学校一の完璧な優等生に「私を惚れさせてから振って」と頼まれた――どうやら彼女は、最初から俺が好きだったらしい
一話完結です。
少し曇らせ要素を含みますが、最後はハッピーエンドです。
白峰黒羽は、誰にでも優しい。
「ありがとう、白峰さん。本当に助かった!」
「気にしないでください。私もちょうど手が空いていましたから」
放課後の教室で、白峰は頼まれていたらしいプリントの束を女子生徒へ手渡した。
艶のある黒髪が肩から流れ、柔らかな笑みが浮かぶ。整った顔立ちを鼻にかけない、親しみやすい優等生。それが、クラスにおける白峰黒羽の評価だった。
「白峰さんって、本当に何でもできるよね」
「そんなことありませんよ。できないことの方が多いです」
「またまたー」
「本当です。たとえば、皆さんの期待を断ることとか」
少し困ったように笑う。相手を責めず、それでいて次からの遠慮を促す、実に巧妙な言い回しだった。
頼み事をした女子生徒は「ごめん、次は自分でやるね」と反省しながら、満足そうに教室を出ていった。
あれを天然でやっているなら聖人だし、計算しているなら相当性格が悪い。
俺は後者だと知っている。
「灰谷くん」
白峰が俺の机の前へ来た。
「申し訳ありませんが、放課後に少しお時間をいただけますか?」
「もう放課後だ」
「では、今から少しお時間をいただけますか?」
「用事がある」
「悠人、今日まっすぐ帰るって言ってなかった?」
斜め前の席から、桃瀬ひまりが元気よく口を挟んだ。
机に頬杖をついた俺を、丸い瞳が面白そうに覗き込んでいる。肩まである明るい茶髪が、動きに合わせて揺れた。
「帰るという用事がある」
「それ、用事に入るの?」
「俺の予定表では最優先だ」
「灰谷くん」
白峰は笑顔を崩さなかった。
「来てくださいますよね?」
疑問形だが、選択肢が用意されている声ではなかった。
「……五分で済ませろ」
「ご理解が早くて助かります」
「え、何? 告白?」
ひまりが勢いよく立ち上がる。
「それなら私も聞きたい!」
「どうしてお前が参加するんだ」
「白峰さんみたいな美少女から告白される幼馴染を、保護者として見届ける義務があるから!」
「いつから俺の保護者になった」
「小学校五年生から」
「初耳だ」
白峰は口元に手を添え、可愛らしく笑った。
「ご安心ください。桃瀬さんが心配するようなお話ではありませんよ」
「そうなの?」
「はい。ほんの少し、灰谷くんにお願いがあるだけです」
嘘ではない。
ただし、この女の「ほんの少し」は信用に値しない。
ひまりが不満そうに帰り、他の生徒たちも教室から出ていく。
やがて廊下の話し声も遠ざかり、教室には俺と白峰だけが残された。
白峰は廊下へ顔を出し、左右を確認した。後ろ手に扉を閉める。
かちり、と音がした。
同時に、その頬から笑顔が消えた。
「遅い。何分待たせるつもり?」
「三分二十秒」
「具体的な数字を尋ねているんじゃないの」
「なら質問の仕方が悪い」
「あなた、本当に腹が立つわね」
これが白峰黒羽の本性——という言い方を、俺はあまり好まない。
教室で笑っていた白峰も、目の前で俺を睨んでいる黒羽も、どちらも本人だ。
ただ、こちらの黒羽を知っている人間は、おそらく俺しかいない。
そうなったのは、去年の文化祭準備がきっかけだった。
「それで、何の用だ」
「そこに座って」
「立ったままでいい」
「これから大切な話をするの。五分で帰ろうとしないで」
「さっき五分で済ませろと言った」
「了承した覚えはないわ」
さすが優等生。都合の悪い会話を忘れる能力まで優秀だった。
俺が諦めて椅子へ戻ると、黒羽は向かいの席を引き寄せた。鞄から数枚の紙を取り出し、机の上へ置く。
一枚目には、こう書かれていた。
『恋愛感情形成および失恋経験に関する協力契約書』
俺は紙を裏返した。
「断る」
「まだ一文字も読んでいないでしょう」
「題名だけで十分だ」
「読んで」
「嫌だ」
「読まないと、あなたが授業中に寝ていた回数を、担任へ日付入りで提出する」
「契約書より脅迫状を作る方が向いてるんじゃないか?」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
仕方なく紙を戻す。
甲(灰谷悠人)は、乙(白峰黒羽)を甲自身に惚れさせるため、二週間にわたり誠実な努力を行うこと。期間中、双方は恋人に準ずる交流を行うこと。期間最終日、乙は甲へ告白し、甲は必ずこれを拒絶すること——。
