第23話 隣にいるということ
正直に言えば、今日は朝から落ち着かなかった。
理由は分かっている。
リリアーナと、二人で出かけるからだ。
もちろん、メイドや執事は同行する。護衛もいる。形式としては、ただの外出、買い物だ。
だが――
(……二人で出かけるのは初めてだ)
この事実が、頭から離れない。
玄関前で待っている間も、妙に時間が長く感じた。姿勢を整え、表情もいつも通りに保っているつもりだったが、手袋の中の指先がわずかに落ち着かない。
やがて、屋敷の扉が開いた。
現れたリリアーナを見た瞬間、思考が止まった。
淡い色のドレス。いつもより柔らかな雰囲気の髪。頬にはほんのりと色が差している。
綺麗だ、と思った。だが、その言葉が出てこない。
「お待たせいたしました。」
「いえ。今来たところです。」
それだけ言うのが精一杯だった。
(何をしているんだ、俺は)
もっと、何か言うべきではないのか。だが、何を言えばいいのか分からない。
馬車に乗り込み、向かい合って座る。
沈黙。
しばらくして、リリアーナが声をかけてくれた。
「今日は、良い天気ですね。」
「ええ、そうですね。」
……会話が終わった。
(終わった……)
心の中で小さく頭を抱える。やってしまった。
変なことを言わないようにしようと、スマートでいようとすると、こうして
もはや単語に近い返事しかできない。自分が情けないと思う。
仕立て屋に到着した。事前に店主には妻と一緒に行くことと、彼女の好みが分からないから、様々な色や生地を見たいと伝えておいた。
店内に入ると、依頼していた通り色とりどりの生地が並べられる。
「お好きなものをお選びください。」
そう言ったのは、本心だった。彼女の好みを尊重したかった。
自分の意見で、彼女の選択を縛りたくなかった。
だから、店主と少し離れて話をしていたのだが――
「アルベルト様」
呼ばれて振り向くと、リリアーナがこちらを見ていた。少しだけ、緊張したような表情で。
「もしよろしければ……私に似合うと思われるものを、アルベルト様も見ていただけませんか。」
予想していなかった言葉に、思わず固まる。
「私は、アルベルト様と一緒に選びたいです。隣にいてくださいませんか。」
胸の奥が、わずかに熱くなった。
(……一緒に)
(.......隣に)
頭の中でその言葉たちがこだまする。
一緒に選んで、大丈夫なのだろうか。彼女と好みが異なっていて、嫌な気分にさせないだろうか。
でも彼女は一緒に見たいと、隣にいてと言っている。
「分かりました。」
気づけば、そう答えていた。
彼女の隣に立つ。生地を一枚、手に取る。
淡い色。上品な刺繍。似合うと思った。
別の生地を見る。こちらも似合う。
さらに別のもの。これも似合う。
(……全部、似合うな)
困った。
本気で困った。
「こちらはいかがでしょう。」
店主夫妻に勧められたものも、当然似合う。
「少し落ち着いた色も素敵だと思います。」
と口にしたものの、隣の淡い色も捨てがたい。
リリアーナがこちらを見ている。期待するような、少し不安なような目で。
(……選ばなければ)
真剣に考える。
色合い、季節、式の雰囲気、彼女の髪色、瞳の色。そのすべてを頭の中で組み合わせる。
気づけば、時間を忘れていた。
「……アルベルト様、楽しそうですね。」
ふと、近くに立っていた店主の妻が小さく笑った。
その言葉に、自分でも驚く。
確かに、楽しい。
彼女のために、何かを選ぶことが。
隣で、同じものを見て、同じ方向を向いていることが。
「そうかもしれません。」
気づけば、自分も少しだけ笑っていた。リリアーナはどんな表情をしていただろう。
その後も、いくつかの候補を並べ、二人で相談しながら決めた。
最終的に選ばれた一着は、彼女の柔らかさと凛とした雰囲気の両方を引き立てる淡く、明るめの紫色の生地にさりげなくラメの入ったものだった。
仕立て屋を出る頃には、最初の緊張はすっかり消えていた。
馬車に戻る道すがら、リリアーナが言った。
「今日は、とても楽しかったです。」
その言葉に、胸の奥が静かに満たされる。
「……俺もです」
それは、飾りのない、本心だった。
屋敷に戻り、彼女を見送ったあと。自室に戻ろうとした、そのときだった。
廊下の奥。
一瞬、空気が揺らいだような気がした。
足を止める。
静かだ。
誰もいない。
だが、ひどく嫌な感じがした。
冷たい。
重い。
まるで、湿った影の中に立っているような感覚。
(気のせいか?)
そう思い、歩き出そうとした瞬間。窓の外に、何かが映った気がした。
黒い、影。
人の形のようで、そうではない。
瞬きをした瞬間、それは消えた。
廊下には、いつも通りの静けさだけが残っている。
だが、胸の奥に説明のつかない不安が残った。
まるで、何かがこの屋敷を見ているような。
(少し疲れたのかもしれないな)
そう言い聞かせて自室へ入った。




