第31話 それぞれの立場 2
庭園に設けられたティーテーブルの周囲には、柔らかな笑い声と紅茶の香りが満ちていた。
エミリアの屋敷で開かれたお茶会は、想像していた以上に賑やかな社交の場となっており、庭のあちこちで小さな輪が生まれては消えていく。
その中央の一つで、アルベルトは落ち着いた表情のまま会話を続けていた。
「先日の北方交易ですが、近々新しい航路が――」
「それは興味深い話ですな。」
周囲の貴族たちが頷く。
エミリアはそんな会話を満足そうに眺めながら、次の人物を紹介しようとしていた。
「アルベルト様、こちらの方は――」
だが、その時だった。ふとした瞬間に、アルベルトの視線が庭園の端へと流れる。
そこには、リリアーナの姿があった。
そして、その隣にはレオンがいる。二人は穏やかな表情で会話をしている。
レオンが何か冗談を言ったのか、リリアーナがくすりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、アルベルトの胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(楽しそうだな)
それはただの感想のはずだった。だが、なぜか視線がそこから離れない。
レオンが少し身を乗り出して話す。
リリアーナがそれに頷く。
会話は聞こえず、何を話しているか分からないが、二人の雰囲気は自然で、親しげだった。
「アルベルト様?」
エミリアの声で、アルベルトははっと我に返る。
「失礼。」
「お疲れではありませんか?」
エミリアは心配そうな顔を作る。
「いえ、問題ない。」
そう答えながらも、アルベルトの視線はもう一度だけ庭園の端へ向いた。変わらず、二人はまだ話している。しかもリリアーナは、ここに来てから一番自然な笑顔を浮かべているように見えた。
胸の奥で、何かがわずかに引っかかる。理由はよく分からない。
ただ、なぜか落ち着かなかった。
アルベルトはグラスをテーブルに置き、静かに言う。
「少し、妻のところへ。」
その瞬間だった。
「アルベルト様。」
エミリアが一歩前に出る。
「まだご紹介できていない方がいらっしゃるのです。」
彼女の視線の先には、年配の貴族が立っていた。
王都でも影響力を持つ人物だ。確かに、無視するのは難しい相手だった。
アルベルトは一瞬だけ迷う。
「こちらの方は商会を三つまとめている方でして、きっと今後のお仕事にも――」
エミリアは柔らかく微笑む。アルベルトはわずかに息を吐いた。
「分かった。」
そう言って再びその場に留まる。年配の貴族は満足そうに頷き、すぐに商会の話題へと移っていった。周囲の者たちもそれに加わり、再び穏やかな社交の輪が形作られる。しかしアルベルトの意識は、完全にはそこへ戻っていなかった。
言葉を返しながらも、ふとした瞬間に視線が庭園の端へと向いてしまう。
そこではまだ、リリアーナとレオンが話していた。
二人の間には、きちんと礼儀ある距離が保たれている。特別親密に見えるわけではない。むしろ貴族としてはごく自然な会話の距離だ。
それでも、レオンが少し身を乗り出し、軽く手を振って何かを説明すると、リリアーナがまた小さく笑った。
その笑顔は、今日ここに来てから、アルベルトがまだ見ていない表情だった。
胸の奥で、わずかな違和感が広がる。
それは怒りでも、はっきりした不快感でもない。
ただ、落ち着かない。
まるで小さな棘がどこかに刺さっているような感覚だった。
(何を考えている)
アルベルトは自分の思考を打ち消すように、グラスに手を伸ばす。
ただ会話をしているだけだ。レオンはアレクシスの従兄弟で、信頼できる人物だし、社交の場で話すこと自体は何もおかしくない。
そう理解しているはずなのに、なぜか胸の奥が少しだけざわついていた。
「アルベルト様?」
呼ばれて、アルベルトは顔を上げる。
「申し訳ない。続きを…」
会話は再び進み始めた。
商会の話、領地の話、王都の最近の動き。どれも重要な話題であり、本来なら集中すべき内容ばかりだ。
だが、会話の合間にふと目を上げると、どうしても視界の端に二人の姿が入ってくる。
レオンが穏やかに笑う。リリアーナがそれに応える。
その様子は誰がどう見ても、楽しそうだった。
――楽しそうだ。その事実が、なぜか胸に残る。
一方その頃、庭園の端では。
「そういえば。」
レオンがカップを軽く持ち上げながら言った。
「アルベルト様は今日は大人気ですね。」
その言葉に、リリアーナは小さく視線を向ける。
確かにアルベルトは人に囲まれている。
そしてその中心には、エミリアが立っていた。楽しそうに話しかけ、次々と人を紹介している。
「……そうですね。」
リリアーナは静かに微笑む。
「お仕事ですもの。」
そう言った声は、いつも通り穏やかだった。
けれどレオンは、ほんの少しだけ首をかしげた。
「それにしても。」
彼は少し声を落とす。
「あなたをあんな端に置いておくのは、あまり良い社交とは言えない気もしますが。」
その言葉に、リリアーナは一瞬だけ目を瞬かせた。
「いえ、そんな……」
否定しようとしたものの、言葉は途中で止まる。自分でも気づかないふりをしていた感情に、少し触れてしまった気がした。
だからリリアーナは、軽く肩をすくめて笑う。
「大丈夫ですわ。こうしてお話し相手もできましたし。」
レオンはその言葉を聞きながら、少しだけ遠くを見た。
アルベルトの方だ。そして、またリリアーナへ視線を戻す。
「それは光栄ですね。」
冗談めかして言うと、リリアーナはくすりと笑った。
春の風が庭園を静かに吹き抜ける。
テーブルの上のティーカップが、わずかに音を立てた。遠くでは社交の輪が広がり、笑い声が続いている。その穏やかな光景の中でアルベルトはふと、もう一度だけ庭園の端を見た。
そして、リリアーナが笑っているのを確認する。
胸の奥に残る小さな違和感の正体に、まだ気づかないまま。
その頃リリアーナもまた、アルベルトの視線に気づくことなく、レオンとの会話を続けていた。
ほんの少しずつ、気づかないところで、二人の距離がずれていく。




