第6話 正しい妻をやめてみたけどなんか違う(リリアーナ)
話したくなる妻。
エリカにそう言われてから、私はその言葉を、何度も頭の中で転がしていた。
正しい妻。
役に立つ妻。
公爵夫人として恥ずかしくない振る舞い。
それらは、これまでずっと私が拠り所にしてきたものだ。
けれど同時に、それが夫との距離を縮める助けになっていなかったことも、薄々気づいている。
(だからといって、どうすればいいのかしら)
今朝、鏡の前で身なりを整えながらも、私の頭の中はそのことでいっぱいだった。
話したくなる妻でいるためには、何か話題をふってみなくては。天気の話を夫婦がするのは違うし、いつも話している仕事の話をしたって改善する気がしないし。話題を考えるという行為が、こんなにも難しいものだとは思わなかった。
執務室に向かう途中、エリカがいつもより少し後ろを歩いているのが視界に入る。彼女は何も言わない。けれど、見守られているような、妙な安心感だけがあった。
アルベルトは、すでに執務机に向かっていた。書類に目を落とす横顔は、相変わらず隙がなく、凛としていて。それだけで、少しだけ気後れしてしまう自分がいる。
(だめ。今日は……今日は違うの)
私は意を決して、声をかけた。
「おはようございます。その服、新調なさったのですね」
我ながら、無難すぎる切り出しだったと思う。それでも、何も言わないよりはいい。アルベルトは顔を上げ、一瞬だけ自分の服に視線を落とした。
「ああ。昨日、仕立て直しが終わったものだ」
「とてもお似合いですわ。お色も、以前より柔らかくて」
そこまで言って、言葉が続かなくなった。
似合っている。それ以上、何を言えばいいのか分からない。
「……そうか」
短く返され、会話はそれで終わった。
沈黙。
思っていたよりも、ずっと早く訪れたそれに、胸の奥がひゅっと縮む。
(話題、話題……)
視線が、机の上に積まれた書類に向かう。控えようと思っていた仕事の話を無意識にしてしまっていた。
「隣国との貿易の件、進んでいらっしゃるのですか?」
アルベルトの表情が、わずかに仕事用のそれに切り替わった。
「ああ。関税の調整が難航している。先方は――」
結局そこから先は、自然と私の得意分野だった。
「それでしたら、輸送路を一部共有する形にすれば、双方の負担は軽くなるはずですわ。それに、先方の特産品をこちらの市場に流通させる条件を――」
気づけば、私は立て板に水のように話していた。過去の事例。数字。交渉の落としどころ。頭の中で整理された案が、次々と言葉になっていく。アルベルトも頷き、的確に応じ、この場で二人で問題を捌いてしまった。
議論が終わったときには、すでに結論は出ていた。
「助かった」
アルベルトはそう言い、立ち上がる。
「この件はこの方向で進める。私は次の会議がある」
それだけ言って、部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その時我に帰った。私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
(やってしまった)
頭では分かっている。役に立った。間違ったことは何もしていない。けれど話したくなる妻ではなかった。一緒に考えたい相手ではあっても、一緒に過ごしたい存在には、なれなかった気がする。
視界の端で、エリカが小さく息を吐いたのが分かった。その表情が、ほんの少しだけ気まずそうだったことが、なぜか胸に刺さる。
「あぁ……」
思わず、声が漏れた。椅子に腰を下ろすと、全身の力が抜けていく。
「やっぱり、無理ね」
独り言のつもりだった。
「私、どうしてもこうなってしまうの」
できることをする。正解を出す。間違えない。それしか知らない。
「話そうとすると、結局、仕事をしてしまうのよ」
エリカが、そっと近づいてくる気配がした。彼女は何も言わず、少しだけ距離を保った位置に立つ。
「エリカ」
私は顔を上げずに、言った。
「私、どうすればいいのかしら」
正しい妻をやめる。それは、思っていた以上に怖い。役に立たない自分を、何も差し出せない自分を、彼がどう見るのか分からないから。
「さっきの私、どうだった?」
問いかける声は、情けないほど弱々しかった。
「話したくなる妻には、見えなかったわよね」
少しの沈黙。そして、エリカが口を開く。その答えを、私はまだ知らない。ただ、こうして誰かに弱音を吐いている時点で、きっと私は、もう正しい妻から一歩、外れてしまったのだろう。
それが良いことなのかどうかは、分からない。ただ、胸の奥で小さく揺れているこの感情を、今は信じてみたいと思っていた。




