失われた剣の記憶
──その夜、ルオ・イエンは夢を見た。
風が鳴り、雲が裂け、剣が舞う。 見たこともない古代の世界。壮麗な石の城壁。絹の衣を纏った男たち。飛ぶように地面を蹴る少女。空中で交差する光の軌跡。
そして、ひとり──無言で、剣を抜いた青年。
それは、沈無涯だった。
「──“剣”とは、心を映すもの」
夢の中で彼は、ルオにそう語った。
「刀は怒りを。槍は信念を。だが剣は……お前自身の“迷い”さえも、断つ」
ルオは言葉を返せなかった。
ただ、その背に流れる気配を感じていた。
武という概念が絶滅したこの時代にあって、それは奇跡のように重く、そして美しかった。
朝。
彼女は研究施設の無菌ベッドで目を覚ました。
「……妙な夢……」
AI監視装置のパネルが自動的に彼女の意識変動を読み取り、淡々とした音声で告げる。
《本日の記憶接続率:4.3%。潜在覚醒の兆候あり》
「またそんな評価つけて……あの記憶体、やっぱり危険物扱いになるのかな」
昨日発見した“沈無涯”の意識記憶体は、いったんルオの個人シェルターに一時保管されていた。上司に報告すれば即没収だろうが、彼女はそれをしていない。
なぜなら── 夢の中で感じた“剣の気配”が、どうしても忘れられなかったのだ。
その日の午後、彼女は再び、沈無涯の記憶体と接続する。
《来たか。お前は既に“門”の前に立っている》
「門……?」
《江湖への門。お前が一歩でも中に入れば、世界は元に戻れぬ》
「……私は、ただ知りたいだけ。かつて、世界に“武”があったというなら、その意味を」
《ならば見せよう。剣が世界を救い、剣が世界を滅ぼした、その真実を──》
次の瞬間、彼女の脳内に──ビジョンが再び流れ込む。
無数の門派。飛び交う内功。気の網のような戦闘。
その全てが、AIの制御も、論理演算も無効にする、「武」の世界。
そこにあったのは、倫理ではなく覚悟。 効率ではなく、美学だった。
《──思い出せ。お前の先祖も、剣を持っていた》
その言葉とともに、ルオの心にざわりと波紋が走る。
「……私の先祖?」
《ルオ家は、江湖の“劍宗”の末裔。お前の中にも剣の血が流れている》
「そんなの……記録にはない……!」
《記録が真実とは限らぬ。武とは、記録されぬ者たちの記憶だ》
その瞬間、彼女の右手が、ひとりでに動いた。
空を斬るような、不可思議な手の動き。
気が、走った──。
思わず後ずさった彼女の目に、蒼い光の刃が、一瞬だけ現れた。
「な、何これ……今の、私が?」
《そう。お前は、剣を思い出し始めている》