第84話 境界を越える
空間が“開いた”瞬間、まるで現実世界の空気そのものが異界の重圧に屈したかのようだった。
音のない衝撃波が部屋全体を満たし、重力すら一瞬、上下を見失う。
──異界の扉が、完全に“向こう側”と繋がりかけていた。
柚葉が膝をつき、両手で頭を抱える。
「だめ……誰かが……私の中に、語りかけてくる……っ!」
彼女の周囲には、すでに薄い結界の膜が展開されている。
しかし、それでも押し寄せる“存在の圧”は彼女の精神を直撃し続けていた。
「ユイ、補助を!」高野が叫ぶ。
「わかってる! 術式、強化する……!」
ユイが結晶媒体に魔力を注ぎ込みながら、柚葉のもとへと走る。
水科と千尋も同時に、再封印の詠唱を加速させる。
術式の紋章が空中に幾何学の光を描き、空間の縫合を試みるが──
《干渉レベル上昇。再定義:交錯段階へ》
あの“声”が再び響いた。
次の瞬間──“手”が現れた。
空間の裂け目から、ゆっくりと伸びてくる、何層もの闇と光がねじれた構造体。
それは明確な意志を持ち、誰かに“触れよう”としていた。
「……やっぱり来たな」高野が低く呟く。
その“手”が触れようとしたのは──柚葉ではなかった。
高野自身だった。
「──なら、俺が受けて立つ」
瞬間、彼の掌が赤く光を放つ。《時制操作》のスキルが条件反射のように発動し、“手”の動きを一瞬だけ鈍らせる。
同時に──柚葉が立ち上がった。
「高野さん、だめです! これは……私に向けられた試練かもしれない!」
彼女の目は震えながらも、強い決意を宿していた。
そして、裂け目の向こうから“声”が直接、彼女に語りかける。
《応答:精霊の巫女。認識確認──意志接続条件、成立》
「……私を、“試す”つもりなんですね」
柚葉は一歩、前に出る。
“手”が再び伸びてくる。その方向は、今度こそ──彼女。
「やめろ、柚葉!」
「……大丈夫です。これは、私が受けるべきです」
彼女はそっと目を閉じ、精神を静めるように深呼吸した。
そして──“手”は、彼女の額に触れた。
その瞬間、眩い閃光が部屋全体を包んだ。
高野たちが目を開けたとき、柚葉の姿は──すでにそこにはなかった。
「……柚葉……!?」
呆然とする高野の耳に、かすかな声が残響のように届いた。
《境界の向こうで──待っています》
境界を越えて、柚葉は“あちら側”へと渡ったのだった。
(続く)