最後まで読んでも、意味は変わらなかった。
「頭でも打ったか?」
「失礼ね」
「なら病院を紹介してやる」
「私は正常よ」
「正常な人間は、自分を惚れさせて振れなんて頼まない」
黒羽は脚を組み、背筋を伸ばした。こうして黙っていれば、学校中が憧れる完璧な美少女だ。
「恋愛は人間の判断能力を著しく低下させるそうよ」
「お前の判断能力はすでに低下してる」
「最後まで聞きなさい」
「聞いても改善の見込みがない」
机の下で足を蹴られた。
「私は来年、県外の高校へ転入する予定なの」
初耳だった。
どうやら黒羽は、全国でも名の知られた全寮制高校の特待生選考に通ったらしい。来春から一年間、県外にある提携校の特別課程へ参加することになる。
「ずいぶん急だな」
「以前から準備していたもの。誰にも話していなかっただけ」
「それと失恋に何の関係がある?」
「環境が変われば、人間関係も変わる。将来、恋愛で判断を誤らないために、一度くらい安全な失敗を経験しておきたいのよ」
「安全な失恋?」
「最初から振られると分かっていれば、必要以上に傷つくこともないでしょう?」
理屈は整っている。
整いすぎていた。
「何で俺なんだ」
「暇そうだから」
「帰る」
「待ちなさい」
立ち上がった俺の袖を、黒羽が掴んだ。
「あなたは私の素を知っている。それでも態度を変えなかった。実験相手として都合がいいの」
「性格が悪いのは最初から分かってた」
「その無気力な顔、窓から投げ捨ててあげようか?」
「品を忘れてるぞ」
「上品に投げ捨てるから安心して」
指先は袖を強く掴んでいる。
けれど、俺の目を見ようとはしない。
「期限は?」
「二週間後」
契約書の日付を見る。
俺の誕生日だった。
「本当に、俺が振れば終わりなんだな?」
「ええ」
「理由を聞いても、お前は正直に答えない」
「今、答えたでしょう」
「そういうことにしておく」
黒羽が不機嫌そうに目を細める。
俺は机の上のペンを取り、契約書の下へ名前を書いた。
「……本当に引き受けるの?」
「意外そうな顔をするなら頼むな」
「あなたなら、断ると思っていたから」
「だったら、どうするつもりだった?」
「もう少し卑劣な手段を使う予定だったわ」
「聞かないでおく」
契約書を鞄へしまう黒羽の指先は、もう震えていなかった。
「言っておくけれど、手加減は必要ないわ」
「何の話だ?」
「私を、本気で落として」
挑むように言ってから、黒羽は俺より先に教室を出た。
取り残された俺は、窓の外へ視線を向ける。
夕焼けを背負って歩く彼女の表情は、もう見えなかった。
◇
「悠人、おはよう!」
翌朝、昇降口で背中へ衝撃を受けた。
「重い」
「女の子に言ったら駄目な言葉ランキング、かなり上位!」
「鞄の話だ」
「私ごと乗ってるんだから同じでしょ」
俺の肩から顔を出したひまりが、不満そうに頬を膨らませる。
「降りろ」
「教室まで運んで」
「歩け」
「幼馴染が朝から疲れてるんだよ? 優しさは?」
「家に忘れた」
「じゃあ帰りに取りに行こう。今日、悠人の家寄っていい?」
「駄目だ」
「えー」
ひまりとは、小学五年からの付き合いだ。
俺が何を言っても気にせず、こちらの予定も聞かずに入り込んでくる。人の領域へ侵入することに関しては、黒羽以上にたちが悪い。
「おはようございます、灰谷くん。桃瀬さん」
教室へ入る直前、後ろから声をかけられた。
白峰さんモードの黒羽が、鞄を両手で持って微笑んでいる。
「おはよう、白峰さん!」
「おはよう」
「灰谷くん。昨日お願いした件、覚えていますか?」
「忘れた」
「まあ。灰谷くんは冗談がお上手なんですね」
笑顔が怖い。
「昨日のお願いって何?」
ひまりが俺たちを交互に見る。
「大したことじゃない」
「大したことです」
答えが重なった。
黒羽が一拍置いて微笑み直す。
「委員会のお手伝いをお願いしたんです」
「悠人に? 人選間違えてない?」
「俺もそう思う」
「お二人とも、私の判断に何かご不満でも?」
「ない」
「ないです!」
俺とひまりの声が揃う。
黒羽は満足そうに頷き、先に教室へ入った。
「白峰さんって、やっぱりすごいよね」
「どこを見てそう思った」
「笑顔だけで悠人を黙らせたところ」
「あれは笑顔じゃない。警告だ」
