第70話 放課後の巫女
放課後の教室。
まばらに残った生徒たちのざわめきが、夕暮れとともにゆっくりと消えていく。
神楽坂柚葉は窓際の席に腰を下ろし、教室に差し込む橙色の光に目を細めていた。
カーテンが風に揺れるたび、彼女の長い黒髪がふわりと宙を舞う。
その髪に、誰にも見えない微かな光の粒が混ざっていたことに、
気づいた者はいなかった。
(……今日も、風が違う)
異世界で感じていた“精霊の息吹”。
それは、現実世界でも時折、彼女のまわりに漂うようになっていた。
誰かの気配。
目には見えない“異なる存在”が、彼女を見つめている。
それが善なのか、悪なのか──まだ判断はつかない。
「柚葉ー、帰らないの? 今日部活ないよね?」
教室の後ろから、クラスメイトの声がした。
柚葉は静かに首を横に振る。
「ううん。もう少しだけ、ここにいるの」
「ふーん……変わってるなあ、柚葉って」
明るく笑って友人が去っていく。
教室には、すぐに静寂が戻った。
柚葉は机に伏せていた手を開き、そこに握られていたペンダントを見つめた。
異世界で託された“精霊の加護”。
金属の冷たさの奥に、確かな魔力の脈動があった。
「高野さん……あなたのところにも、風は届いていますか?」
ふと、校舎の奥──使われていない音楽室の方角から、冷たい気配が吹き込んできた。
足音もないのに、空気だけがざわめいた。
そして、微かに“声”が聞こえたような気がした。
《──識別中。記録更新……》
廊下の蛍光灯が一斉に明滅する。
誰もいないはずの階段下から、重い空気の波が押し寄せてきた。
柚葉は身をすくめる。
これはただの気のせいではない。
“何か”が、この学校内に入り込んでいる。
(侵入者? ……違う。これは、異界の──“意志”)
机の上のペンダントが淡く発光する。
まるで彼女を守るかのように。
次の瞬間、教室のドアが「ギィ……」とゆっくり勝手に開いた。
風もいないのに、誰も触れていないのに。
その向こうには、誰も立っていなかった。
けれど柚葉には見えた。
“目”。
あの、境界の奥にあった、“観測者”のそれと同じ、異界の視線がこちらを覗いていた。
彼女は即座にペンダントを握りしめ、結界の詠唱を開始する。
呪文の響きが教室の空気を塗り替えた瞬間──その気配は、スッと消えた。
直後、窓の外に黒い車が滑り込むように停まる。
その後部座席に、彼女の知る“気配”があった。
「……高野さん。やっと来ましたね」
ほんのり笑って、柚葉は教室を後にした。
制服姿のまま、異世界と現実の狭間へと足を踏み出す少女。
この放課後が、ただの放課後では終わらないと──彼女は、もう気づいていた。
(続く)