!」


 黒羽に抱きついたまま、ひまりが俺を見た。


 いつもの明るい笑顔だった。


 けれど、泣いた後のように目元がわずかに赤いことには、気づかないふりをした。


 きっと昨夜、今日も笑っていられるようになるまで、一人で泣いたのだろう。


 白峰黒羽を惚れさせ、告白されたら振る。


 そんな面倒な依頼は、無事に失敗した。


 代わりに、もっと面倒な恋人ができた。


 ついでに、その恋人を狙う幼馴染まで居座ることになった。


 省エネとは程遠い高校生活になりそうだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


黒羽とひまり、どちらを応援したくなったか、感想で教えていただけると嬉しいです。


面白かったと思っていただけましたら、評価やブックマークをいただけると今後の励みになります。

反響があれば、悠人と黒羽の交際後や、まだ諦めていないひまりを描いた続編も投稿予定です。

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