第9話 「夫」に話しかけてみたシゴデキ公爵夫人(リリアーナ)
大丈夫。今日は、何も解決しなくていいし、役に立つ話をしなくていい。
そう言い聞かせながら、私は執務室へ向かう廊下を歩いていた。言い聞かせるものの、今まで「結論のない会話」をアルベルトとはしたことがない。うまく会話ができるだろうか。足音がやけに大きく聞こえるのは、緊張している証拠だと自分でも分かる。
昨夜、エリカから受けたアドバイスは、とてもシンプルだった。無理に変わらなくていい。完璧な妻であることを、やめなくていい。ただ、思ったことを一言、足してみてください。
それだけなのに、どうしてこんなにも心臓がうるさいのだろう。
扉の前で一度、深呼吸をする。ノックの回数すらいつもより慎重になってしまう自分が、少し情けない。
「失礼します」
部屋に入ると、アルベルトは書類から顔を上げた。いつも通りの、少し硬い表情。
――ここからだ。
私は意識的に、すぐに用件を切り出さなかった。頭の中では、エリカの声が何度も反響している。なんでもないことでいいんです。
「……今日は、少し寒いですね」
言葉にした瞬間、後悔しかけた。あまりにも内容がない。意味がない。
一瞬の沈黙。アルベルトの眉が、ほんの少しだけ動く。驚いているのか、戸惑っているのか、彼の感情が分からない。
「ええ。確かに。ここ数日で、一気に冷えましたね」
返ってきた。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「朝、廊下が冷えていて……季節が変わるのだと、改めて思いました」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。結論を出そうとしなかったからだろうか。でもいつもと違う脳を使っている気がして、心はまだ落ち着かない。
「……冬は、一年が経つのは、早いですね」
アルベルトの声も、いつもより少し柔らかい。
「はい。ですから……そろそろ、暖房設備の点検を早めた方がよいかと」
――あ、仕事の話に戻ってしまった。
一瞬そう思ったが、アルベルトは嫌そうな顔をしなかった。
「それは、助かります。確かに去年は、準備が遅れていましたから」
そこからは、自然に会話が続いた。
暖房の配置、古い建物特有の冷え、冬場の来客対応。気づけば、私は「解決」しそうになる自分を、ほんの少しだけ抑えていた。完璧な答えを出す前に、一拍置く。自分の心で一瞬思った感情をアルベルトに伝えてみる。いつもなら事務的な会話も、幼いころや学生のころの話も挟んだり、自分の感じたことを伝えたり。自分のことを話すのは少し恥ずかしい気がしたが、それでも会話が続いたことが純粋にうれしかった。
「……ところで」
アルベルトが、少し迷うように言葉を選ぶ。
「その件ですが、隣国との貿易にも影響が出るかもしれません」
その話題には、どうしても口を出したくなってしまう。私は自然と、いくつかの改善案を挙げた。数字、輸送経路、交渉の優先順位。気づけば、いつもの自分に戻っていた。
――やってしまった。
そう思った瞬間、アルベルトの表情を盗み見る。だが、予想していたような困惑や距離感は、そこにはなかった。
「なるほど」
彼は小さく息を吐き、口元を緩めた。微笑んでいるようにも見える。
「やはり、あなたの視点は的確ですね。助かります」
その言葉に、胸が跳ねた。初めて言われた。私は、思わず照れくさくて下を向いてしまう。
「……ただ」
顔を上げると、アルベルトは少しだけ視線を外し、続ける。
「こうして話していると、時間を忘れてしまいますね」
その横顔は、どこか照れくさそうで。いつもより、ずっと柔らかい。
「……そう、ですね」
私は微笑みながら答えた。その笑みが、作りものではないことを、自分でもはっきりと感じていた。
やがて話は一区切りつき、私は一礼をして部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、胸の奥からこみ上げるものがあった。たくさん話せた。ちゃんと、会話になっていた。
廊下を数歩進んだところで、私は気づく。
――走っている。
貴族としては、はしたない行為だ。だが、今はどうでもよかった。エリカに、伝えたい。うまく言葉にできなくてもいい。
「あなたのおかげだわ!」
そう言う自分の姿が、はっきりと想像できて、思わず笑みがこぼれた。




