第38話 思いがけずやってくる
アルベルトが剣の稽古を再開してから、数日が経っていた。
屋敷の朝は以前よりも早く動き出すようになり、まだ空が白み始めたばかりの時間から、訓練場には剣を振る音が響いている。さらに夕食後にも稽古の時間を設けているため、アルベルトの一日は以前よりも明らかに過密になっていた。
それでも彼は一切手を抜くことなく、ただひたすらに剣を振り続けている。
そんな様子を見守りながら、リリアーナの心境にも少しずつ変化が生まれていた。
最初こそ、朝食を共にできないことや会話の時間が減ってしまったことに、どこか寂しさを感じていたが、セドリックの言葉を思い出すたびに、その気持ちは静かに形を変えていく。
きっと、何か思うところがある。
そう言っていた彼の穏やかな声が、何度も胸の中で響いた。
アルベルト様は、自分の意思で進んでいるのだから、妻として、それを応援したい。
そう思うようになっていた。
ある日の昼下がり、リリアーナはアルベルトの執務室を訪れていた。仕事の確認事項があり、机に向かって書類に目を通していたアルベルトに声をかける。
「お忙しいところ失礼します。」
「ああ、構わない。」
アルベルトは顔を上げ、手を止める。リリアーナは用件を手短に伝え、いくつかの確認を終えると、ふと視線を柔らかくして言った。
「稽古の調子はいかがですか?」
その問いに、アルベルトは少し考えるように視線を落とす。
「まずまず、と言いたいところだが。」
わずかに苦笑を浮かべる。
「正直なところ、自分が強くなれているのか実感がない。体は動くようになってきているが、それが実戦で通用するかは別の話だからな。」
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「やはり、もっと強い相手と稽古をしなければ限界がある。できれば、実力のある者と剣を交えたいところだ。」
その言葉を、リリアーナは静かに胸に留めた。
その日の夜。リリアーナの部屋には、柔らかな灯りがともり、静かな時間が流れていた。
ソファに腰掛け、紅茶を片手に本を開いていたリリアーナは、扉の方へと視線を向ける。
「エリカ、少しいいかしら。」
呼ばれて入ってきたエリカは、いつものように一礼した。
「はい、どうなさいましたか?」
リリアーナは本を閉じ、少しだけ真剣な表情になる。
「アルベルト様のことなのだけれど。」
その言葉に、エリカも自然と表情を引き締める。
「私に、何かできることはないかと思っているの。」
「私は剣ができるわけではないから、稽古の相手になることも、技術的な助言をすることもできないけれど……。」
そこで一度言葉を区切り、ゆっくりと続ける。
「せめて、望んでいることを叶えてあげたいの。」
昼間に聞いた言葉を思い出す。
――もっと強い人と稽古をしたい。
その想いに応えたいと、リリアーナは考えていた。
エリカは腕を組み、少し考えるように視線を上げる。
「それでしたら……」
そして、すぐに一つの名前を口にした。
「レオン様をお呼びするのはいかがでしょうか?」
その瞬間、リリアーナの表情がぱっと明るくなる。
「レオン様……!確かに、あの方なら実力も申し分ありませんし、何よりアルベルト様とも面識があります。」
エリカは頷く。
「ただ、お忙しい方ですので、引き受けてくださるかは分かりませんが。それでもお願いしてみる価値はあると思います。」
リリアーナはすぐに決断した。
「エリカ、お願いしてもいいかしら。あなたなら顔も知っているし、話もしやすいでしょう?もちろん執事を同行させるわ。女性一人では危ないもの。」
その言葉に、エリカは目を丸くする。
「私ですか!?」
思わず素の声が出てしまう。だが、リリアーナは真剣な表情のままだった。
「ええ、お願いできる?」
こういう決断の速さと行動力は、さすが仕事ができるリリアーナだと実感する。そのリリアーナのまっすぐな視線を受けて、エリカは小さくため息をつく。
「分かりました。やるしかないですね。」
その言葉に、リリアーナの表情が柔らかくなる。
「ありがとう、エリカ。」
エリカは少しだけ笑う。
「きっと、アルベルト様も喜ばれると思いますよ。」
「本当に、あなたやセドリック様、いろいろな方に支えられていると感じるわ」
リリアーナはそのまま、しみじみとした声で続ける。
「皆さん、とても優しくて私たちのことを気にかけてくださっていて。」
エリカも同じように頷いた。
「本当にそうですね。サラ様やセドリック様もそうですし、良い方ばかりで、素敵な世界です。」
そして、何気なく続ける。
「私が書いた物語とは、全然違う世界になっていて、嬉しいです。」
その瞬間だった。
「……え?」
リリアーナの声が、少しだけ低くなる。エリカの動きが止まった。
(……あ)
やってしまった、と遅れて気づく。ゆっくりと顔を上げると、リリアーナがじっとこちらを見ていた。
「今、なんと?」
逃げ場はなかった。
「えっと……。」
言葉が出てこない。ごまかそうとしても、何も浮かばない。
リリアーナはゆっくりと立ち上がり、一歩近づく。
「あなた……この世界の物語を書いているの?」
まっすぐな視線だった。
「いえ、その……そういうわけでは……。」
否定しようとするが、言葉が続かない。リリアーナはさらに一歩近づく。
その表情は穏やかなままだが、目だけが真剣だった。
「この世界、物語、と言ったわよね。一度、あなたの本当の話を聞かせて」
静かな声で言う。
「あなたが何者なのかも含めて。」
そして、はっきりと続けた。
「それ次第では、あなたとの関わり方も変わってくるかもしれない。」
その言葉は重く、逃げることを許さない響きを持っていた。
部屋の空気が、ぴんと張り詰める。エリカはしばらく何も言えなかった。
だが、やがて小さく息を吸う。
(もう、ごまかせない)
ここで逃げれば、すべてが崩れる。そう直感した。
どんな結果になったとしても、伝えるしかない。
エリカは一度目を閉じ、深く息を吐く。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「私は」
わずかに震える声で、しかしはっきりと。
「日本という国からやってきました。」
その言葉が、静かな部屋の中に落ちた。




