第86話 精霊の息吹、再び
──あの“手”が額に触れた瞬間、視界が反転した。
音も色も失われ、ただ風だけが吹き抜けていく。
懐かしい匂い。微かに花の香りが混じっている。
神楽坂柚葉は、ゆっくりと瞼を開けた。
そこは──かつて彼女が“巫女”として生きた世界。
澄んだ空、浮遊する大樹の根、光の粒子が舞う緑の大地。
「……ここは……戻ってきた……?」
声に出した自分の言葉が、心の奥に染み込んでくる。
違う、これは“記憶”じゃない。
本当に、あの世界だ。
そして彼女の前に、ふわりと浮かぶ光の球が現れた。
『──ゆずは』
それは、小さな精霊だった。
異世界で、ずっと彼女の傍らにいた“契約精霊”の一体。
彼女のスキル《契約霊召喚》によって形を与えられた存在。
「……無事で、よかった……」
思わず涙がにじむ。自分が捨てたと思っていた力が、ここにはまだあった。
『今、この地は……“干渉”を受けています』
『あなたの帰還は、祝福であり、同時に“警告”です』
「警告……?」
『あなたは再び、“選ばれる存在”になりました』
そう語る精霊の声は、どこか静かで、しかし確かな温度を持っていた。
柚葉はふと、自分の胸元に手を当てた。
高野陸──彼が異世界で“蒼銀の戦神”と呼ばれた頃の記憶。
互いに顔を知らぬまま、別の大陸で戦っていた同士。
「……私は、また戦うことになるのね」
風が吹く。
精霊たちの囁きが、木々を揺らすように彼女の耳元をくすぐる。
柚葉は目を閉じ、再び開いた。
その瞳には、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
「いいえ──私は、“守るために”戦う。リクさんが、必ず来てくれるって信じてるから」
静かに、足を踏み出す。
異世界の霧の中、神託の巫女は再びその使命に応える覚悟を固めた。
(続く)




