第11話 私が知らない名前、彼が知っている名前
サラという名前を、私が初めて聞いたのは、昼下がりのことだった。
いつものように執務の合間に紅茶を飲んでいると、エリカが少し慌てた様子で部屋に入ってきた。彼女は基本的に落ち着いているし、感情を顔に出さないタイプだ。それが分かりやすく焦っているというのは、少し珍しい。
「奥様……一つ、ご報告がありまして」
声の調子が、いつもよりほんのわずかに硬い。
「どうしたの?」
「来客の予定が入りました。アルベルト様宛に、直接お手紙が届いていまして」
直接。その言い方が、なぜか引っかかった。
「どなたから?」
そう尋ねると、エリカは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を伏せた。
「……サラ様、という方です」
聞いたことのない名前だった。貴族社会は狭い。特に私と同世代で、ある程度の地位にいる女性の名前なら、社交の場で一度や二度は耳にしているはずだ。
「どちらのご令嬢?」
「伯爵家のご息女です。アルベルト様とは、幼いころからのご縁だとか」
その説明を聞いた瞬間、胸の奥が、わずかにざわついた。幼いころから。それはつまり、私よりも前から、彼の人生にいた人ということだ。
「……そう」
表情には出さないように意識しながら、私はうなずいた。
「来訪の日程は?」
「三日後です。『少し顔を出すだけだから、気にしないで』と……かなり、くだけた文面だったそうで」
エリカはそう言って、困ったように笑った。その笑顔が、どこかぎこちない。私はその違和感を、見ないふりをした。
「分かったわ。アルベルト様には、もう?」
「はい。すでに目を通されています」
それなら、いずれ本人から話があるだろう。そう思い、その場ではそれ以上追及しなかった。
執務が一段落したころ、アルベルトが部屋を訪れたとき、私は自然とその話題を口にしていた。
「お手紙が届いたと聞きました。サラ様、という方がいらっしゃるとか」
アルベルトは一瞬、驚いたように目を瞬かせたあと、すぐに納得した表情になる。
「ああ、そのことですか。エリカから聞いたのですね」
「はい。どんな方なのかと思って」
なるべく、軽い調子を装った。興味本位です、と言外に示すように。アルベルトは特に考える様子もなく、はっきりと答えた。
「信頼している人です」
その一言が、思いのほか深く胸に刺さった。
信頼している。それは、仕事の相手としてだろうか。それとも、もっと別の意味を含んでいるのだろうか。
「女性、なのですよね?」
自分でも驚くほど、慎重な声が出た。
「ええ。幼馴染です」
幼馴染。その響きは、どうしてこうも特別に聞こえるのだろう。それ以上、詳しい説明はなかった。アルベルトは悪びれる様子もなく、いつも通りの穏やかな表情で用件を済ませ、部屋を後にした。
取り残された私は、しばらくその場から動けなかった。おかしい。何が、こんなにも引っかかるのだろう。
私は公爵夫人だ。彼の妻であり、正当な立場にいる。幼馴染の一人や二人、いて当然だ。社交界では、そうした関係性など珍しくもない。頭では、そう理解している。
それなのに。
(信頼している人)
その言葉が、何度も脳裏で反響する。
仕事の話をするとき、アルベルトは私を頼ってくれる。意見を求め、判断を尊重してくれる。けれど、今の「信頼」は、それとは少し違う響きを持っていた気がした。
夜になっても、胸のざわめきは消えなかった。寝台に入ってからも、目を閉じると考えてしまう。 サラという女性は、どんな人なのだろう。アルベルトの隣に立つ姿が、自然に想像できてしまうのはなぜだろう。彼女は、私よりも彼を知っているのだろうか。私が知らない彼の過去を、当たり前のように共有しているのだろうか。答えの出ない問いが、次々と浮かぶ。
いつもなら、眠れない夜は書類に目を通すことでやり過ごしてきた。考える余地を与えなければ、感情は後回しにできる。けれど今夜は、それができなかった。布団の中で、私は小さく息を吐く。
(怖い、のかしら)
自分の気持ちに名前をつけるのが、少し遅れた。これは嫉妬なのだろうか。それとも、不安だろうか。どちらにせよ、今まで感じたことのない感情だった。
エリカの焦った表情が、ふと脳裏をよぎる。彼女はサラについて何か知っているのだろうだろうか。なぜ、そんな表情をしたのだろうか。けれど今は、聞く勇気がなかった。眠れぬ夜は、長い。窓の外が白み始めるころになっても、私は目を閉じたまま、ただ静かに呼吸を繰り返していた。
三日後。サラという女性が、この屋敷を訪れる。その事実だけが、胸の奥に重く沈んでいた。私はまだ知らない。その来訪が、私たちの関係にどんな波紋を投げかけるのかを。
ただ一つ確かなのは。今夜、私は一睡もできなかったということだけだった。




