─ 三日目 ② ─
── みつわ台 ──
妻は、集中治療室から、一般病棟の個室に移っていた。とは言っても、目を閉じたままだし、プラスチックのマスクを付けられ、点滴の針を刺され、ベッドの周りには機械が並んでいる。
看護師に説明を受けて、着替えなどを小さな棚に仕舞い終わったところに、医師が入ってきて診察が始まったので、私は部屋の外へ出された。
五分ほどで呼ばれて、病室に入ると、
「大丈夫ですよ。抗生剤が効いていますから、熱も下がってきていますし、容態も落ち着いています」
「意識はあるんですか?」
「薬で眠っているだけです。ちょっと強い薬ですから、しばらくはこんな状態です。無理に起こそうとはしないでください。今はとにかく安静が必要ですから」
「あの、治るんですよね?」思わず念を押す。
「必要な処置はしています」医師はそう言うと、私を安心させるように頷いた。「肺炎ですから、炎症さえ収まれば退院できますよ」
医師と看護師は出て行った。
残った私は、マスクや管やらに繋がれて横たわっている妻を見詰めながら、何やら熱くなってきた目頭を指で押さえていた。
── 後楽園 ──
「地下鉄って、地上も走るんですねえ」桐谷はのんびりと言うと、窓の外を眺めて紅茶を啜った。幼児の描く山の絵を具現化したようなジェットコースターのレールが、空中を這っている。
田所が声を荒らげた。「どういうつもりなんだ、あんた!」
あんたと呼ばれて、桐谷の細い眼が、目じりの深い皺の脇まで、ぎろっと動いた。弛んだ頬が不機嫌そうに強張っている。
滲み出る怒気に気圧されながら、田所は、親子ほども歳の違う相手に尋ね直した。「西京百貨店に何を話す気です」
「何を話すって」ティーカップを置く。ガチャンと不穏な音が鳴った。周囲のテーブルから幾つかの視線が向けられる。
「別に、何か話そうと思って来たわけじゃあない、ですよ、課長さん」
田所は、そこそこに席が埋まっている店内を素早く見回すと、声を落とした。
「西京と取引をしているのは、我々ニッタ商事であって、おたくじゃないんだ。そこをわきまえてもらわないと」言い募る田所を、しわがれ声が遮る。
「五郎右衛門窯の方に直接話を訊きたいって、そう言われたら断れない、でしょう?」桐谷はぐっと顎を突き出すようにして、田所を睨んだ。
田所が少し体を引く。それでも、相手の顔から視線は逸らさず、「あなたを呼んだのは、西京の誰?」
「八嶋主任ですよ。特別展の責任者でしょ、あの方」
「八嶋主任と面識があるんですか?」田所が驚いた様子で目を見開いた。
「特別展の打ち合わせでね。おたくの井上部長さんが、会っておいた方がいいだろうからって。部長さんとわたしとで、八嶋主任と、あと仕入れ責任者の、なんと言ったかなあ、あの恰幅のいい人・・・」
「大石部長?」
「そうそう、大石さん。四人で、昼食をね。百貨店の中にある寿司屋でね。いやあ、旨かったなあ」そう言って、また窓の外を眺める。
くそ、食えないおやじだ。田所は舌打ちしそうになるのを堪えて、冷静になれ、と己に言い聞かせた。
一昨日、西京百貨店の八嶋からニッタ商事に連絡が入ったあと、田所はすぐにその内容を、いま目の前にいる桐谷に伝えた。その時、桐谷は電話の向こうでたいそう狼狽し、「あの、東京に呼び出されるようなことにはなりませんかね?」と不安そうに訊いてきた。田所は、こちらで対処するから心配はいらない、それよりも、品物をよく確認しろ、と指示し、桐谷は殊勝な声で、分かりました、と返した。
その桐谷が、東京に来ていると知ったのは、今朝九時のことだ。
一昨日の件は穏便に収まったと伝えるため、五郎右衛門窯の事務所に電話したところ、「あらあ、桐谷課長は昨日の飛行機で、東京に行かれましたけど」と告げられた。急いで桐谷の携帯電話の番号を訊き出して、このビジネスホテルに泊まっていた彼を捕まえた。なぜ東京に来たのかと問うと、西京百貨店と打ち合わせがあると言う。田所は、とにかくその前に話をしたいと、ホテルの展望ラウンジで会うことにしたのだった。
この男が何を考えているのか、田所は掴みかねていた。何か、画策しているのか? だとすれば、問い質したところで簡単には吐かないだろう。何にしても、まずは、この男が主任の八嶋にどこまで話しているのか、それを確かめねばならない。
田所は小さく咳払いすると、苛立った表情を抑えて、穏やかに訊いた。「八嶋主任や大石部長と会ったのは、井上部長に連れられて行った時だけですか?」
桐谷は景色を眺めていた顔を、田所に戻した。「うん、そうですよ」
「一回だけ?」念を押す。
「そうですよ」
「電話で話したことは? 八嶋主任と」
「だから、一昨日の夜、電話もらって、東京に来られないかってね」
「それ以外に、電話で話したことは?」
「ふうん」桐谷が鼻で笑った。田所が怪訝そうに見ると、「なんだか、取り調べ、みたいだね」にやっと笑い、「電話も一回きりですよ」
「そうですか」嘘はなさそうだ。田所は続けた。「で、四人で寿司を食べたときは、どういう話を?」
桐谷は、目を細めて田所を見たあと、広い天井にその視線を向けた。
「さあてねえ。よくは覚えてないなあ」
「工房や窯のことは? 訊かれたでしょう、色々と」
「そりゃあね。まあ、パンフレットに載ってるようなことは、訊かれたし、話しましたよ」
「製造方法とか、原材料とか?」
「まあ、言える範囲ではね、答えたと思いますよ。よくは覚えてないけど」
「工房の人数とか、規模とか?」
「出たかなあ、そんな話」
「製造量とか、原価とか?」
桐谷の眼が正面に向いた。田所と視線が絡む。が、すぐに横を向き、「訊かれなかったですよ。それは」
嘘だ。田所はそう直観した。
もちろん、話せないところは話していないだろう。そんなことをすれば、この男にしたところで自分の首が締まるだけだ。だが、後々のことを考えて、何かほのめかすぐらいはしたかもしれない。この狸なら、やりそうだ。
しかし、いまはこれ以上、喋りそうにもない。と言って、このまま八嶋と二人で会わせるわけにはいかない。
「桐谷さん。今日は僕も同行しますよ」
「え・・・」桐谷が驚いたように顔を向けた。
「何か不都合がありますか?」
「わたしはね、いいんですが、八嶋さんがどう言うか・・・」
「大丈夫です。もう了解は取ってありますから」田所は、桐谷とここで会う約束をしたそのすぐ後に、八嶋に電話を入れ、今日は自分も一緒に伺う、そう連絡していた。
桐谷の顔が僅かに歪むのを、田所は口の端を緩めて眺めた。
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