席へ着くと、スマートフォンが震えた。
『初日から予定を乱さないでもらえる?』
送り主は黒羽。
『まだ何も始まってない』
『もう始まってる。今日の昼休み、屋上』
『寒い』
『上着を着なさい』
『面倒だ』
『屋上から落とされるのと、階段を上るの。どちらがいい?』
返信を諦めてスマートフォンを伏せる。
「悠人」
ひまりがこちらを見ていた。
「白峰さんと、何かある?」
「脅迫されてる」
「またまた」
冗談ではないのだが、ひまりは楽しそうに笑った。
◇
昼休みの屋上には、冷たい風が吹いていた。
「遅い」
「一分前だ」
「私を待たせた時点で遅刻よ」
「知らない規則を増やすな」
黒羽はベンチへ座り、隣を指した。
俺が一人分空けて腰を下ろすと、無言で詰めてくる。
「近い」
「恋愛感情の形成には、物理的距離を縮めることも重要よ」
「受け売りか?」
「昨日調べたの」
鞄から二段重ねの弁当箱を取り出す。蓋を開けると、色鮮やかなおかずが隙間なく並んでいた。
「作ったのか」
「そうよ」
「いつ?」
「今朝」
「お前、何時に起きた?」
「五時」
「そこまでしなくていいだろ」
黒羽の眉がわずかに動く。
「手を抜いて、私が惚れなかったら困るのはあなたでしょう?」
「俺が困るのか」
「契約不履行になるもの」
弁当と一緒に、一枚の紙を渡された。
『恋愛感情形成計画』
一、毎日一度は二人で食事をする。
二、二人きりの際は下の名前で呼ぶ。
三、放課後、最低三十分間行動を共にする。
四、一週間以内に手をつなぐ。
五、休日に一度、恋人を想定した外出を行う。
六、最終日に黒羽が告白し、悠人がこれを拒絶する。
「恋に落ちる予定まで決めるのか」
「計画なしに結果が出ると思っているの?」
「恋愛に最も向いてない人間の発言だな」
「それをあなたが言う?」
反論できないので、卵焼きを口に入れた。
少し甘い。
「どう?」
「うまい」
黒羽が瞬きをする。
「……それだけ?」
「感想文でも提出するのか?」
「もう少し、何かあるでしょう」
「味つけが俺の好みに合ってる。毎朝作るのは大変そうだが、これなら明日も食べたい」
「…………」
「何だ」
「あなた、そういうことを平然と言うのね」
「聞いたのはお前だ」
黒羽は顔を背けた。風のせいではなさそうな赤みが、耳に差している。
「それから、今後は私を黒羽と呼んで」
「分かった、黒羽」
「……躊躇がないわね」
「呼べと言ったのはお前だ」
「もう少し段階を踏むという、人間らしい配慮はないの?」
「面倒だ」
「本当に可愛げがないわね。今のは無効。もう一度」
「何でだ」
「いいから」
「黒羽」
「……何?」
「呼べと言われたから呼んだ」
「分かっているわよ」
黒羽は俯きながら、弁当の中身を箸で意味もなく移動させた。
自分で作った計画に自分で翻弄されている。
本当に、恋愛に向いていない。
◇
それから数日、黒羽の計画はおおむね予定どおり進んだ。
昼は一緒に弁当を食べた。放課後は駅まで歩いた。名前で呼び、時には黒羽の買い物にも付き合った。
ただし、計画どおりに進まないこともある。
その原因の大半は、桃瀬ひまりだった。
「二人で帰るの? 私も帰る!」
昇降口で待っていた黒羽の横へ、ひまりが並ぶ。
「桃瀬さん。今日は灰谷くんと、委員会の仕事がありますので」
「私も手伝うよ!」
「結構です」
「三人なら早く終わるよ?」
「本当に、結構です」
白峰さんの笑顔を維持したまま、声だけが冷えていく。
「でも悠人、委員じゃないよね?」
「細かいことを覚えてるな」
「幼馴染だもん」
ひまりは俺の腕へ自分の腕を絡めた。
「というわけで、三人で帰ろ!」
断るという概念が、ひまりの辞書には載っていない。
黒羽は笑顔で頷いた。
「ええ。そうしましょう」
その日の帰り道、黒羽はほとんど白峰さんのままだった。
ひまりは小学校時代の話を次々と持ち出し、俺の過去の失敗を黒羽へ披露した。黒羽は楽しそうに笑いながら、時折こちらへ冷たい視線を投げる。
「悠人、飲む?」
ひまりが買ったばかりのミルクティーを差し出した。
「いらない」
「一口だけ。新商品なんだよ」
「自分で飲め」
「感想を共有したいの!」
押しつけられたので、一口だけ飲む。
隣で小さな音がした。
黒羽の持っていた紙パックが、中央からへこんでいた。
ひまりが別れると、黒羽は白峰さんの笑顔を即座に消した。
