第62話 柚葉の領域
意識が戻ったとき、柚葉は漆喰のように白く塗り潰された空間に立っていた。
天井も床も、境界線すら存在しない“無”の世界。
全てが均質で、何も語らず、何も問わない。
ただそこにある静寂だけが、彼女を包み込んでいた。
──けれど、その中央にだけ、違和感があった。
まるで空間にぽっかりと穿たれたように、静かな湖が広がっている。
水面は一滴の波紋もなく、鏡のように天井の無を映していた。
柚葉は、ゆっくりとその湖に近づいた。
「……ここは、私の……心の中?」
自分の声が、吸い込まれるように無音へと溶けていく。
だが、水面だけは反応していた。
まるで彼女の言葉に応じるかのように、波紋が広がり──
次の瞬間、湖の中に映し出されたのは、異世界の神殿。
信仰の巫女として祈りを捧げる、若き日の自分。
多くの人に囲まれ、祝福を受け、役目を全うする姿。
しかしその目は、微笑んでいるはずなのに、どこか寂しげだった。
「……あの時、私は……笑ってなんかいなかった」
柚葉は囁くように言った。
声に混じるのは後悔ではない。確信だ。
神殿の光景が変わる。
今度は──夜。誰もいない神殿の奥。
背を向けて一人、膝を抱え、祈り続ける少女。
その肩は震えていた。
声もなく、涙だけを流していた。
それは、誰にも見せなかった“本当の柚葉”。
《選べ──信仰に囚われた巫女としての自分か、自由を求める帰還者としての自分か》
頭の中に、再び声が響いた。
空間全体が共鳴し、湖面が揺れる。
柚葉はゆっくりと拳を握った。
「……私は、もう囚われない」
「信仰にすがるしかなかった、あの頃の自分は確かに私。でも──」
その瞳が、決意の光を宿す。
「高野さんに出会って、今の私がある。もう迷わない。
私は帰還者として、この現実を、自分の意思で生きていく」
その言葉と共に、湖が蒸発するように霧散した。
足元には新たな光の道が広がり、空間の“無”がゆっくりと色を取り戻していく。
静かな風が吹いた。
それは、かつて異世界で彼女を包んだ精霊の風とは、少し違った
──この現実に生きる彼女自身の、“再起の証”だった。
(続く)




