─ 三日目 ① ─
── 千葉 ──
目が覚めて、ソファの上で上体を起こした。壁の時計を見る。
「五時半か・・・」
窓は明るく照らされているが、寝た気がしない。もう少し寝ようと、体を横にする。疲れは残っている。それもたっぷりと。が、眼はすっかり冴えてしまっていた。
狭いソファの上で、二度、三度と寝返りを打つが眠気は訪れない。結局、二度寝を諦めて、起き上がった。足から腕から、そこら中に粘土でも塗り付けたように、ねっとりと体が重い。ふうう、と息が漏れる。ソファの端に掛け布団を丸め、無精髭をこすりながら洗面所に入った。湯は出さず、冷たい水で顔を洗う。
さあてと、取り敢えず、朝飯の支度でもするか。
キッチンに入り、冷蔵庫を覗く。納豆はある。卵もある。味噌は・・・あ、あった。よし、大丈夫だ。
「何が大丈夫だ」
「えっ!」振り向くと、妻がいた。
反射的に足を見る。やはり透けている。
何度目かは分からぬが、一向にこの状況には慣れない。心臓がばくばくしている。
「病院からついてきたのか・・・おい、まさか!」私は居間のソファに駆け戻り、スマホを掴み上げた。
「どうした、どこへかける?」
「決まってるだろ、病院だ。お前が死んでないか確かめないと」
「大丈夫だ、死んでない。生霊だと言ったろう」
私はまじまじと妻を見た。確かに、昨日と同じではある。
「じゃあ、幽霊じゃないんだな?」
「違う」
まずは安心した。本人が言うのだから・・・。
「死ぬときは、頭の方から消えていくようだ。昨日、病院で見た」
「へえ」と言い、いやいや、と頭を振る。そんなことはどうでもいい。「あのさ、体からこんなに離れていて大丈夫なのか? 離れすぎて、戻れなくなっちゃう、なんてことないんだろうな?」
妻は無表情のままだが、顔が下を向いた。
「試したことは、確かにないな」
「生霊が、気づいたら幽霊になっていたなんて」私は不謹慎にも口元を緩めた。
「お前、嬉しそうな顔して怖いこと言うな」
私は慌てて真顔を繕った。「嬉しそうだなんて、そんなことはない」
「楽しいか?」
「だから、違うって。とにかく、病院に戻った方がいい」
「そうだな」そして、ふっと消えたが、その直前に、「ご飯、炊け」と声を残していった。
娘と二人で朝食を取っていると、
「お父さん、今日も休めるの、会社?」
「入院の支度とかあるから、午前中は休む。でも、午後は多分、出社することになるな。さすがに立場上、三日休むとな」
「お父さんって、部長なんだっけ?」
「ああ、そう」
「大変だね」不意にそんな言葉をかけられると、一瞬、涙腺が緩みそうになる。「わたし、今日は部活ないんだ。学校終わったら、病院に寄る。夕飯もわたしやるよ」
「そうか、すまないな」
「カレーあるし、ご飯炊くだけだから」
「助かるよ」
食事が済んで娘が出かけると、病院に戻ったはずの妻が、食器洗いをしている私の後ろに現れた。
「わあ!」気配を感じて振り返った私は、また叫んでいた。
「相変わらず、騒がしいな」
「相変わらず、突然出るからだ!」そして、前を向き再び手を動かし始める。「また病院から抜けてきたのか?」
「いや、病院へは戻っていない」
「えっ! なんで?」私は振り返った。
「戻り方が分からない」
「ええっ!」こすっていた皿を落としそうになった。「分からないって・・・じゃあ昨日はどうやって、病院から家まで来たんだよ?」
「昨日は、お前の背中に付いてきた」
「それって、おれに憑りついてたってことか!」言いながら背筋が思い切り寒くなる。昔観た、少女に悪魔がのりうつる、かの有名なホラー映画の一場面が頭をよぎる。
「そうじゃない。くっついただけだ」
「くっついた・・・だけか」びっくりした。こうして見えているだけでも、平静を保つのに必死なのに、体に入ってこられたりしたら、神経がどうにかなってしまうに違いない。まあ、くっついていただけなら、と私はなんとか自分を宥める。「じゃあ、俺が病院に行く時に、その、くっついていけばいいわけか」
「そのようだ」
「分かった。なら、入院の準備を早く済ませて、病院へ行こう」とにかく、妻を、妻の許へ帰さなくては。
「その前に、洗濯だ」妻が突然宣言する。
「洗濯は昨日やったじゃないか」私は反論したが、
「意外に馬鹿だな」
「だから、ひとを馬鹿呼ばわりするな」
「毎日出るんだ、洗濯物は。昨日は小百合が体操服を持って帰ってきただろう。すぐに洗わないと」
「そうか・・・分かった。じゃ、病院から帰ってきてからやるから」
「いや、まず、洗濯機を回せ」
「帰ってきてからでいいだろう」私は言い張ったが、
「駄目だ。帰ってきてからでは、きっと忘れる」妻は頑として聞き入れなかった。
まったく! 透けてるくせに!
