第32話 影
庭園には、穏やかな午後の空気が流れていた。
色とりどりの花が咲き、軽やかな音楽と貴族たちの談笑が重なり合っている。
その中心にいるのは、アルベルトとエミリアだった。
「アルベルト様、こちらは父の旧友でいらっしゃるバルディア伯爵です。」
「はじめまして、公爵。お会いできて光栄です。」
エミリアはにこやかな笑顔で次々と人を紹介し、アルベルトもまた丁寧に応じていく。
社交の場では当然の振る舞いではあるが、会話が一区切りつくたび、アルベルトの視線は無意識に庭園の端へ向かっていた。
そこにいるのは、リリアーナだ。
そしてその隣には、レオンの姿がある。
二人は落ち着いた様子で会話を続けており、ときおりリリアーナが小さく笑う。
その光景を見ながら、アルベルトは小さく息をつく。
(そろそろ戻りたい)
そう思い、会話の切れ目を見計らって口を開いた。
「失礼。少し妻のところへ――」
ところが、その言葉を最後まで言い終える前に、エミリアがぱっと顔を輝かせた。
「まあ、ちょうどよかったですわ!」
そう言って、アルベルトの袖を軽く引く。
「ぜひご紹介したい方がいらっしゃるんです。こちらへ」
示された先には、王都でも影響力の大きい貴族が立っていた。さすがにこの場で断るのは失礼にあたる。
アルベルトは一瞬だけ庭園の端を見たあと、結局そのまま新しい会話の輪へと引き込まれていった。
その頃、庭園の端では。
「アルベルト様、大人気ですね。次から次へとやってくる。」
レオンが軽く肩をすくめながら言った。リリアーナは視線を遠くへ向けたまま、控えめに微笑む。
「そうですね。きっとお忙しいのでしょう。」
そう答えたものの、彼女の目はやはりアルベルトのいる方向を追っていた。レオンはその様子を横目で見て、ふっと小さく笑う。
「アルベルト様を呼び戻しましょうか。」
「え?」
リリアーナは驚いたように顔を上げた。
「さすがに妻であるあなたを、これほど長く一人にさせるのはどうかと思いますので。」
「い、いえ……仕事ですし。」
リリアーナは慌てて首と手を同時に振る。
「でも、お気遣いありがとうございます。」
するとレオンは、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「僕としても、誰かに妙な誤解をされるのは困りますからね。」
「誤解……ですか?」
「ええ。あなたとアルベルト様の仲の邪魔をするつもりはありませんし。」
さらりと言って立ち上がる。そしてアルベルトのいる方へ歩き出そうとした、その瞬間だった。
庭園の空気が、ふっと変わった。
まるで冷たい風が通り抜けたかのように、場の温度がわずかに下がる。
次の瞬間――
エミリアのすぐ後ろで、黒いものが揺らめいた。
それは人の形をしていた。だが輪郭は曖昧で、煙のように揺れ続けている。
「きゃああっ!」
鋭い悲鳴が庭園に響いた。エミリアだった。周囲の貴族たちも一斉に振り向く。
「な、なんだあれは!?」
「魔物か!?」
ざわめきが一気に広がり、庭園の空気は瞬く間に混乱へと変わった。
その中心で、アルベルトは即座にエミリアの前へ出る。
「下がってください!」
エミリアは震えながら、アルベルトの背中にしがみついた。
「こ、怖いです、アルベルト様……」
一方で、庭園の端。リリアーナの前には、すでにレオンが立っていた。
彼は自然な動きでリリアーナを背後にかばいながら、黒い影をじっと見つめている。人の形をしたそれは、アルベルト――いや、おそらくエミリアの方へ向かってゆっくりと進んでいる。
レオンは小さく呟いた。
「ほう……?」
次の瞬間、レオンの身体が動いた。
地面を蹴ると同時に、風のような速さで駆け出す。腰の剣が抜き放たれ、鋭い金属音が庭園に響いた。
エミリアはアルベルトの後ろに隠れ、必死に腕にしがみついていた。
黒い人影は、徐々にエミリアとアルベルトとの距離をつめていく。
その間に――
レオンが割って入る。
「危ないので下がってください。」
落ち着いた声でそう言いながら、剣を構える。
影はまるで覆いかぶさるように、レオンへ迫った。
その瞬間、剣が閃く。鋭い一撃が影を斬り裂いた。
だが、確かな手応えはない。煙を斬ったような奇妙な感触だけが残る。
「……なるほど。」
レオンは静かに呟いた。アルベルトも剣を抜こうとしたが、そのときだった。
「あなたは参加者を守ってください。」
レオンが言った。視線は影から外さないまま。
「ここは僕がやります。」
アルベルトは一瞬だけ迷う。だが周囲では、すでに多くの貴族が混乱していた。
黒い人影の脅威が分からない。こんな物体は見たこともない。本当にレオンだけで対処できるのか。
迷っていたそのとき。
「私がやります。」
落ち着いた声が響く。
リリアーナだった。
「皆様、落ち着いてください!」
庭園に通る声で呼びかける。
「庭園の出口はこちらです。順番に避難してください!」
貴族たちは戸惑いながらも、リリアーナの声に導かれるように動き始める。
「慌てなくて大丈夫です、ゆっくり進んでください。」
リリアーナは次々に人を誘導し、混乱していた庭園は次第に秩序を取り戻していった。
それにつられてアルベルトも動こうとした。
しかしその腕を、ぎゅっと掴む手があった。エミリアだった。
「怖いです……!」
震える声で言う。
「アルベルト様、守ってください……」
腕にしがみつき、離れない。アルベルトは振り払うのも申し訳ないと、動けなくなった。
そのときだった。
「あなたも逃げますよ!」
リリアーナが現れた。迷いなくアルベルトの腕からエミリアの手を外し、そのまま彼女の背を押す。
エミリアは抵抗する間もなく、避難する貴族たちの列へと押し出された。アルベルトは、その様子を呆然と見ていた。
その間にも、庭園の中央ではレオンが影と戦っている。
剣の動きは無駄がなく、流れるようだった。影は何度も襲いかかるが、レオンは冷静にそれをさばいていく。
そして最後の一撃。
剣が影の中心を貫いた。
次の瞬間、黒い影は霧のように崩れ、そのまま跡形もなく消えていった。
庭園に静寂が戻る。
「ふう、収まったかな?」
レオンはそう言いながら剣を収め、しばらく黒い人影がいた場所を見つめていた。
アルベルトはゆっくりと周囲を見渡した。避難は完了している。そして人々の中心には、リリアーナが立っていた。
アルベルトはふと、自分の手を見る。
何もしていない。
レオンの剣術。リリアーナの統率力。二人の姿が鮮明に焼き付いていた。エミリアを守らなければ、リリアーナも守らなければ、自分も参戦しなければ。それらが一気に押し寄せてきて、結果なにも判断できなかった。
アルベルトは小さく息を吐く。そして、苦笑するように呟いた。
「情けないな。」
それは、誰に聞かせるでもない、自分への言葉だった。




