第3話 社会人4年目OL、メイドになっていた(エリカ)
――落ち着け。落ち着け、私。
心の中で何度そう唱えても、現実はまったく落ち着いてくれなかった。
(何が起きたの?ここどこ?なんで私、こんな格好してるの?)
視界の端に映るのは、ふわりと広がるスカートの裾。フリル付きのエプロン。動くたびに、かすかに布が擦れる音がする。
……完全に、メイド服だった。
(いやいやいやいや)
本当は今すぐ頭を抱えて叫び出したかった。
しゃがみこんで、「待って待って待って!」って言いたかった。
「こちらが、奥様付きの新しいメイドです」
メイド長の凛とした声が響く。
目の前には、公爵夫人――リリアーナ。
触れてみたくなる艶のある長い髪、ニキビできたことないでしょと言いたくなる陶器のような肌、大きく上品な輝きを放つ目、長くて自然なカールが華やかさを高めるまつ毛、スラっとした背筋。
ノートの中で何度も描いた姿。でも、実物は想像以上に存在感があった。
私の背筋も自然と伸びる。
冷たいわけじゃない。むしろ柔らかな印象なのに、近づくだけで空気が引き締まる。
「エリカと申します。本日より、よろしくお願いいたします」
気づけば私は、完璧なお辞儀をしていた。
(待って、私、なんでこんなに自然なの)
体が勝手に動いている。頭は追いついていないのに。
リリアーナは一瞬だけ私を見つめ、それから小さくうなずいた。
「……よろしく」
それだけ。なのに、なぜか心臓が跳ねた。
(うわ、本物だ……)
紹介が終わると、すぐに業務の引き継ぎが始まった。
部屋の配置。奥様の一日の流れ。服の管理方法。書類の扱い。紅茶の好み。温度。時間。
「奥様は、効率を重視されます。準備は常に先回りを」
「私室に入る際は、必ず二度ノックを」
「判断に迷った場合は、自己判断せず確認を」
情報量、多い。脳が追いつかない。
(待って待って、無理。メモ取りたい)
でも、そんな余裕はなかった。私は必死でうなずき、復唱し、覚えようとする。間違えたら終わりな気がして。
(ここ、異世界だよね?日本じゃないよね?でも、仕事は仕事だ……!)
皮肉なことに、社会人四年目の経験がここで役に立った。
分からないときは聞く。返事ははっきり。顔には出さない。心の中で嵐が吹き荒れているなんて、誰にも気づかせない。
そうして、ひと通りの引き継ぎが終わった頃には、足が少し震えていた。
「では、休憩に入って構いません」
その一言に、内心でガッツポーズする。
案内された小さな部屋で、扉が閉まった瞬間。
「……っはぁ……」
ようやく、息を吐けた。
(ほんとに無理だ。情報量が多すぎる。)
椅子に腰を下ろし、両手を膝の上でぎゅっと握る。
整理しよう。今起きていることを。
私は、日本でOLをしていた。
黒歴史ノートを見つけた。
開いた。
気づいたら――この世界。
(転生……だよね。たぶん)
しかも、よりによって。
(あの物語の世界)
リリアーナ。
公爵。
すれ違う夫婦。
そして、結末は。
(……うまくいかない)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
当時は、ひねくれ中学生によるただの創作だった。
でも今は、目の前にはその夫婦が生きている。
(しかも私、専属メイド)
笑えない。でも、落ち込んでいる暇はなかった。
(まずは、元の世界に戻る方法を探そう)
異世界転生ものの定番だ。何か条件があるかもしれない。
役目を果たせば帰れるとか、どこかに黒歴史ノートが置いてあって、それを開けば戻れるとか。
(それまでは……)
私は、もう一度背筋を伸ばす。
(ちゃんと、メイドをやろう)
仕事なら、なんとかなる。少なくとも、パニックのまま何もしないよりは気も紛れる。
それに――
(この人たちの未来、私、知ってるんだよな……)
扉の向こうにいる公爵夫人の姿を思い浮かべる。
有能で、不器用で。好きなのに、うまく伝えられない人。
「……はぁ」
休憩時間は、あっという間に終わった。立ち上がり、エプロンを整える。
(よし)
まず冷静に。今はただのメイド。
このときの私は、まだ知らなかった。公爵夫人リリアーナが、すでに私という存在に、小さな違和感を抱き始めていたことを。




