第15話 物語は、まだ終わっていない
部屋に戻った瞬間、私はその場にへたり込みそうになった。
「今日は、なんとか助かった……」
誰に聞かせるでもない独り言が、静かな部屋に溶けていく。
緊張がほどけたせいか、足の先がじんわりと痺れていた。
サラという存在は、私が書いた物語では、確実に夫婦の関係をこじらせる引き金だった。
悪意はない。むしろ善意の塊みたいな人。
だからこそ厄介で、だからこそリリアーナは一人で抱え込んで、誤解して、傷ついていく。
本来なら、そうなるはずだった。
でも――ならなかった。
「変だよなあ」
思わず天井を見上げる。
物語が変わった。
それ自体は、素直にうれしい。
リリアーナは拗らせなかったし、アルベルトとの関係も壊れなかった。
むしろ、ほんの少しだけ前に進んだようにすら見えた。
昔ひねくれた私が書いた悲しい展開が起こらなかったことは、本当にうれしい。
それなのに。
「どうして……?」
胸の奥が、すっきりしない。
ただ、目の前のことに必死で、場を整えて、会話をつないだだけだ。
特に何か小技を使ったわけではない。
それだけで、物語が変わる?そんなに、簡単に?
そもそも、と考えはもっと根本的なところへ向かっていく。
私は、どうしてここに来たんだろう。
この世界は、私が中学生の頃に書いた物語だ。
それは間違いない。
登場人物も、国の名前も、大まかな出来事も、記憶と一致している。
「……私、最後まで書いたっけ?」
喉の奥が、ひくりと鳴った。
サラが登場して、夫婦がすれ違って、仮面夫婦みたいになる。
そこまでは覚えている。
だけど、その先は?
はっきりとした結末を、私は思い出せなかった。
悲しい結末だった気がする。
でも、それは「書いた記憶」じゃない。
ただ、そうなるだろうと、思い込んでいただけじゃないのか。
「……未完だった?いや完結させたっけ?」
もし未完成なら。
この世界は、最初から確定した未来なんて持っていなかったことになる。
選択次第で、いくらでも形を変える余地があった。
だから、サラが来ても、関係は壊れなかった。
だから、リリアーナは立ち止まらなかった。
……それなら、説明はつく。
でも。
「じゃあ、どうして私は戻れないの?」
そこが、どうしても引っかかる。
夫婦関係が改善すれば、元の世界に戻れる。どこかで、そんなふうに思い込んでいた。
だけど現実は違う。うまくいったはずなのに、私はまだここにいる。
もしかして。
「……私自身の役目が、終わってない?」
心臓が、どくんと跳ねた。
私はずっと、誰かの物語を整える側に回っている。
リリアーナのため。
アルベルトのため。
この世界を、少しでもハッピーエンドに近づけるため。
自分はただそれを変えるためだけに来たのだろうか。
現実、というか元々いた世界では、社会人四年目。
仕事は慣れてきたけど、特別誇れるほどじゃない。
恋愛も、軽く楽しんでは、深く踏み込む前に終わらせてきた。
本気になるのが、怖かった。
選ぶのも、選ばれるのも。
それは、物語を書いたときだって同じだったかもしれない。
私はいつも逃げ道を残していた。
結末を決めきらず、余韻という名前で放り投げる。結局どんな結末を描いたかも思い出せない。
「……それじゃあ、ダメなんだよね」
誰に言うでもなく、ぽつりとこぼれる。
この世界はもしかしたら、誰かを幸せにするためじゃなくて。
私自身が、自分の物語から逃げないために、用意された場所なのかもしれない。
しっかり完成させないと、戻れないのかもしれない。
そう思った瞬間、背筋がぞくりとした。
私は、どうすればいい?
答えは、どこにもない。
分からないことだらけだ。
この世界の仕組みも、戻る方法も、ハッピーエンドの条件も。
「一人で考えるには、限界だな」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
頼れる人はいないのか。この世界の内側を、知っている存在。
そのとき、ふと頭の奥に引っかかっていた記憶が浮かび上がる。
そういえば。私が書いた、この物語には全部を知っていそうで、
でも決して答えをくれない人物が、いたはずだ。
王宮から距離を置き、静かな場所で暮らす魔法使い。
未来を当てるわけでもなく、過去を変えるわけでもない。
ただ、世界の出来事を読む人。
「あの人なら!」
この世界のことを、少しは知っているかもしれない。物語の余白についても。
それに。
「時期的にも、そろそろだよね」
サラという試練が現れた今。物語的には、彼女が姿を見せるタイミングだ。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「相談してみるか」
答えがもらえるとは限らない。むしろ、曖昧なことを言われるかもしれない。
それでも、このまま何も知らずに進むよりはいい。
私はまだ知らない。
その魔法使いが、リリアーナの母であることも。
彼女が、ずっとこの世界を見守ってきた存在だということも。
ただ一つ確かなのは。
物語はまだ終わっていないし、私もきっと、まだ戻れない。
そして――
次のページは、もうすぐ、めくられる。