「悔しそうだな。だが、言い合っていても時間の無駄だぞ。ほら、洗濯機を回せ。洗濯してる間に、入院の支度を整える」
こうして、この日もまた、妻の指図で動くはめになった。
まず、ご指示通り、洗濯を開始した。
だが、娘の体操着を洗濯機に放り込もうとした途端に、妻の、「待て」がかかった。体操着を広げてよく見ろと言う。白のジャージのところどころ、いや、結構な範囲で、泥汚れがついている。土で汚れた部分を、揉み洗いしてから、洗濯機に入れろと、透けた奴は言うのだ。
「でも、今の洗剤はよく出来てるんじゃないのか。コマーシャルなんかじゃ、そう言って宣伝してるじゃないか」反論するが、
「女子高生の服には僅かの泥汚れも許されない」と霊はのたまう。
まったく、だったら、体操服なんぞ、真っ茶色にでもすりゃあいいんだ。なんで、汚れると分かっているのに白を選ぶ。
「そりゃ、白の方が可愛いからだ。いいから、揉み洗いして洗濯機に入れろ」
揉み洗いを終え、洗濯機を回したところで、はっと気づく。壁の時計を見ると、九時十分前。まずい、すぐに会社に連絡を入れないと。テーブルにパソコンを開いて、また三回のパスワード入力をして、上司と部下にメールを打ち、休暇の申請を出す。
そして、ほっとする間もなく、入院の支度を始める。
昨日、看護師から渡された、「入院の手引き」と書かれた二つ折りの紙を見ながら、手提げ袋に必要なものを詰めていく。正直なところ、この時は、霊とはいえ妻がいてくれて、助かった。と言うより、妻がいてくれなかったら、どうにもならなかったかもしれない。なにしろ、着替え、洗面用具、タオル、ティッシュ等々、どこに仕舞ってあるのか、私は自分でも驚くほど把握しておらず、リストに書かれたものは、殆ど全て妻から収納場所を教えてもらう始末だった。
入院の支度が終わると、程なく洗濯が終わった。洗濯機から取り出したものを、乾燥機へと移し、スイッチを入れる。
「さて、ちょっと一服するか」コーヒー、コーヒー、と口に出しながら、電気ポットに水を注ぎ始めると、
「風呂、洗わなくていいのか。もう三日もシャワーで済ませているだろう」
思わず溜息が出た。「やるよ。お茶してから」
「乾燥機、一時間もかからないぞ」
つまり、それまでに、やれってことか!
