第8話 リリアーナについて思うこと
リリアーナという人間を、俺はずっと尊敬している。
それは妻として、というより――もっと前からだ。子どもの頃から知っている彼女は、何をやらせてもそつがなく、勉強も、判断も、立ち振る舞いも、いつだって一段上にいた。貴族社会という閉じた場所の中で、彼女は自然と中心に立ち、人の視線を集める存在だった。
男女関わらずいわゆる高嶺の花であり、自分にとっても正直に言えば、高嶺の花だと思っていた。いや、「思っていた」ではない。今でもそう思っている。
だから、まさか自分の妻になるとは。結婚が決まったあの日でさえ、実感はほとんどなく気づいたら籍を入れており一緒に住んでいた。
仕事の場にいるリリアーナは、完璧だ。隣国との貿易交渉、領地運営、書類の精査。俺が一を言う前に十を理解し、気づけば議題は整理され、最適解が提示されている。
尊敬しかない。本当に、心から。それと同時に、いつも思ってしまう。夫婦として、どう接すればいいのかが分からないと。
俺自身、何もしてこなかったわけじゃない。公爵になる者として幼少期から文武ともに努力し続け、彼女との婚約が決まってからは、彼女に恥じないようより一層必死に勉強した。仕事にも食らいついた。だがそれでも、並んで立っていると、ふと不安になる。
(釣り合っているのだろうか)
話しかけるときも、つい気を遣ってしまう。どこまで踏み込んでいいのか。どこで引くべきなのか。冗談など論外だろう。不用意なことを言えば、彼女を困らせるか、失望させてしまう気がして、結局いつも無難な会話だけが残る。
今日も、そうなるはずだった。
執務室にリリアーナが顔を出したとき、俺は自然と背筋を伸ばし、いつものように報告の準備を整えた。昨日の隣国との関税交渉について、まず聞かれるのだろう。
「……今日は、少し寒いですね」
一瞬、思考が止まった。
寒い。
今?
ここで?
返事を探している間に、リリアーナは続ける。
「朝、廊下が冷えていて。冬が近いのだと、改めて思いました」
それだけだった。結論も、提案も、次の議題もない。ただの、どうでもいい一言。でも俺はなぜか、すぐに返事をしていた。
「確かに。ここ数日で、急に冷えましたね」
それをきっかけに、短いやり取りが続いた。暖房の話、季節の移り変わり、昔の冬の記憶。どれも仕事には関係ない。解決すべき問題も、出すべき答えもなく、いつもと違う会話に少し戸惑う。だが、不思議と会話が途切れなかった。いつもなら、どこかで俺が「では、この件は以上で」と締めていたはずなのに。
今日は、その言葉を出すタイミングもなければ、そもそもいう必要もなかった。
しばらくして、リリアーナは軽く一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まったあと、俺は椅子に深く座り直す。
(何かあったのだろうか。)
理由は分からない。何かが劇的に変わったわけでもない。ただ、完璧な答えを要求される問いではなくまるで友人と話をしているようだった。はじめは戸惑ったものの、気が楽だった。
尊敬している。今も変わらない。けれど今日、ほんの一瞬だけ、リリアーナが高嶺の花ではなく同じ時間を生きる一人の人間に見えた気がした。
その感覚が、なぜか胸に残っている。
これは、良い変化なのか。それとも、ただの錯覚なのか。
答えは出ない。
だが今日みたいな「なんでもない会話」をもっとリリアーナとしてみたいと思った。




