第29話 本音が言えないリリアーナ
夕暮れになり、屋敷の窓を穏やかな夕日が染めている頃。
食堂の長いテーブルにはすでに夕食の料理が並び、控えているメイドたちが静かに最後の準備を整えている。大きな窓の外では庭の灯りがひとつ、またひとつと灯り始め、屋敷全体が落ち着いた夜の空気に包まれていく時間だった。
その席に、リリアーナとアルベルトが向かい合って座っている。
こうしてゆっくり食事を共にする時間は、最近ようやく自然になってきたものだった。以前は言葉を探すばかりで沈黙が多かったのに、今では他愛ない会話も増え、穏やかな、そしてあたたかい時間が流れることが多くなっている。
だが今夜のリリアーナは、どこか落ち着かなかった。フォークを手に取りながら、何度も言葉を選び直している。
(……どう伝えようかしら)
昼間の出来事を思い出す。
エミリアの訪問。お茶会の招待。
本当なら、アルベルトが「忙しいから難しい」と言ってくれるのではないかと、どこかで期待していた。けれど、それはまだ伝えていないリリアーナの勝手な希望でしかない。結局、彼に判断を任せるしかないのだ。
リリアーナは小さく息を整え、口を開いた。
「アルベルト様。」
「どうした?」
料理に手を伸ばしながら、アルベルトが穏やかに顔を上げる。
「本日、来訪がありました。」
「来訪?」
「はい。アルベルト様にご用件とのことでしたが、お仕事中でしたので、私が応接いたしました。」
アルベルトは軽く頷いた。
「それはありがとう。誰だった?」
「エミリア様です。」
その名前を聞いた瞬間、アルベルトは少し驚いたように眉を上げた。
「エミリア嬢が?」
「はい。結婚式の日のお礼をお伝えしたいとのことで。」
リリアーナはあくまで事実を伝えようと、昼間の出来事を丁寧に説明する。サラとアレクシスの屋敷で迷ったエミリアを、アルベルトが案内したこと。そのお礼をどうしても伝えたかったということ。
アルベルトは思い出したように頷いた。
「ああ、確かにそんなことがあったな。庭の通路が入り組んでいるから迷いやすいんだ。」
「それで……」
リリアーナは一瞬言葉を止める。ほんのわずかに視線を落としてから続けた。
「お礼として、エミリア様の屋敷で開かれるお茶会に、アルベルト様を招待したいそうです。」
その言葉を聞いたアルベルトは、特に深く考える様子もなく答えた。
「そうか。それなら行こう。」
あまりにもあっさりした返事だった。
リリアーナの手が、ほんのわずかに止まる。
「……行かれるのですか?」
「せっかく誘ってくれたんだ。礼を受け取らないのも失礼だろう。」
アルベルトは自然な口調で続ける。
「それに、隣国の公爵家との関係を築く機会にもなる。社交としても悪くない話だ。」
理屈としては、正しい。
むしろ貴族としては当然の判断だった。
それでも、リリアーナの胸の奥にもやりとした感情が広がる。
(……そうよね)
ただのお茶会。ただの社交。分かっている。本当に、純粋なお礼で招待してくれただけかもしれない。
エミリアが可憐な令嬢で、礼儀正しく、所作も丁寧だということも、今日実感したばかりだった。こんな時、エリカならどんな助言をくれるのだろう。
「……そうですね。」
リリアーナは微笑んだ。いつものように、穏やかに。
「エミリア様も喜ばれると思います。」
アルベルトは特に違和感を覚えることもなく頷いた。
「日程を確認しておこう。君が都合の悪い日はあるか?」
その言葉に、リリアーナは少しだけ驚いた。
「私、ですか?」
「当然だろう。夫婦で招待されているものだと思っていたが違うのか?」
アルベルトは不思議そうに言う。
「アルベルト様に、とだけおっしゃっていましたので。」
「そうか。まあ、妻である君が一緒に行くことは問題ないだろう。招待状に特に指定がなければ、君も行くと伝えておく。」
だが、その言葉を聞いても、胸の中のもやもやは消えなかった。
(そうじゃないの)
言いたいことが、喉の奥まで上がってくる。
どうしてそんなに簡単に受けてしまうのか。
どうして少しも迷わないのか。
そんなことを口にする理由が、リリアーナには見つからなかった。本当にただのお礼、社交であれば、リリアーナのこれらの本音はただのわがままでしかない。
エミリアはただお礼をしたいだけ。アルベルトは社交として受けただけ。どちらも間違っていない。
「……楽しみですね。」
結局、そう言うしかなかった。アルベルトは満足そうに頷き、料理に手を伸ばす。
しかしリリアーナは、食事の味をほとんど覚えていなかった。
久しぶりに訪れた、小さなすれ違い。心に宿る、言葉にできないもやっとした感情。
それはまだ、ほんの小さな影のようなものだった。
けれどその夜、リリアーナの胸の奥には、説明できない不安が静かに残り続けていた。




