─ 三日目 ③ ─
── 千葉 ──
妻は静かに──機械に繋がれてはいたが──眠っていて、医師が言った通り、一向に目を覚ます気配がなかったので、私は入院の手続きを済ませたあと、家に戻ってきた。
がらんとした部屋を見渡す。妻のいない家は、しんと静まり返っている。何やら無性に寂しさがこみ上げてきた。
私は、はあと息を吐きながら、頭を一振りした。感傷に浸っている場合ではない。メールを確認しなくては。
食卓の上に広げたままのパソコンを再び起動させると、そこで、ふと思い出した。そうだ、コーヒーが飲みたかったんだ。
キッチンへ行き、電気ポットに水を注ぎ、スイッチを入れる。使い捨てのドリッパーを開封してマグカップの上にセットし、湯が沸くのを待つこと数分。ドリッパーに湯を注ぐと、香しい匂いが漂った。やっと飲める。
コーヒーを片手に、食卓に戻り、熱い液体をそうっと啜りながら、メールを開いた。
未読、四十九件。
まったく、どうして、たった半日でこんなにメールが溜まるんだ! そう、文句を垂れるが、その理由は分かっている。直接の連絡だけでなく、ただの写し──念のために送ります、一応、念のために──がやたらと多いのだ。むしろ、大半がそれだと言ってもいい。部内での担当者のやり取り、部門間でのやり取り、担当者から課長への報告、これらすべてが、写し、として部長である私に送られてくる。もちろん、本当に把握しておかなくてはならない内容もあるが、知らなくてもいいものも多々含まれている。だが、読んでみなければ、そのどちらかは判断がつかない。
と、言うわけで、山のように溜まっているメールを、次々に開いては読んでいく。
へえ。そうか。あ、これは、とたまに返信を打つ。なんだよ、要らないよ、こんな情報。これも、要らん。と見ていくうちに、えっ? 「嘘だろ」思わず声に出していた。
急いでスマホを手に取り、相手の携帯電話にかける。が、「ただいま出ることが出来ません」と返ってきた。舌打ちして、会社にかける。
「ああ、井上だけど」
「あ、はい。おはようございます」
「おはよう。田所課長、いる?」
「ええと・・・」声が遠くなる。誰かと話しているようだ。「ああ、もしもし。課長は外出されてます」
「どこに行ってるのかな。留守電になっているんだよ」
「西京ってなってますが・・・」
「そう。あのさ、山之内くんが怪我したってメール入ってたんだけど、労災ってこと?」
労働災害ならば、大事である。だが、電話に出た課員の説明によれば、帰宅中に怪我をしたらしく、入院している、ということだ。
「帰宅中って、交通事故?」
「いえ、階段から落ちたって聞きましたが、詳しいことは・・・」
「階段から。そうか」
ということは、家の階段か? まあ、労災でないのなら、まずは一安心だ。
私は薄情なことを思いながら、電話を切った。
── 本郷三丁目 ──
「あ! 忘れてた」井上部長からの電話に応対していたこの課員は、受話器を下ろした後になって、口に手をやった。
重要、だったかなあ? としばし、考える。
実は、先ほど、山之内が怪我したことについて警察が訪ねてきていたのだ。部長も課長も不在のため、同じ一課の同僚が応対に出た。しかし、昨晩の行動について訊ねられても、何も知らないので答えることが出来ず、警察は、「課長さんがお帰りになったら、音羽署まで連絡ください」と、名刺を置いて帰っていったらしい。
ま、いいか。どうせ、部長は昨日も休みだったんだし、山之内さんの夜の行動なんて知らないだろうからな。
課員は、それきりこのことを忘れた。
── 池袋 ──
西京百貨店にやってきた田所と桐谷は、九階の催事場へと向かった。
八嶋主任は催事場の入口付近で年配の女性の店員と話していたが、二人に気づくと、軽く頭を下げながら近づいてきて、彼らを売り場の裏にある会議室に通した。
「ちょっと、待っていて下さい」そう言って、部屋を出て行った八嶋は、しばらくすると、紙カップを載せたトレイを手に戻ってきた。腕には、百貨店のマークの入った紙袋を下げている。彼は、トレイを机の端に置くと、紙袋を足元に下ろし、コーヒーの入ったカップを二人の前に置いて、ミルクとスティックシュガーを添えた。
「恐縮です」「すみません」と頭を下げる二人に、「女性社員にお茶入れなんか頼めないんですよ、昨今は。自分でやれってね」八嶋は歯を見せながら、机を挟んだ向かいの椅子に腰を落ち着けた。
彼は自分のカップに手を伸ばし、「どうぞ」と二人に言ってから、啜った。
「これ、地下で売ってる豆なんですけどね」とメーカー名を言い、「結構旨いんですよ」と付け足す。
二人も一口飲み、「ああ、美味しいですね」「旨いです」と返した。
「今日は、わざわざお越しいただいて」と頭を下げ「うちの大石も、同席する筈だったんですがね」言いながら、八嶋は身を屈めて、足元の紙袋に手を入れた。そして、中から紙に包まれた平たいものを取り出し、二人の前に並べた。
