第1話:最強の敵、それは通勤ラッシュだった
ーーー現実世界帰還から1週間後ーーー
朝7時半。
アラームが鳴るより先に、俺の体はベッドから起き上がる。
もう習慣になっていた。というより、染みついていた。
高野陸、33歳。
都内の中堅商社に勤める、ただのサラリーマン──だったはずだ。
シャワーを浴び、ワイシャツに腕を通し、ネクタイを結ぶ。
鏡の中の自分は、確かに“俺”だったが……どこか違和感があった。
異世界で5年間、魔王を倒すまで戦い抜いた男の姿が、そこにはそのまま残っていた。
スーツ越しでも伝わる筋肉、無駄のない体つき。
朝食も取らず、俺は部屋を出る。
そして、戦場へ向かった。
そう──通勤ラッシュという名の地獄へ。
JR中央線、新宿方面行き。
ホームにはすでに黒とグレーの波がうねっていた。
イヤホン、マスク、無表情。
生きてるのか、ただ呼吸してるだけなのかもわからない人たち。
俺はその中に紛れながら、列に並ぶ。
足元に黄色い線──
異世界では、崖の端に立ってもここまで怖くなかった。
「……来るぞ」
電車の到着を告げる風の音が近づく。
次の瞬間、車両の扉が開いたと同時に、押し寄せる肉の圧力。
腰が浮く。
片足が浮いたまま、体ごと中に吸い込まれた。
──その瞬間だった。
「……クッ……!」
視界が揺れ、空間が歪んだ。
世界の“時間”が微かに震え、俺の周囲だけがスローモーションになりかけた。
《時制操作》──!
異世界で神から授かった、最上位のスキル。
時間の流れを操り、加速・停止・巻き戻しができる絶対的な力。
だが、今──この満員電車のストレスと圧力で、暴走しかけている。
「やば……マジで発動する……!」
こめかみに汗がにじむ。
冷や汗じゃない、魔力の流出による熱だ。
異世界の仲間たちの声が脳裏をかすめる。
『大丈夫、リク……あなたなら制御できる!』
『お前の意思がスキルを超えるんだ!』
──おい、俺はただ出勤したいだけなんだぞ。
両手をグッと握り、精神集中。
体内の魔力を胸の中心に沈めていく。
この制御方法は、異世界でミリアから教わった冥想術だ。
ようやくスキルの暴走が収まり、電車が駅に着く。
だが──この時点で、俺の体力ゲージはほぼゼロだった。
会社に着いた頃には、もうすべての“気力”を使い果たしていた。
「……高野くん、会議資料、できてるよね?」
「え、あ……ああ、はい、今、すぐ……!」
俺は慌ててPCを開くが、画面の中の文字が異世界の古代語に見えた。
正確には、疲れすぎて現代語に“再翻訳”する気力がない。
指が震え、ページ送りがうまくできない。
もしここでスキル《加速》を使えば、プレゼン資料なんて10分で仕上げられる。
だが、それをやれば、また魔力が暴走する。
──この世界では、“戦わないこと”が戦いなのか?
夕方、会議室の隅で、俺はポツリと呟いた。
「……満員電車の方が、魔王より強いかもしれない……」
異世界の英雄は、現代社会で、いまだ一歩目を模索している。
続く
新感覚異世界転生その後の人生ドラマ。
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