「幼馴染だからって、距離が近すぎない?」
「そうか?」
「そうよ。あの子、自分が女だという自覚が足りないわ」
「何で怒ってる?」
「怒っていない」
「紙パックが死んでる」
「脆弱な容器を採用したメーカーの責任よ」
「ひまりが嫌いなのか?」
「嫌いとは言っていないでしょう。明るくて、素直で、誰にでも好かれる可愛い子だと思っているわ」
褒めているはずなのに、声が険しい。
「お前も似たようなものだろ」
「白峰さんはね」
黒羽は前を向いたまま答えた。
「私は、あんなふうには笑えない」
その横顔は、なぜか寂しそうに見えた。
◇
黒羽がひまりから恋愛相談を受けたことを、俺は知らなかった。
後になって聞いた話だ。
俺たちが三人で帰った翌日、昼休みの教室で、ひまりは黒羽を廊下へ連れ出したらしい。
「白峰さん、相談があるんだけど」
「私でよければ、もちろん」
「私ね。悠人の誕生日に、告白しようと思ってるんだ」
白峰さんは、そこで一度だけ言葉を失った。
けれど、ひまりが気づくより先に笑った。
「そうだったんですね。お二人なら、とてもお似合いだと思います」
「本当?」
「はい。幼馴染ですし、灰谷くんも桃瀬さんには心を許していますから」
告白する場所を一緒に考え、プレゼントの相談にも乗った。
ひまりが選ぼうとしていた派手な財布をやめさせ、俺が以前使いやすそうに眺めていた筆記具を勧めたのも、黒羽だったらしい。
「ありがとう、白峰さん。相談してよかった!」
「いいえ。頑張ってくださいね」
ひまりは喜んで立ち去りかけた。
だが、数歩進んだところで振り返った。
「白峰さんは、悠人のこと好きじゃないの?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「好きじゃないなら、そんな悲しそうに笑わないと思うから」
白峰さんの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「私と灰谷くんは、そういう関係ではありませんよ」
「そっか」
「信じるんですか?」
「ううん」
ひまりは、明るく笑ったという。
「でも白峰さんが言わないなら、私は遠慮しないね」
◇
土曜日、駅前の時計塔で黒羽と待ち合わせた。
約束の十分前に着いたはずだが、黒羽はすでに待っていた。
薄い色のニットに、膝下まである淡いスカート。学校で見る姿より柔らかく、清楚で、それでいてよく似合っている。
俺に気づいた黒羽が、髪を耳へかけた。
「一分前。ぎりぎりね」
「九分前だ」
「私より後なら遅刻よ」
「横暴だな」
「それで?」
「何が」
「……何でもない」
不機嫌そうに歩き出す。
「似合ってる」
黒羽が止まった。
「綺麗だと思った」
「…………」
「何だ」
「そういうことは、もう少し照れながら言いなさい」
「聞きたそうだったから言った」
「あなたは情緒というものを学んだ方がいいわ」
そう言いながら、黒羽の歩調は少しだけ軽くなった。
デートプランは分刻みで組まれていた。
映画を観て、予約していた店で昼食を取り、大型書店へ寄り、雑貨店を見て、夕方には人気のカフェへ行く。
「修学旅行のしおりか?」
「限られた時間を有効に使うためよ」
「十分ごとに移動時間まで書く必要があるか?」
「あなたを放っておいたら、映画館から出た時点で帰るでしょう」
否定できない。
映画館では、黒羽が恋愛映画の盛り上がる場面でこちらを窺っていた。視線を返すと、何事もなかったようにスクリーンへ向き直る。
昼食では、俺が頼んだ料理の方を気にしていたので皿を交換した。黒羽は「別に欲しかったわけじゃない」と言いながら、きれいに完食した。
書店では、互いに相手へ読ませたい本を一冊ずつ選んだ。
予定どおりでなかったのは、雑貨店を出たあたりからだった。
「次はカフェよ」
黒羽の声はいつもと変わらない。
だが、歩幅が小さくなっていた。
「十分休む」
「必要ないわ。予約の時間が——」
「遅れると連絡すればいい」
「計画が崩れるでしょう」
「もう崩れてる」
俺は黒羽の手首を掴み、通りから外れた小さな公園へ連れていった。
ベンチへ座らせ、自動販売機で温かい紅茶を買う。
「はい」
「頼んでない」
「知ってる」
「勝手ね」
「お互い様だ」
