第50話 声の主は
時間が止まったかのようだった。
蒼く光る結晶の向こう側に、彼は確かにいた。淡く揺れる白衣。鋭くも優しい瞳。どこか疲れたような表情。
それは、長く消息を絶った者の姿だった。
「……直哉……本当に……?」
千尋が震える声で名を呼ぶ。その名は、彼女の兄のものだった。胸の奥にしまい込んだ記憶が一気に溢れ出しそうになる。
結晶を隔てて立つその男は、ゆっくりと口を開いた。
「……よく、ここまで来たな」
静かな、しかし力強い声だった。
高野が思わず一歩踏み出す。
「直哉さん……あんた……生きてたのか……?」
「正確には、生き延びていた。向こうの世界で、ずっと、な」
その言葉に、水科が息を呑む。
「お前……戻ってこれたのか? 自力で?」
直哉は静かに首を振る。
「扉が開いたからこそ、この“接続”が可能になった。けれど……まだ完全ではない。今の俺は一時的な存在だ」
柚葉が小さく呟く。
「投影……魔力と意志の力で、こちらに映し出されている……」
「そんなことが……」
ユイが驚きの声を漏らすが、誰も否定はできなかった。
それほどまでに、その姿は“確か”だった。
結晶の奥の直哉は、ゆっくりと全員を見渡した。
「懐かしい顔がそろっているな。……ありがとう、水科。お前がここまで導いてくれたおかげだ」
水科は、なぜか目を逸らした。罪の意識なのか、それとも別の感情なのか。
「俺は、もう長くない。こっちにはいられない。だが、伝えたいことがある」
その言葉に、全員の視線が真っ直ぐ直哉へと向いた。
「俺は、あの世界で学んだ。力の恐ろしさと、同時にそれを扱う者の“責任”を。もし扉を完全に開けば、再び世界の均衡は崩れる。……だから、止めてほしい。今からでも」
水科が目を見開く。
「だが、あの時……お前は“完成”を望んだはずだ!」
「望んださ。でも、それは結果を知らない者の理想だった。俺は、あの世界で“代償”を知った。だからこそ、いま伝えに来た」
千尋の目に、涙がにじむ。
「お兄ちゃん……じゃあ、もう……」
直哉は微笑む。
「大丈夫だ。俺は満足してる。お前が生きていて、ここまで来た。それだけで、十分だ」
その瞬間、空間にまたひとつ亀裂が走った。
直哉の輪郭が徐々に揺らぎ始める。
「……時間だ。もう維持できない」
結晶の光がひときわ強くなり、眩しさの中で直哉の姿がかき消えていく。
だが──その直前。
「っ……ま、待ってくれ……!」
高野が駆け出した。叫びと同時に、体内に流れる魔力が激しく震える。
「《時制操作──停止》!」
空間が凍ったように静止する。光も音も、風さえも止まった。
ただ、高野だけが動いていた。
まるで時の砂の中を泳ぐように、高野は結晶の前へと進む。崩れかけた直哉の姿が、ゆっくりと安定する。
「……まだ、伝えたいことが……あるんだろ……!」
直哉の目が、微かに見開かれる。
「君の中の魔力……すごいな。まさか、こんな形で止められるとは」
「今だけだ。数秒だって、俺には限界だ……でも、それでも……っ!」
高野の額から汗が滴る。空間全体を止める代償は大きい。視界が霞み、息も苦しい。
「ならば……最後に一つだけ、伝えよう」
直哉が口を開いた。穏やかながら、確かな声だった。
「この結晶……“第二の扉”を示している。水科が知らない、もう一つの接続点がある」
「っ、第二の扉……?」
「そこには、“扉を塞ぐ力”がある。……俺が封印された理由も、それだ」
直哉の輪郭が再び揺れる。
「もう、限界だ……ありがとう、高野くん」
そして高野が魔力を手放す。時が再び動き出し、結晶の光が弾ける。
静寂の中、直哉の姿は完全に消えた。
だがその言葉は、確かに胸に残っていた。
(続く)




