第7話 奥様の改善点はコレです(エリカ)
リリアーナ様があんなふうに肩を落としているのを見るのは、正直、胸にくるものがあった。
完璧で、聡明で、誰よりも公爵家のことを考えて動ける人が、たった一度の会話で自分を責めるなんて、本来ならおかしな話なのに。この世界では、それが「正しい妻」であろうとする人ほど起こってしまう。
……いや、正確には。私が書いた物語の中では、そうなっていた。
リリアーナ様とアルベルト様は、互いを尊重し合い、役割を完璧にこなし、表向きは何一つ問題のない理想の夫婦。
だけどその内側で、誰かが「それでいいの?」と声をかけることは一度もなかった。
だから二人は、気づかないまますれ違い続けて、最後まで仮面夫婦のまま、やがて……。
(……だめだ)
私は小さく息を吸い、覚悟を決める。リアルとしてここに居合わせている以上、このまま物語通りに進ませるのは罪悪感しか芽生えてこない。
「エリカ?」
ずーんと沈み込んだ声で呼ばれて、私はぱっと顔を上げた。
ソファに腰掛けたまま、膝の上で手を組み、どこか自分を罰するような姿勢のリリアーナ様は、いつもよりずっと普通の人に見えた。
「私、やっぱりだめなのかしら。話したくなる妻になろうと思ったのに、結局、仕事の話しかできなくて……しかも、全部その場で片づけてしまって、何も発展しなかったわ。」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ああ、そうだ。
この人は「できてしまう」人なのだ。
努力しているわけでも、見せつけているわけでもなく、ただ自然に、最適解を出してしまう。
「奥様」
私は、いつもより少しだけ、はっきりとした声を出した。
「何も落ち込むことはございません」
「え?」
一瞬、きょとんとした顔になるリリアーナ様。その反応を見て、私は内心で少しだけ安心する。ちゃんと、話を聞いてくれている方だ。
「まず最初に言わせてください。奥様が完璧な妻であろうとすること、それ自体は、私は否定しません。仕事ができるのも、判断が早いのも、全部奥様の大切な一部ですから」
これは、本心だった。無理に変わる必要なんて、どこにもない。
「だから、無理して仕事の話を避けなくていいし、解決しようとするのをやめなくてもいいんです」
リリアーナ様の目が、わずかに見開かれる。きっと、「もっと力を抜いて」「できるだけ黙って聞いて」と言われると思っていたのだろう。
「奥様はシゴデキなのがいいところなんです」
「シゴデキ…?」
「ええ。仕事ができる方のことを、私の世界、いえ、メイド界隈ではシゴデキと言います。それで旦那さまも信頼していただけるので、それをわざわざ帰る必要はございません。ただ……少しだけ、足してみてほしいんです」
「足す、ですか?」
「はい。正しい会話に、なんでもない会話を」
私は言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「たとえば、なんだか今日、寒いですねとか。内容は本当に、それだけでいいんです。結論も、オチも、解決も、いりません」
「そんなことで、いいんでしょうか」
「いいんです。それだけで現状が少しでも変わってくるはずです。それに、思ったことをそのまま言ってみるのも、すごく大事です」
私は少し笑って、付け足す。
「今の話、ちょっと難しくてついていけませんでした、とか、それ、どうしてそう思ったんですか?とか。感情の話でも、疑問でも、正解じゃなくていい。ふと心の中で感じたことを口にしてみるんです。」
リリアーナ様は、しばらく黙り込んだまま、視線を落としていた。その沈黙が、拒否ではないことくらい、今の私にはわかる。
「私、つい役に立つことを言わなきゃ、って思ってしまって」
「ええ。奥様は、そういう方です」
だからこそ、言う。
「でも、役に立たなそうな会話って、人と人の間では、案外いちばん大事だったりします」
これは、私自身の経験でもあった。一応、恋愛経験はある。うまくいったものも、そうじゃないものも。その中で学んだのは、好きな人との会話はいつも意味がある必要なんてない、ということだった。何気ない会話がいちばん楽しかったり、相手のことをさらに知ることができたりする。
「奥様には、奥様が思う正しい妻のままでいてほしいんです」
少しだけ、声が震えたかもしれない。
「そのままで、十分すごい。そこにほんの少し、なんでもない一言を添えるだけで、きっとアルベルト様は、話したいって思うはずです」
リリアーナ様は、ゆっくり顔を上げて、困ったように、でもどこか安心したように微笑んだ。
「エリカ。あなたがいてくれて、本当によかったわ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ああ。やっぱり、私はこの人を、ハッピーエンドにしたい。今度こそ。
誰にもアドバイスされずに、すれ違う物語なんて、書かせない。
私は心の中で、そっと誓った。変えられるのであれば、私が書いた物語を、私の手で変えてみせる。