黒羽は紅茶を両手で包み、一口飲んだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「気づいていたの?」
「朝から緊張してただろ。昼食もいつもより少なかった。靴も履き慣れてない」
黒羽が足元を見る。
「そんなところまで見ないで」
「見せてるのはお前だ」
「みんな、今日の服は褒めてくれるわ。でも、靴が合っていないことまで気づく人はいない」
「全員、お前が見せたいものだけ見てるんだろ」
黒羽が顔を上げた。
薄い雲の切れ間から射した光が、その瞳に映っている。
「あなたは、どうして気づくの?」
「分かりやすいから」
「私が?」
「少なくとも、俺には」
黒羽は何かを言おうとして、やめた。
紅茶へ視線を落とし、小さく息を吐く。
「少しだけ、予定を変更してもいい?」
「好きにしろ」
「もう一度、さっきの雑貨店へ戻りたい」
店内で、黒羽は小さな黒猫のストラップを手に取った。先ほども眺めていたものだ。
「欲しかったんだろ」
「子供っぽいかと思って」
「今さらだな」
「どういう意味?」
「弁当の仕切り、ウサギだった」
「見なかったことにしなさい」
俺は黒猫の隣にあった、灰色の猫のストラップも手に取った。
「何をしているの?」
「契約期間中は恋人に準ずるんだろ」
二つとも購入し、黒い方を黒羽へ渡す。
「安物だが」
「値段の話をするなんて、雰囲気がないわね」
「いらないなら返せ」
「一度贈ったものを取り返すなんて、育ちが悪いわよ」
黒羽はすぐに鞄へストラップをつけた。
その瞬間、俺のスマートフォンが震える。
ひまりからだった。
『誕生日、絶対に空けておいてね!』
画面を見た黒羽の表情が止まる。
しかし次の瞬間には、きれいな笑顔が浮かんでいた。
「デートは成功ね」
「そうか?」
「ええ。これなら私も、予定どおりあなたを好きになれそう」
黒羽は俺から視線を逸らし、歩き出した。
鞄についた黒猫だけが、不規則に揺れていた。
◇
デートの翌週、ひまりが俺たちを目撃していたことが分かった。
これも後になって、黒羽から聞いた話だ。
ひまりは黒羽を人気のない階段へ呼び出したらしい。
「白峰さん、昨日、悠人とデートしてたよね?」
「誤解です」
「じゃあ、手をつないでたのも誤解?」
「……見ていたの?」
計画には、一週間以内に手をつなぐと書かれていた。
黒羽が自分から手を差し出し、指先が触れた瞬間に引っ込めようとしたので、俺が掴んだ。その場面を見られたらしい。
「どうして、私に嘘をついたの?」
ひまりは笑っていた。
けれど、いつもの笑顔より少しだけ弱かった。
黒羽は答えられなかった。
「私、白峰さんのこと好きだよ。でも、悠人のことも好き」
「…………」
「だから、譲ってあげるとは言えない」
「私と悠人は、そういう関係ではないわ」
初めて、ひまりの前で敬語が消えた。
「恋愛の実験をしているだけ。最後には振ってもらう。そういう約束なの」
「何それ」
「あなたには関係ないでしょう」
「関係あるよ。私も悠人が好きだもん」
ひまりのまっすぐな言葉に、黒羽は目を伏せた。
「……怖くないの?」
「何が?」
「振られるかもしれない」
「怖いよ」
ひまりは即答した。
「めちゃくちゃ怖い。でも、振られる前から諦めたら、悠人を好きだった私に失礼だから」
黒羽には言えない言葉だった。
ひまりは一段下から、黒羽を見上げた。
「白峰さん。本当はもう、悠人が好きなんじゃない?」
「違う」
「じゃあ、どうして泣きそうなの?」
「泣いてない」
「うん。泣いてないね」
ひまりは無理に暴こうとはしなかった。
「でも、逃げるなら私が悠人をもらうから」
笑って宣言し、階段を駆け下りていった。
残された黒羽は、鞄についた黒猫を握りしめた。
◇
契約最終日。
俺の誕生日。
黒羽は朝から白峰さんだった。
「おはようございます、灰谷くん」
「おはよう」
「本日の放課後、お時間をいただけますか?」
「契約の話なら——」
「放課後にお願いします」
俺の言葉を、柔らかな笑顔で遮る。
昼休みも、黒羽は俺のところへ来なかった。
弁当もない。メッセージも届かない。
ひまりは普段どおり俺の隣で昼食を取りながら、ときどき黒羽を見ていた。
「悠人」
「何だ」
「今日の放課後、ちゃんと白峰さんと話してね」
「お前は?」
「私も悠人に用事あるけど、後でいい」
「そうか」
「……聞かないの?」
「聞いたら、今言うのか?」
