第33話 余波
黒い影が霧のように崩れ、跡形もなく消え去ったあとも、庭園にはしばらく緊張した空気が残っていた。
誰もが互いの顔を見合わせ、先ほどの出来事が本当に現実だったのか確かめるようにざわめいている。
やがて、避難していた貴族たちが少しずつ戻ってくると、そのざわめきは次第に別の種類のものへと変わっていった。
「今の剣術、見ましたか?」
「見たとも!まさかあのレオン様だったとは。」
「侯爵家の次期当主と聞いてはいたが、あれほどとは……!」
庭園の中央では、すでに人だかりができていた。その中心に、レオンがいる。落ち着いた様子で剣を鞘に収めている彼の周囲に、貴族たちが次々と集まってくる。
「あなたがあのレオン様だったのですね!」
「学生時代から武芸に優れているとは聞いていましたが。」
「いやはや、実に見事な剣でした。」
口々に称賛の言葉が飛び交う。レオンはそれを軽く受け流すように微笑みながら、困ったように肩をすくめた。
「大げさですよ。ただ少し剣の稽古をしていただけです。」
だが、その言葉を真に受ける者はいない。むしろその余裕のある態度が、さらに剣の腕がたつことを証明しているようで、周囲の尊敬を集めていた。
一方、庭園の別の場所でも人だかりができていた。
そこにいるのは、リリアーナだった。
「リリアーナ様、本当にありがとうございました。」
「あなたが落ち着いて誘導してくださったおかげで、混乱せずに済みました。」
「素晴らしい判断でしたわ。」
貴族たちが次々と礼を言いに来る。突然の出来事だったにもかかわらず、リリアーナが冷静に避難誘導を行ったことは、誰の目にも明らかだった。
「いえ……私は大したことはしていません。」
リリアーナは少し困ったように微笑む。
「皆様が落ち着いてくださったから、うまくいったのです。」
謙遜するように言うが、その態度は落ち着いていて品がある。その様子を見て、ある貴族がふと尋ねた。
「ところで失礼ですが、あなたはどなたのご令嬢なのでしょうか?」
リリアーナが答える前に、別の貴族が言った。
「まさかとは思いますが。」
そしてアルベルトの方を見て、驚いた声を上げる。
「リリアーナ様は、アルベルト公爵の奥様だったのですか?」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「なるほど、それで……!」
「いやはや、素晴らしい奥様だ。」
「アルベルト様が羨ましいですな。」
次々とそんな声が上がる。アルベルトはその場に立ちながら、何と答えていいか分からず一瞬言葉を失った。羨ましがられるのは俺の方か。
するとリリアーナが静かに微笑む。
「そんなことはありません。」
「夫が前に立って守ってくれていたから、私も何か役に立ちたいと思っただけです。」
その言葉は自然で、嘘のない調子だった。
しかしアルベルトの胸の奥に、重いものが落ちる。
(……守っていた、か)
実際には、何もできなかった。影と戦ったのはレオンであり、貴族たちをまとめたのはリリアーナだ。
自分はただ、その場に立っていただけだった。
それなのにリリアーナは、まるで自分が彼女を守っていたかのように話してくれている。
その事実が、かえって胸に刺さった。
アルベルトはわずかに視線を落とす。そのときだった。
「お二人とも。」
落ち着いた声がかかる。振り向くと、レオンがこちらへ歩いてきていた。
先ほどまで多くの貴族に囲まれていたはずだが、いつの間にか抜けてきたらしい。
「大丈夫でしたか?」
レオンはそう言いながら二人の前で足を止めた。
「ええ。皆様も落ち着いたようです。」
リリアーナが答える。レオンは小さく頷いたあと、少しだけ声を落とした。
「まだ、あの黒い影が何なのかは分かりません。ただ......」
一瞬だけ庭園の方へ視線を向ける。
「また出てくる気がします。」
その言葉に、アルベルトの表情が引き締まった。
「周囲には注意しておいてください。」
そしてレオンはアルベルトを見る。
「特にあなたは、リリアーナ様をしっかり守るように。」
静かな言い方だったが、「リリアーナ様を」を強調して言ったその言葉には、重みがあった。
アルベルトはゆっくりと頷く。
するとレオンは、ふと思い出したようにリリアーナに視線を変え、言葉を続けた。
「それから、あなたがたのメイドさんもね。」
リリアーナが首をかしげる。
「メイド……?エリカのことですか?」
レオンは一瞬だけ間を置き、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。」
「おっしゃる通りですが、どうしてエリカが?」
「信頼しているメイドがいないと、あなたも寂しいでしょう。」
冗談めかした言い方だった。
リリアーナは少し考えてから、くすりと笑う。
「それは、確かにそうですね」
納得したように頷く。その横で、アルベルトは静かに拳を握った。
(俺が、もっとしっかりしなければ)
さきほどの出来事が頭をよぎる。
守れなかった悔しさ。そしてリリアーナの言葉。
アルベルトは小さく息を吐き、心の中で決意を固めた。
これからは、もっと、強くならなければならない。
庭園では、すでにお茶会の終わりを告げる声が上がり始めていた。しかし誰もが、今日の出来事をしばらく忘れることはないだろう。
黒い影。
そして、それに立ち向かった者たちの姿を。




