第24話 あの日、窓の向こうにいた人
「今日は、本当にいい一日でした。」
部屋に戻ってきたリリアーナは、椅子に座るなりそう言った。
頬は少し赤く、表情はどこか柔らかい。仕事の時に見せる凛とした雰囲気ではなく、年相応の、素直な喜びがそのまま表れている。
「アルベルト様と、たくさんお話しできましたし、一緒に選ぶ時間も、とても楽しくて。」
その言葉を聞きながら、私は心の中でうなずく。
うまくいった。本当に、うまくいっている。
「前よりも、少し近づけた気がします!」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「それはきっと、アルベルト様も同じお気持ちだと思いますよ。」
そう言うと、リリアーナは少し照れたように笑った。
部屋には、穏やかな空気が流れている。しばらく、今日の出来事を振り返る。
仕立て屋でのやり取り。馬車の中での会話。選んだドレスの色。
話せば話すほど、リリアーナの表情が柔らかくなっていく。
「そういえば。」
ふと、彼女が言った。
「アルベルト様との出会いを、エリカは知っていますか?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
(……書いてない)
そうだ。私が書いた物語は、結婚の話から始まっている。
二人がいつ、どこで、どうやってお互いを認識したのか。そこは、描いていなかった。
「いえ……存じません。」
そう答えると、リリアーナは少し遠くを見るような目になった。
「大学に入学したときのことです」
静かに、話し始める。
十八歳になり、大学へ進学したリリアーナ。
高校時代からの成績と評判もあり、入学時点で彼女の名前は広く知られていた。
首席入学。才色兼備。噂はすぐに広まり、講義に出れば声をかけられ、休憩時間になれば誰かが話しかけてくる。
最初は、ありがたいと思っていた。
「でも気づけば、いつも誰かに囲まれていて。一人で本を読む時間も、勉強に集中する時間も、なかなか取れなくなってしまって。」
その声は、少しだけ苦笑混じりだった。
「ある日、どうしても一人になりたくて、すべてのお誘いをお断りして、図書館に行きました。」
静かな空間。ようやく得られた、自分の時間。
窓際の席で勉強をしていたとき、ふと外が目に入った。
中庭で、男子学生が数人、楽しそうに話している。その中に、アルベルトがいた。
「そのときは、ただの一人として見ていただけでした。」
楽しそうに笑い、仲間と話している姿。
特別な印象は、まだなかった。
しばらくして、他の学生たちが去っていった。
アルベルトは、その場に一人残った。
そして、鞄から本を取り出すと近くのベンチに座り、すぐに読み始めた。
さっきまでの表情とは、まるで違う。
真剣で、集中していて、周りのことなど見えていないような顔で、まっすぐに本に向かっていた。
「直前まで楽しそうにしていたのに、一人になった瞬間、迷いなく勉強を始めて。」
その変化に、目を奪われた。
「私と違って流されているわけではなくて、きちんと、自分のやるべきことを分かっている人なんだと思いました。」
そのとき初めて、アルベルトという存在を意識した。
「それが、私があの方を知ったきっかけです。」
話し終えたリリアーナの表情は、どこか懐かしそうだった。
(なるほど……)
アルベルトらしい。そして、それに気づくリリアーナも、やっぱりリリアーナだ。
「素敵な出会いですね。物語みたいです。」
そう言うと、彼女は少しだけ照れたように笑った。
「話したことは、そのずっと後なのですけれどね。」
少しの沈黙、穏やかな空気。そして、リリアーナがこちらを見る。
「エリカ、あなたのことも教えてくれませんか?」
胸が、どくんと鳴った。
「あなたは、どんなふうに育ってきたの?」
まっすぐな視線。疑いはない。ただ、知りたいという気持ちだけがある。
(どうしよう)
別の世界から来たなんて、言えるわけがない。でも、何も話さないのも不自然だ。
少し考えてから、口を開く。
「私は……あまり目立つような人間ではありませんでした。」
これは、嘘ではない。
「どちらかというと、一人でいるのが好きで。本を読んだり、何かを書いたりするのが好きでした。」
リリアーナが、静かに聞いている。
「人前に出るのは、あまり得意ではなくて。」
「好きなことも、あまり誰かに話すタイプではなかったんです。」
少しだけ、言葉を選ぶ。そして、小さく息を吸う。
「でも、誰かの役に立てることは、嬉しいと思っていました」
それは、本当の気持ちだった。
リリアーナが、優しく微笑む。
「だから、あなたは人の気持ちに気づくのですね。」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「そうだと、いいのですが。」
そう答えると、彼女は小さくうなずいた。
「エリカ」
静かな声。
「あなたが来てくれて、本当に良かったです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが揺れた。
嬉しい。
でも、同時に、ほんのわずかな、不安が混ざる。
もし、この世界が、もし、この関係が。
――いつか、終わるとしたら。
窓の外では、夕日が屋敷の庭を優しく照らしていた。
穏やかで、静かで。
まるで、何も問題など起きていないかのように。
私はこれからどうなっていくのか、彼女たちもどうなっていくのか。
ただ、どうか幸せになるのを見てから、元の世界に戻りたいと思い始めていることを自覚した。