「言わない」
「なら同じだ」
「そういうところ、本当に悠人だよね」
ひまりは呆れたように笑った。
放課後、黒羽が待っていたのは、最初に契約を交わした教室だった。
机の上には小さな包みが置かれている。
「誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
「開けてください」
中に入っていたのは、革張りのブックカバーだった。以前、俺が書店で眺めていたものだ。
「よく覚えてたな」
「たまたまです」
「そうか」
「はい」
会話が続かない。
黒羽は姿勢を正し、胸の前で両手を重ねた。
誰から見ても完璧な白峰さん。
それなのに、鞄の黒猫だけが小さく震えている。
「灰谷くん」
「何だ」
「私は、あなたが好きです」
用意されていた台詞のように、滑らかな告白だった。
「初めて二人で昼食を取った日から、あなたと過ごす時間が楽しみになりました。私の小さな変化に気づいてくださるところも、不器用に気遣ってくださるところも、今では大切に思っています」
全部、本当なのだろう。
だからこそ、嘘に聞こえた。
「契約どおり、私を振ってください」
黒羽は制服のポケットから、四つ折りにされた紙を取り出した。
「何だ、それ」
「あなたの返答よ」
開くよう促され、紙を受け取る。
そこには黒羽の整った字で、短い文章が書かれていた。
『ごめん。白峰のことは好きになれない』
「これを読んで」
「俺が言う台詞まで決めたのか」
「あなたは余計なことを考えなくていい。書かれているとおりに読めば、それで全部終わるから」
「失恋に成功しようとするな」
「成功させなければ困るのよ」
白峰さんは笑っている。
俺が紙を持つ手だけを見つめている。
「早くして。待たされる方がつらいでしょう?」
「そうだな」
俺は紙へ目を落とした。
「ごめん。白峰のことは好きになれない」
読み上げた瞬間、黒羽の呼吸が止まった。
ほんの一秒だった。
それでも、俺には分かった。
「……はい」
白峰さんは微笑んだ。
「短い間でしたが、ありがとうございました。灰谷くんのおかげで、とても有意義な経験ができました」
机の上の包み紙を丁寧に畳み、鞄を肩へかける。
俺の横を通り過ぎようとした。
「まだ終わってない」
その手首を掴む。
「放して」
「俺が好きなのは、白峰さんじゃない」
黒羽の肩が揺れた。
「今、きちんと聞きました。だから、もう——」
「口が悪くて、計画どおりにいかないとすぐ不機嫌になって、可愛いものが好きなくせに子供っぽいと隠して、俺のために朝五時から弁当を作る女だ」
黒羽が、ゆっくり振り返る。
「……何を言っているの?」
「黒羽。お前が好きだ」
「やめて」
黒羽は俺の手を振りほどこうとした。
「今さら、そんなことを言わないで」
「今さらじゃない」
「じゃあ、どうして契約なんて受けたのよ!」
「お前が初めて、俺に助けを求めたからだ」
「求めてない。これは実験で——」
「白峰」
「その名前で呼ばないで!」
敬語が消えた。
笑顔も消えた。
黒羽は潤んだ瞳で俺を睨みつける。
「何も知らないくせに、全部分かったような顔をしないで」
「なら教えろ」
「教えたら、あなたは私を振ってくれるの?」
「それはできない」
「だったら話すことなんてない!」
黒羽が鞄を抱きしめる。
揺れた黒猫が、かすかな音を立てた。
「私は行くの。ここを離れる。ひまりは残る。あの子なら、あなたを一人にしない。毎朝迎えに来て、休日も外に連れ出して、あなたが何も言わなくても隣で笑っていられる」
「俺は一人でも困らない」
「そういう話じゃないでしょう!」
黒羽の声が教室に響いた。
「私は、ひまりみたいにはなれない。可愛く笑うのも、素直に好きと言うのも、怖くても前に進むのも……全部、私にはできない」
「白峰さんは、できてる」
「あれは、そう見えるように努力しているだけよ!」
「努力してできるようになったなら、それもお前だ」
「そういうことを言わないで!」
一滴、涙が頬を伝った。
「あなたは、いつもそう。私が隠しているものを勝手に見つけて、何でもないことみたいに受け入れる。そんなことをされたら、期待してしまうでしょう……!」
黒羽は顔を覆うこともできず、俺を見つめたまま泣いた。
「好きだから終わらせたいの。好きなまま離れて、いつかあなたがひまりを選ぶのを待つなんて、耐えられない」
