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第85話 置いていかれた者たち

柚葉が異界へと“渡った”直後、世界が一瞬、静止したかのような沈黙が落ちた。


 振り返る暇もなく、空間の裂け目は収束を始めていた。

 残された淡い光だけが、彼女の存在の名残を訴えるように空中を漂っていた。


 高野は裂け目の名残に手を伸ばした。

 だが、そこに触れられるものは何もなかった。


「……くそっ……!」

 絞り出すような声が研究施設の一角に響く。

 拳を握り締めた彼の指先は白くなり、唇は怒りと焦燥でわずかに震えていた。


 ユイが静かに隣へ立ち、視線を伏せながら口を開く。

「今は……無理です。これ以上の接触は、こちら側の精神領域が持ちません」


 柚葉が渡った扉の先は、まだ完全に閉じられたわけではない。

 しかし、今それを強引に開けば、代償として誰かの“意識”が裂ける可能性すらあった。


 千尋と水科もまた、呼吸を整えながら結界端末を確認していた。

「……柚葉の魔力が、あの“目”と直接対話する媒体だったんだ。彼女があそこにいてこそ成立した接続だ」


「今、こちらにはその手段が残されていない」


 水科の声は冷静でありながらも、どこか悔しげだった。


 高野は、その言葉に応えるように、結晶の破片に視線を移す。

 そこには、微かだが確かな魔力の波長が、柚葉のものとして残っていた。


 ──彼女は、まだ生きている。

 そして、異界で“何か”と対話している。


「柚葉は……一人じゃない」高野が、静かに言った。

 その声は、仲間への決意というより、己への誓いのようだった。


「絶対に、迎えに行く。そのために、俺たちは止まらない」


 水科が端末の画面を切り替え、結界の再調整を開始する。

「次の接続まで、そう時間はない。境界は不安定なままだ。次は……“計画的に”開けるべきだ」


 千尋も、手元の資料を睨みながら言葉を続けた。

「そして、“あの目”の正体と、それを背後で見ていた村田ジュン……

  あれが、ただの社内の軽口野郎だったなんて、もはや信じてる人間はいない」


「……ああ。次は、“敵”を炙り出すターンだ」


 小さく呟く高野の目には、怒りでも不安でもなく──覚悟が宿っていた。


 “境界”が揺れている。

 その波に乗る者、抗う者、試される者。

 誰がどちら側に立つのか、それすらもまだ、世界は答えてはくれない。


 だが、それでも。


 彼らは一歩、また一歩と進む。


 かつて“帰還者”と呼ばれた者たちの物語は、いま再び境界を超える覚悟を試されている。


(続く)

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