「分かりました。やりますよ!」
「やけっぱちだな」
「いいえ、とんでもない。喜んでやってるよ」
私は、靴下を脱ぎ、風呂場へと入った。が、浴槽の洗剤がどこにあるのか分からない。と言って、妻に訊くのも癪だ。黙ってしばし考え、一旦風呂場を出ると、洗面台の下の扉を開けた。
「あった!」思わず声に出していた。手を伸ばして、浴槽用の洗剤を取り出す。と、横に、カビ取り剤の容器が見えた。そういえば、カビが出ていたな・・・。
「ほう。カビ取りもやるのか。気が利くな」
振り向けば、肩越しに妻の顔がある。ドキンとする。慣れない。
やらないとも言えず、私はもう一方の手でカビ取り剤も掴み、風呂場に入った。
浴槽の内側に洗剤を掛け、浴槽の中に入ってブラシで擦ったあと、一旦、タオルで足を拭いてから、今度は浴室内を排水口周りから始まって、タイルの目地に沿って、カビ取り剤の泡を噴射していく。これらも、殆ど、妻の指図通りに行ったのだが、すべての目地が泡で白くなったころになって、私は、妙に息苦しいことに気が付いた。目も痛い。
「しまった」妻が冷静に言った。「窓を開けていなかったな。危険だ、早く換気しろ」
先に言え! 私は急いで窓を全開にして、浴室から出た。
「塩素で死ぬところだったじゃないか」洗面所から居間に抜け、そこの窓も開けながら、後ろにいるであろう妻に文句を言う。
だが、返事がない。振り返ると、妻はいなかった。
くそう、都合悪くなると消えやがって!
十五分待って、風呂場に戻って、白い泡と浴槽の中の洗剤を、シャワーで一気に流した。浴室の中が、どこもかしこもさっぱりとしたことに、結構な爽快感を覚えながら足を拭く。しかし、気づけば、着ているスウェットの肘から先と膝から下がびしょびしょだった。
「捲ってから作業しろって、最初に言えよな」と姿のない妻に小さく毒づいた。
これでコーヒー飲めるな、そう思ってキッチンへ行きポットを持った時、ピーッ、ピーッ、と音が鳴った。乾燥が終わったのだ。
はあ、畳まなくちゃ。
洗面所に戻る。乾燥機の蓋を開けようとして、赤いランプが点滅していることに気づいた。「フィルター掃除」とある。
蓋を開け、中の洗濯物を取り敢えず出してから、蓋の内側を眺める。丸い穴のたくさん開いた黒いカバーが付いており、その中央部は、いかにも、ここを掴んでください、と凹んでいる。ユニバーサルデザインと言うやつか。掴んでみると、カバーが外れ、その内側に、綿埃のびっしりとついたメッシュが現れた。なるほど、これを掃除しろということだな。
居間に戻り、掃除機を持ってくる。これは、何度か使ったことがあるので、勝手は分かっている。長い筒を取り外し、狭所用のアダプターを取り付けるとハンディー掃除機のようになる。
これをメッシュに当てると、面白いように、綿埃を吸い込んでいく。なんだ、楽しいじゃないか。
乾燥機の赤ランプは、簡単に解決し、ついでだからと、居間のソファやテレビの裏なども掃除機をかけた。
と、今度は掃除機の赤ランプが点滅した。見れば、「フィルターお手入れ」とある。
また、フィルター!
とりあえず、掃除機の集塵容器を開け、ゴミを捨てる。ここまでは、経験があるが、はて、フィルター? 集塵容器を眺めまわす。と、「フィルターのお掃除の仕方」なるイラストが貼られていた。絵に従って、集塵容器を分解し、中のフィルターを取り外して、埃を取ったあと、再び組み立て直すこと、約十分。
やっとのことで、フィルターから解放されて・・・はて、何してたんだっけ?
ぼうっと居間の中を見回すと、ソファに積まれた洗濯物が目に入った。
あ、畳まなきゃ。
昨日、妻にうるさく指図されたので、手際よくとはいかないまでも、随分ときれいに畳めるようにはなった。
畳んだものを、仕舞うべき処に収め、さあ、これで一服できるぞ、とキッチンに入って、ポットを掴む。
あっ!
そうだ、病院に行くんだった。
お読みいただきましてありがとうございます。
コメント、評価、ブックマークなど、お願いいたします。