「だから俺に振られたかった?」
「そうよ。私は選ばれなかったんだって、最初から無理だったんだって、納得したかった」
「そのために、二週間も恋人ごっこをしたのか」
「一度くらい……」
黒羽の声が震える。
「一度くらい、あなたに選ばれたつもりになりたかったのよ」
俺は鞄から契約書を取り出した。
署名の入った紙を広げる。
黒羽が目を閉じた。
俺は契約書を中央から破った。
教室に、乾いた音が響く。
さらに半分へ破り、机の上へ落とした。
「……何をしているの?」
「依頼は失敗だ」
「どうして破るのよ」
「俺はお前を惚れさせてない。お前は最初から俺に惚れてた」
「そんな屁理屈を聞いてるんじゃない!」
黒羽は机へ駆け寄り、破れた紙を拾い集めようとした。
「返して。まだ終わってない。もう一度、最初からやり直せば——」
「終わりだ」
紙片へ伸びた手を、上から掴む。
「どうして……!」
「失恋に成功しようとするな」
「私は、これがあったから今日まで耐えられたの!」
その言葉が落ちたあと、黒羽自身が息を呑んだ。
「最後にあなたと一緒にいられる。最後にはきちんと振ってもらえる。そう決まっていたから、勘違いせずに済んだ。全部予定どおりなら、期待しないで済んだのに……!」
「もう期待してるだろ」
「してない!」
「なら、俺が好きだと言っても困らない」
「それは……今の私が可哀想だからでしょう?」
黒羽の声が急に弱くなる。
「泣いた女を振れなくなっただけ。あなたは、困っている人間を放っておけないから」
「クラスには、困ってるやつが大勢いる」
「…………」
「俺が毎日一緒に弁当を食べて、放課後に付き合って、休日まで外へ出たのはお前だけだ」
「それは契約が——」
「お前が俺に好かれる努力をするより前から、俺は黒羽が好きだった」
黒羽が首を横に振る。
「嘘」
「覚えてないか。去年、文化祭の準備で、お前が一人で教室に残ってた日」
黒羽の動きが止まった。
クラス全員から頼まれた作業を引き受け、夜まで一人で装飾を作っていた。
机に伏せて眠っていた白峰さんへ声をかけたとき、返ってきたのは可愛らしい笑顔ではなかった。
『見て分からない? 疲れてるの。用がないなら帰って』
それが、俺が初めて黒羽に会った日だった。
「他のやつには笑ってたお前が、俺にだけ本気で腹を立てた」
「あのときは、余裕がなかっただけよ」
「知ってる。だから信用できた」
「性格の悪いところを見て、好きになったって言うの?」
「白峰さんは、全員に好かれる努力をしてる。黒羽は、俺に好かれる努力を何もしてなかった」
「悪かったわね」
「だから、黒羽を好きになった俺の気持ちは、お前の計画じゃない。俺が勝手に決めたことだ」
黒羽の頬から、また涙が落ちた。
「でも、ひまりの方が——」
「俺の気持ちまで勝手に決めるな」
少し強く言うと、黒羽が口を閉じた。
「ひまりがお前より長く俺を知っていることと、俺がお前を好きなことは別の話だ」
「あの子は、あなたをずっと好きで——」
「それを言い訳に使うのは、ひまりにも失礼だ」
「…………」
「お前はひまりのために譲るんじゃない。自分が傷つくのが怖いから、逃げようとしてるだけだ」
「悪い?」
黒羽が睨み返してきた。
「怖いのよ。離れたあともあなたを好きでいることも、いつか嫌われることも、信じたのに捨てられることも、全部怖い。だったら、どうすればよかったのよ!」
「普通に告白すればよかった」
「そんなこと、できるわけないでしょう!」
「なら、今しろ」
「さっきしたじゃない」
「あれは失恋するための告白だ」
掴んでいた手を放す。
「契約でも、実験でもない。白峰さんでもない。黒羽として言え」
「……言ったら、選んでくれるの?」
「それを聞く前に言うのが告白だろ」
「本当に、意地が悪い」
「お互い様だ」
黒羽は俯いた。
何度か唇を開いては、声にできずに閉じる。
俺は急かさなかった。
外では運動部の掛け声が響いている。西日が教室を少しずつ橙色へ変えていく。
「……悠人が好き」
ようやく聞こえた声は、白峰さんの告白よりずっと小さかった。
「うん」
「離れたくない」
「うん」
「ひまりに渡したくない」
「俺は物じゃない」
「今くらい黙って聞きなさいよ」
「悪い」
黒羽は涙を拭い、まっすぐに俺を見た。
「私を選んで」
「最初から、そのつもりだ」
