第42話 依頼
レオンの屋敷へ向かう馬車の中で、エリカは小さく息を吐いた。
窓の外を流れていく街並みを眺めながらも、意識はどこか落ち着かない。
(なんで私なんだろう)
隣に座る先輩執事は穏やかな表情で揺れに身を任せているが、エリカの胸中はそれとは対照的に、妙にざわついていた。
「レオン様、でしたか。」
ふと、先輩執事が口を開く。
「ええ。この国でも名の知れた方ですよ。剣術、学問、外交。どれをとっても一流、いわゆるオールマイティーな人物として知られております。」
「やっぱり、そうなんですね。」
エリカは曖昧に頷く。
(なんでもできるって、ずるいよな)
尊敬はある。すごいとも思う。けれど同時に、あの鋭い視線と、すべてを見透かしてくるような雰囲気を思い出すと、どうにも落ち着かない。
(うらやましいけど、なんか、もやっとする)
うまく言葉にできない感情を抱えたまま、馬車はやがて目的地へと到着した。
侯爵家レオン邸。
馬車を降りた瞬間、エリカは思わず息をのんだ。
派手さはない。だが、すべてが洗練されている。
外壁に使われている石材、手入れの行き届いた庭、装飾の一つひとつに至るまで、無駄がなく、それでいて圧倒的な質の高さを感じさせた。
(……すごい)
静かなのに、存在感がある。そんな空間だった。
案内されて応接室へ通されると、ほどなくして執事が丁寧に頭を下げる。
「レオン様は現在、少々お取り込み中でして…。もうすぐ終わるかと存じますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか。」
「お取り込み中?」
思わず小さくつぶやくエリカ。何となく仕事のイメージが浮かぶが、あの人の場合、それすらもただの仕事では済まなさそうな気がしてしまう。
(なんか、怖い案件じゃないよね?)
そんなことを考えているうちに、五分ほどが過ぎた。
そのときだった。応接室の扉が静かに開く。
「お待たせしました。」
聞き覚えのある低い声に顔を上げた瞬間、エリカの思考が止まった。
レオンが、そこにいた。
――ただし。
その腕の中には、小さな赤ん坊がすやすやと眠っている。
「え?」
間の抜けた声が出る。隣の先輩執事も、さすがにわずかに目を見開いていた。
(子ども?子持ち?)
混乱するエリカの様子を見て、レオンは少しだけ口元を緩める。
「ご安心ください。私の子ではありません。」
さらりと言う。
「姉の子です。少し用事があるとのことで、預かっているだけですよ。もうすぐ七か月になります。」
「あ、そうなんですね。」
ほっとしたような、よく分からない安堵が胸に広がる.改めて見ると、赤ん坊は小さな手を握りしめて、穏やかな寝息を立てている。その姿を見下ろすレオンの表情は、これまで見たことのないほど柔らかかった。
鋭さも、圧もない。静かで優しい。普段の飄々とした雰囲気のあるにこやかな表情とは異なる、愛情を持った優しさのある表情に、美しさすら感じてしまう。
(こんな顔、するんだ)
気づけば、エリカは無意識に見入っていた。その視線に気づいたのか、レオンがふと顔を上げる。
「何か?」
「い、いえ!」
慌てて視線を逸らす。
(やばい、見すぎた)
ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、エリカは咳払いを一つして姿勢を正した。
「本日は突然の訪問、申し訳ございません。」
気を取り直して頭を下げる。
「リリアーナ様からのお手紙をお預かりしております。」
そう言って差し出すと、レオンは片手で器用にそれを受け取った。もう片方の腕では、変わらず赤ん坊を優しく支えている。封を切り、静かに目を通す。その横顔は、やはり整っていて、どこか近寄りがたい。
けれど先ほど見た表情のせいか、少しだけ印象が変わって見えた。
やがて、読み終えたレオンは顔を上げる。
「なるほど。」
短くそう言うと、迷いなく続けた。
「アルベルト様がよろしければ、喜んでお引き受けしましょう。」
「え?」
あまりにもあっさりとした返答に、エリカは一瞬言葉を失った。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ。むしろ興味があります。」
わずかに目を細める。
「アルベルト様の剣術を見てみたい。」
その言葉に、ほんの少しだけ鋭さが戻る。
「ありがとうございます。」
エリカは深く頭を下げた。
そのとき、腕の中の赤ん坊が小さく身じろぎする。レオンは自然な動作で、そっと揺らすように抱き直した。その仕草はあまりにも慣れていて、思わず見続けてしまう。
「そうだ。」
レオンが顔を上げ、エリカの先輩執事の方を向いた。
「リリアーナ様とアルベルト様へ、我が屋敷の天才パティシエが作ったケーキをお土産にお渡ししましょうか。受け取りをお願いしてもいいですか。」
レオンは自分の執事にも手配を依頼する。2人の執事はともに部屋を出ていった。
2人きり。そう思うと、急に緊張がよみがえる。
「……あなたは」
ふいに、レオンが言う。
「子どもは好きですか?」
突然の問いに戸惑う。
「えっと……はい、たぶん。身近にいないので、慣れていませんが。」
「そうですか。」
それだけ言うと、再び赤ん坊へ視線を落とす。
少しの沈黙。エリカはなんとなく、目線を窓の外に向ける。
「先日の、サラ様とアレクシス様の結婚式での件。」
レオンが、再び口を開く。
「影を見ていましたね。」
エリカの心臓が、どくんと跳ねた。視線が自然と彼に向く。レオンは、こちらを見ていた。逃げ場のない、まっすぐな視線。
「あなたは、あの影を見ることができる人間だ。」
断定だった。回答に少し迷ったが、嘘をつく理由はなかった。というか、彼の視線が、正直に言う以外の選択肢を与えていなかった。
「はい。おっしゃる通りです。」
小さく答える。レオンはわずかに頷く。
「なら、今後も関わることになるでしょう。」
そして、ほんの少しだけ柔らかく言った。
「そのときは、もう少し警戒を解いていただけると助かります。」
「……え。」
「顔に出ていますよ。『苦手です』と。」
赤ん坊を見るときとは違う、いたずらっぽい微笑みを向けられた。
一瞬、思考が止まる。
「っ……!」
一気に顔が熱くなる。
(ばれてる!?)
エリカのその様子を見て、レオンは小さく笑った。ほんのわずかに。
「安心してください。私も、あなたのことはまだよく分かっていませんから。」
その言葉は、不思議と嫌味には聞こえなかった。
レオンは続ける。
「これから、よろしくお願いしますね。」
エリカは短く頷く。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
そのやり取りは、とても簡単なものだった。けれどエリカの心の中では、レオンがほんの少しだけ親しみやすくなったような、そんな感覚が芽生えた。