「開いてください」
紙を開くと、中から白磁の大皿が出てきた。
「うちのやつですね」桐谷が、手にとりながら言う。
八嶋は眺めている二人の前に、もう一つ、包みを置いた。
それを開いた田所が、「あ、八角皿・・・」と八嶋を見た。一昨日の騒ぎの発端となった品に違いなかった。
やはり、現品を突き付けて、問い詰めるつもりか。田所は表情こそ平静を装っていたが、心の内で身構えていた。
「なるほど、違いますね」平然とそう言ったのは桐谷だ。田所は驚いて、そのしわの目立つ顔を見た。
「ほう、違う」八嶋も意外だったようで、眉を上げている。「違うというのは、五郎右衛門とは違う、そういう意味ですか?」
田所の顔が緊張で引き攣った。そうだ、と隣の男があっさり認めそうな気がしたからだ。だが、桐谷は、ひらひらと顔の前で手を振ると、「いえいえ、五郎右衛門ですよ」
田所は、思わず吐息しそうになった。
桐谷は続けた。「この大皿と八角皿では、確かに発色が違って見える、そういう意味ですよ」
「違って見える、ではなく、違いますよね、色が。それに、絵柄の丁寧さというか・・・」八嶋は納得がいかない様子で、二つの皿の絵付けされた箇所を交互に指さす。
「機械で作っているわけではないですからね。絵付けも焼きも、幾つもある工程のすべてが手作業ですから。この丸皿と八角皿では、焼いた時期も異なります。夏場と冬場では、窯の温度に差が出ますんでね」桐谷は、その他にも幾つもの要因を並べ立て、「ですから、二つの品を並べて比べれば、全く同じというわけにはいかないんですよ」と締めくくった。
八嶋は「そういうもの、かなあ・・・」と、黙ったが、不承不承といった様子が滲んでいる。
田所はすかさず、「五郎右衛門窯も復活してから、まだ間がありませんので、作風にばらつきが出てしまっているのだと思います。今後は、出荷品の検品をより厳しくいたしますので」今回のところは、収めていただけないか、と顔を見る。
「分かりました。妙な物が混じったわけではないと、ニッタ商事さんが保証して下さるのでしたら」
「勿論です」
「ただ、この八角皿の他にも、引っ掛かったものがありましてね」八嶋も、西京百貨店の看板を背負っている以上、そう簡単には引かない。「これらについては、展示から下げて、返品しますので、そこはご了解ください」
「えっ、返品ですか?」それまで、鷹揚な態度だった桐谷が、上擦った声を出した。
「ええ、わたしとしても、納得できない品は出すわけにはいきませんので。これは、大石にも伝えてあります」
「しかし」と食い下がる桐谷を田所が遮った。「承知しました。それで、結構です」
八嶋が頷き、「では、このあと、どの品を返品とするか、催事場で確認いただけますか」と二人を見る。
田所が、はい、と頷き、「ところで」と、顔を上げた。「あの、大石部長は、今日は?」
すると、八嶋は眼鏡の縁に手をやり、声を低くした。「それが、昨夜、怪我をしましてね。入院しているんですよ」
「入院ですか。あの、意識はおありなんですか?」
「いや、詳しいことは分からないんですがね。ただ、警察が来ましてね、さっきなんですが」
「警察が?」田所は眉を寄せた。「病院はどちらですか? できればお見舞いに伺いたいのですが」
「あ」しまった、と八嶋が口に手をやった。「喋り過ぎました。まずいですよね、社外の方にべらべらと。聞かなかったことにしてください」そう言うと、「じゃあ、催事場へ」と立ち上がった。
田所は大石のことをもう少し訊きたかったのだが、こう話を切られては打つ手がなかった。
二人は立ち上がり、八嶋に付いて部屋を出た。催事場に入ると、八嶋の案内で返品予定の品を確認して回った。
桐谷は終始難しい顔をして、納得がいかない様子を滲ませていた。
だが、確かにどれも、見る人が見れば、違いが分かってしまう出来だ。田所は内心では納得していた。
打ち合わせも終わり、引き上げる段になって、桐谷が唐突に快活な声を出した。「八嶋さん。今度、是非、佐賀の工房までお越しください。七代五郎右衛門も是非ご挨拶したいと申しておりますので。もし日程が分かるようであれば、わたしに電話を頂ければ・・・」
何を言い出すんだ、こいつは! 田所が焦って、口を挟む。「もしご要望があれば、わたしにご連絡ください。弊社で調整いたしますので」
その声が思いの外大きかったためか、八嶋は目を見開いて、二人を交互に眺めた。「分かりました。では、その時は、田所さんに連絡いたします」
二人は、八嶋に改めて頭を下げると、催事場を後にした。
下りのエレベーターの中、地下一階に着くまでの間、田所は素知らぬ顔をしている桐谷を横目で睨み付けていた。やはり、油断できないな、この狸は。
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