俺は一度、息を吸った。
「白峰さんも、黒羽も、どちらも好きだ。俺と付き合ってほしい」
「……白峰さんはいらないって、言ったくせに」
「訂正する。あれも、お前が努力して作った大事な一部だ」
「今さら遅い」
「駄目か?」
「駄目とは言ってない」
黒羽は俺の制服の胸元を掴んだ。
強気に引き寄せたくせに、唇が触れる直前で動きを止める。
近すぎる距離で、黒羽の瞳が揺れていた。
「これは、契約に含まれる?」
「契約書は破った」
「そう」
黒羽の指先に、少しだけ力がこもる。
「なら、私がしたいからする」
それでも動かない。
「どうした」
「……目を閉じて」
「何で」
「見られていたら、できないから」
言われたとおり目を閉じる。
すぐには何も起こらなかった。
逃げたのかと思った瞬間、甘い呼吸が頬へ触れる。
次いで、柔らかな唇が重なった。
ほんの短い接触。
けれど、離れたあとも黒羽は俺の制服を放さなかった。
額を胸元へ押しつけ、隠すように顔を伏せる。
「……遠距離でも、好きでいてくれる?」
「お前が毎日確認するんだろ」
「する。朝と夜にする」
「多い」
「ビデオ通話も週に三回」
「増えたぞ」
「嫌?」
制服を掴む指が、わずかに震えた。
「面倒だ」
「……そう」
「でも、その面倒を引き受けるって言ってる」
黒羽は顔を上げた。
涙の残った、不格好な笑顔。
学校の誰にも見せない、俺だけが知っていた笑顔だった。
「悠人」
「何だ」
「もう一度、して」
「今度は契約か?」
「恋人としての命令よ」
「交際初日から横暴だな」
「嫌なら断れば?」
「断らない」
今度は俺から、黒羽へ顔を寄せた。
黒羽は逃げずに目を閉じる。
二度目のキスは、最初より少しだけ長かった。
◇
翌朝、校門の前でひまりが待っていた。
「悠人、おはよう!」
「おはよう」
「昨日渡せなかったから。誕生日プレゼント!」
差し出された細長い箱を受け取る。
「ありがとう」
「大事に使ってね。白峰さんと一緒に選んだんだから」
その言葉に、俺はひまりを見た。
ひまりはいつもと同じように笑っている。
「桃瀬さん。おはようございます」
背後から黒羽が来た。
白峰さんの笑顔。だが、迷うことなく俺の隣へ立つ。
ひまりは俺たちを交互に見た。
そして、俺の鞄についた灰色の猫と、黒羽の鞄についた黒猫へ目を落とした。
「そっか」
ほんの一瞬だけ、その笑顔が曇る。
「二人、付き合ったんだ」
「……はい」
黒羽が答えた。
「桃瀬さん、その——」
「謝らないで」
ひまりは黒羽の言葉を遮った。
「私、まだ悠人に告白してないし、振られてもいないから」
「それは、どういう意味ですか?」
「二人が別れたら、次は私の番!」
「別れません」
「白峰さん、笑顔が怖いよ」
「気のせいですよ、桃瀬さん」
ひまりは黒羽の顔をじっと見つめた。
「ねえ。二人きりのときは、そんな喋り方じゃないんでしょ?」
「……何のことですか?」
「昨日、一回だけタメ口になったよね」
「気のせいです」
「悠人は何て呼んでるの?」
「白峰」
「悠人」
低い声で呼ばれた。
「あ、今の喋り方!」
ひまりの顔が輝く。
「じゃあ私も、黒羽ちゃんって呼んでいい?」
「よくないわ」
「わあ、本当に変わった! 黒羽ちゃん!」
「ちょっと、抱きつかないで!」
「黒羽ちゃん、可愛い!」
「悠人、この子をどうにかして」
「無理だ」
「即答しないで!」
黒羽に抱きついたまま、ひまりが俺を見た。
いつもの明るい笑顔だった。
けれど、泣いた後のように目元がわずかに赤いことには、気づかないふりをした。
きっと昨夜、今日も笑っていられるようになるまで、一人で泣いたのだろう。
白峰黒羽を惚れさせ、告白されたら振る。
そんな面倒な依頼は、無事に失敗した。
代わりに、もっと面倒な恋人ができた。
ついでに、その恋人を狙う幼馴染まで居座ることになった。
省エネとは程遠い高校生活になりそうだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
黒羽とひまり、どちらを応援したくなったか、感想で教えていただけると嬉しいです。
面白かったと思っていただけましたら、評価やブックマークをいただけると今後の励みになります。
反響があれば、悠人と黒羽の交際後や、まだ諦めていないひまりを描いた続編も投稿予定です。




