第12話 来てほしくない人ほど、予定通り来る(前夜)
その夜の屋敷は、いつもと変わらないはずだった。灯りの数も、使用人の配置も、夕食の献立さえも。何一つ、特別なことはない。それなのに、私はどうしても落ち着かなかった。
理由は明白だ。明日、サラが来る。それはすでに決まっていて、覆しようがなく、そして最悪なことに、彼女は、悪い人ではない。
私は、リリアーナの部屋へ向かう廊下を歩きながら、何度もその事実を噛みしめていた。来てほしくない相手ほど、予定した日に必ずやってくるものだ。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
部屋に入ると、リリアーナは窓辺に立っていた。外を見ているが、景色を見ているわけではない。その背中から、はっきりと伝わってくる。落ち着いていない。
「奥様、お休み前の確認に参りました」
「ええ、ありがとう」
振り返った彼女の表情は、きちんと整えられている。公爵夫人として、何も問題のない顔。けれど、長く一緒にいる私、というより彼女を作った私には分かる。今の彼女は、考えすぎているときの顔だ。
「眠れていますか?」
そう尋ねると、ほんの一瞬だけ、リリアーナの視線が揺れた。
「……少し、考え事を」
それ以上は言わない。言わなくても、十分すぎるほど伝わってくる。私は紅茶を差し出しながら、さりげなく話題を変えた。
「明日の件ですが、アルベルト様はいつも通りのご様子です」
「そう」
その返事は、安心とも失望ともつかない。それもそのはずだ。アルベルトは変わらない。良くも悪くも、何も。サラが来ると知っても、特別浮き足立つこともなければ、距離を取ろうとする様子もない。ただ、いつも通り仕事をし、いつも通り屋敷を歩いている。それが、リリアーナを余計に不安にさせている。感情が見えないというのは、ときに誠実さよりも残酷だ。
「エリカ」
不意に、リリアーナが私を呼んだ。
「サラ様は、どんな方なの?」
昼間にも一度、聞かれた質問。でも今は、昼とは意味が違う。私は、嘘をつくつもりはなかった。
「とても、いい方と聞いています」
リリアーナの指先が、かすかに動く。
「明るくて、人の話をよく聞いて、場の空気を和ませるのが上手で…」
そこまで言って、私は一度言葉を切った。
「多くの方から信頼を寄せているとか」
そう、サラは決して人間としては悪くない。それこそ物語の主人公になれるくらい性格がいい。
「それに」
ここが、一番大事なところだ。
「サラ様は、お二人の結婚のお祝いもかねていらっしゃるそうです」
リリアーナとアルベルトの邪魔をする意図はないと伝えたかった。
「……お祝い?」
「はい。夫婦として、これからうまくいってほしいと」
これは本当だ。物語の中でも、サラはそういう人物だった。彼女は誰かを奪おうとしない。誰かの立場を脅かそうともしない。ただ、自然体でそこにいて、善意で関わろうとする。そして。
「アルベルト様とは、これからも幼馴染として仲良くしていきたい、という考えです」
リリアーナの表情が、わずかに固まった。そう。それが、問題なのだ。夫婦の仲を裂きたいわけではない。むしろ、応援したい。でも同時に、変わらず彼の隣に立ち続けるつもりでいる。それは、リリアーナにとってあまりにも厄介な立ち位置だった。
私は知っている。この世界の物語では、この状況から何が起きるかを。
リリアーナは、やがて勘違いをする。アルベルトは、本当はサラと結婚したかったのではないか。自分は、政略のために選ばれただけではないのか。誰も悪くないのに、誰も間違っていないのに、夫婦の溝だけが、静かに深まっていく。それが、原作の流れだ。
私は、リリアーナの沈黙を破るように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「奥様」
「……はい」
「サラ様がいらしたら、ぜひ、しっかり会話をしてください」
彼女は驚いたように私を見る。
「避けないでください。遠慮しないでください」
少し、踏み込む。
「サラ様は、話せば分かる方です。奥様の誠実さも、努力も、きっと伝わります」
そして、ここが一番大切だ。
「サラ様と話さないまま想像するのが、一番よくありません」
想像は、ときに現実を残酷に変えてしまう。リリアーナは、しばらく考え込むように視線を落とし、やがて小さくうなずいた。
「……たしかにそうね。話さないと分からないわよね。」
その声は、少し震えていた。
部屋を出たあと、私は廊下で立ち止まり、深く息を吐いた。完全に不安が消えたわけではなさそうだ。そして私も物語通りに進んでしまうことを考えると不安と罪悪感でへこむ。
今回こそ。今は、勘違いが生まれる前に、言葉を交わせる。サラは敵ではない。だからこそ、ちゃんと向き合わなければならない。
私は自室で、明日の段取りを組み直した。
この夜が、ただの不安で終わるように。
取り返しのつかない誤解に変わらないように。
物語を知っているからこそ、今度こそ、私は間に合いたかった。




