第35話 扉の揺らぎと、精霊のささやき
社長令嬢・本城千尋とのやりとりから一夜。
俺は、その夜まともに眠れなかった。
“蒼銀の戦神”という言葉を、彼女の口から聞くことになるとは思わなかった。
あの名は、かつて異世界で──いや、死闘の中で仲間たちが俺をそう呼んだものだ。
それを知っているということは、ただの観察や推測じゃない。
本気で“扉”を知っている者の言葉だった。
(……協力したい、か)
あのときの彼女の目は、嘘ではなかった。
けれど、俺は──それでも簡単に信じるわけにはいかなかった。
「──高野さん」
翌朝、出社前のホームで待っていたのは、制服姿の少女。
「柚葉……!」
「昨日、何か……ありましたね」
彼女は、言葉にせずとも“感じ取っていた”。
「……ああ。千尋室長が俺の本当の正体に気づいてた。下手すれば、もっと深いところまで知ってるかもしれない」
「れいの……あの人は危険じゃないんですか?」
柚葉の声には警戒と、不安が滲んでいた。
だが俺は、少し考えてから首を横に振る。
「まだ判断できない。でも……あいつが扉のことを知ってて、動こうとしてるなら──こっちも動くしかない」
「……了解です」
満員電車の波が、遠くから迫ってくる。
俺たちは、また戦場へ向かう準備をした。
だがその時──
「……高野さん、待って。何か……聞こえませんか?」
柚葉の言葉に、俺は耳を澄ませた。
次の瞬間──
柚葉が目を見開いた。
「……リリィ……?」
その名前を、彼女は小さく、確かに口にした。
「今、誰かが……私に呼びかけてきました。精霊の言葉で──」
「精霊の……言葉?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「懐かしい感覚。あの世界にいたときと同じ……リリィ=ノルテ、精霊術師の声です」
その瞬間、俺の背中をぞわりと寒気が走った。
まだ──繋がっているのか。
扉は開きかけている。
そして、その先から、確かな“声”が届き始めていた。
(続く)




