第35話 疑念
屋敷へ戻る頃には、すでに夜も更けていた。
馬車の音に気づいたのか、 玄関の扉を開けた先にはエリカが立っており、リリアーナの姿が見えるとすぐに一礼して出迎える。
「お帰りなさいませ、リリアーナ様」
柔らかな声でそう言いながらも、エリカの視線は一瞬だけリリアーナの様子を確かめるように動いた。
リリアーナはいつも通り穏やかな表情をしているようで、雰囲気はどこか重く、言葉数も少ない。一言で言うと、元気がない。
わずかな違和感だったが、エリカには十分に気づける変化だった。
「アルベルト様は?」
エリカがそう尋ねると、リリアーナは「もう少ししたらいらっしゃるかと思いますよ」とだけ言い、そのまま廊下の奥へと歩いていった。何かあったのだろうか。
自室にもどる間、リリアーナは無言だった。考え事をしているのか、疲れているのか。少しうつむいている彼女の後ろ姿からなんとなく、両方なのだろうなと察した。
「お茶会はいかがでしたか?」
エリカの問いかけに、リリアーナは少しだけ困ったように笑った。
「それが、とても大変だったのです。」
「大変、ですか?」
エリカが首を傾げる。リリアーナは頷き、何から話そうかと少し考えるようにしてから言葉を続けた。
「突然、黒い人影が現れたのです。」
その言葉を聞いた瞬間、エリカの表情がわずかに動く。
「黒い、人影?」
「はい。まるで影が人の形になったようなものです。」
リリアーナはあの瞬間を思い出すように、ゆっくりと言葉を選びながら話していく。
庭園での騒ぎ。突然現れた黒い影。悲鳴を上げた貴族たち。
そして、その影がまっすぐ向かった先。
「エミリア様のところへ行ったのです。」
エリカは黙ったまま聞いていた。
「エミリア様はとても驚いていらして、アルベルト様の後ろに隠れて」
リリアーナはそこまで言って、少しだけ言葉を止める。
「そのとき、レオン様が剣を抜いてくださいました。」
「レオン様が?」
「はい。迷いなく影に向かっていって……」
そのときの光景を思い出したのか、リリアーナの表情には少しだけ感心したような色が浮かぶ。
「とても強かったです。まるで迷いがありませんでした。」
エリカは腕を組み、静かに聞いている。
(……あいつ)
心の中で小さく呟く。
(強いのか)
以前会ったときは軽口ばかり叩く男という印象だったが、どうやらそれだけではないらしい。
リリアーナは続けた。
「その間に、私は皆様を避難させることしかできませんでしたが。」
「いえ、それは立派なことです。」
エリカはすぐに言う。
「混乱した場で人をまとめるのは簡単なことではありません。」
リリアーナは少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいです。」
そうして一度言葉が途切れたあと、リリアーナはふと思い出したように言った。
「そういえば。エミリア様は、ずっとアルベルト様と一緒にいらっしゃいました。」
その言葉に、エリカの眉がほんのわずかに動く。
「アルベルト様にたくさんの方々を紹介くださっていたんです。アルベルト様もとても忙しそうでしたが、きっと収穫は多かったと思います。」
リリアーナは言葉ではそういうものの、どこか寂しい表情だ。なるほど、リリアーナ様に元気がない原因は、黒い人影だけではなさそうだと、エリカはより真剣にリリアーナの言葉と表情に意識を集中させる。
「ずっと、アルベルト様の腕にしがみついていらっしゃいました。」
その言葉を聞きながら、エリカは「そうだったのですね」とだけ答える。頭では、静かに考えていた。
(すれ違い始めている気がする......)
エリカの胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
私が書いた物語の中では、リリアーナとアルベルトのすれ違いの原因になっていたのはサラだった。
だが今の話を聞く限り、その役割に近い位置にいるのは。
(エミリア?)
もちろん、まだ何も決定的な事実が言えるわけではない。だが、私が動かない限り、物語は私が書いたとおりに動くはず。でも、エミリアやレオンの登場、またすれ違いのきっかけになる出来事の発生、黒い人影。
やっぱり、魔法使いが言っていた通り「もう一つの物語」も存在している。
そのとき、リリアーナがふとエリカの顔を見る。
「どうかしましたか?」
エリカははっと意識をリリアーナに戻し、すぐに微笑みを浮かべる。
「少し考え事をしていただけです。」
そう言いながら一礼し、リリアーナの後ろに控える。
エリカは、そこからずっと思考を巡らせていた。
もし本当にエミリアが、二人の関係を揺らす存在になるのだとしたら。
自分はどう動くべきなのか。もう一つの物語は、この世界をどうしようとしているのだろうか。
そしてもう一つ。
黒い人影のことも気になる。今までは形容できるような形のあるものではなかった。それが今回「人影」になり、さらに襲い掛かろうとした。なんの目的で?襲われたらどうなる?レオンが剣で戦ったように、黒い影は消すことができるものなのだろうか?
いくつもの疑問がわいていた。




