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─ 二日目 ③ ─


── 茗荷谷 ──



 池袋から丸ノ内線で二駅。茗荷谷駅から少し歩いた処に、その店はある。

「ほう、ここは初めて連れてきてもらうね」仕入れ担当部長の大石が、のれんを潜りながら機嫌の良さそうな声で言った。大石は、長身の山之内ほどの背はないが、恰幅がよく堂々と歩くので、店の間口が狭そうに見える。

「たまに使うんですよ。のどぐろの煮つけが絶品なんです」案内してきた山之内が、顔を向けながらそう言って、「さ、こちらです」と手を伸ばした。

 ビルの中にある、ちょっと見は目立たぬ店だが、二階のテーブル席を抜けて三階に上ると、襖で仕切られた体裁の良い座敷があった。

 中には、ニッタ商事の新田常務と田所課長が待っており、大石が入っていくと、田所がすぐに立ち上がって、機敏な所作で上座へと誘った。

 大きな座卓を挟んで、大石の向かいに新田、両脇に田所と山之内が座った。

「本日は、お越しいただきまして、ありがとうございます」新田が慇懃に頭を下げる。

「いやいや、お招きいただいて恐縮です」と大石が鷹揚な身のこなしで礼を返す。「しかし、茗荷谷とはねえ、意外でしたよ。学生街でしょ、この辺りは」接待なら、相応しい場所が他に幾らでもあるだろうに。暗にそうほのめかしているのを察した田所が、すかさず頭を下げる。

「むさくるしいところで、申し訳ございません。たまには、静かなところもよろしいかと思いまして」と上目遣いで見る。

「静かなところ?」

「プライベートで、会社の方にばったり、というのも何かと煩わしいかと思いまして。なにしろ、主要な駅には御社の店舗が必ずありますので」と、黒鞄の内側に置いていた紙袋を、大石の眼にとまるように前にずらす。

 大石はこういったことには察しがいい。慣れていた。紙袋の中身については、その額まで、ほぼ予想がついた。なので、彼はそれ以上、嫌味たらしいことは言わなかった。


 酒と料理が運ばれ、一通りの社交辞令とそれに続く当たり障りのない会話が一段落した時だった。

「ところで、いま特別展をやっている五郎右衛門ですがねえ」大石が切り出した。皆の表情が、すっと引き締まる。「あれは、窯も工房も途絶えていたんですよね。お孫さんですか、再興したのは?」

「七代五郎右衛門は、六代目のひ孫にあたります」と田所が言いながら、大石の盃に酒を注ぐ。

 大石は注がれた酒を一口含み、「ひ孫かあ。大変だったろうなあ、一度絶えたものをまた始めるのは」

「ええ。何しろこれがかかります」と新田が、親指と人差し指で輪を作り、品無くゆすって見せた。「銀行にも渋られたようで、ま、うちが出資しなければ、立ち上がっておらんでしょうねえ」まるで、自分の力だとでも言いたげだ。

 だが、大石は苦笑を浮かべると、ひらひらと手を振った。「金じゃなく、いや、金も大変だったろうけど、技術の話ですよ。匠の技」

「ああ、技」新田が気勢を削がれたように、抜けた声を出す。

「だって、世界の五郎右衛門。幻の白磁、ね」そう言って、手に持った盃を傾ける。田所がすかさず、酒を注ぐ。大石は注がれた酒を、また流し込むと、山之内に顔を向け、にっ、と口を左右に広げた。「大変だったんだよなあ、山之内さん。昨日は」そして、新田に目を転じ、「お聞き及びでしょうが、特別展の現場責任者の八嶋がね、八角皿の絵付けがおかしい、そう言い張るものでね」

 穏やかだった新田の顔が強張った。

 田所が、取り繕うように口を挟む。「色目が少々、隣の皿と違っていると、ご連絡いただきました。しかし、大石部長にご確認いただいて、問題にするようなものではなかったと・・・」

「うん、確かにね、見ましたよ。現地現物主義なんでね、僕は。で、問題にはしなかった。でもね。問題が無かった、と言うわけではないんですよ」

「と、おっしゃいますと」田所が警戒するように大石の目を見る。

 大石はその視線を受け止めながら、前に傾けていた身体をおもむろに起こした。「五郎右衛門は白磁の透き通る白と、絵付けの鮮やかな発色が命・・・だよね」とまた、山之内に顔を向け、「あの八角皿の色、あなた、どう思った?」

「え」山之内の視線が、常務を見、横に動いて課長のそれと合った。「大石部長の・・・ご判断の通りかと」

「僕は判断しちゃいないよ!」

 大きな声に、山之内が竦んだように固まった。

 田所と新田も動きを止めて大石を見る。

「あなたが、問題ないと言うから。だから僕は、ならいい、そう言ったんだ」大石は、そこでまた酒を口に含むと、唐突に破顔して、「五郎右衛門の製法は、秘伝なんだそうですね」と何事もなかったかのような口調で、田所の方に向いた。

「は、はい。そうです。窯の条件とか色の調整などは、門外不出でして」

「契約前の打ち合わせでも、そうおっしゃられてましたねえ。だから、数が出来ないんだと。ところが、この半年でかなり取引数が増えてますねえ。ざっと二倍半だ」

「作業効率が上がったのです」すかさず言った田所の言葉は、少し早すぎた。

 大石が目を据える。「作業効率がねえ」しばらく田所の顔を眺めていたが、やがて、ふっ、と笑って新田に視線を向けると、「それにしてもねえ。色目がなあ」その目が僅かに弧を描いて細くなる。

 その時、不意に何とも気の抜ける音が鳴った。「あっ」山之内が慌ててポケットからスマホを取り出す。

「音、切っておけ!」田所が叱責した。

「すみません」と画面を確認し「あ・・・すみません、ちょっと」山之内は立ち上がって部屋を出た。

 電話は、まさに今話していた五郎右衛門窯からだった。

 色目がおかしいというクレームについて、こっちでは在庫品を調べたが問題はなかった、送ってもらった写真は見たがよく分からない、具体的にどこがどうだったのか、と質問が続き、気づけば十分以上も話していた。

 改めてそちらに行くので、日程はまた明日にでも、と言って長い電話を終え、山之内は部屋に戻った。

 襖を開ける。

 と、先刻までの、ピリピリとした空気はなくなっていた。

「おう、山之内さん。長かったねえ、恋人かい?」大石が笑顔を向けてくる。

「いえ、そんなんじゃ。仕事関係で・・・」

 すると新田が、「なんだ、無粋だぞ。彼女ってことにしておくんだよ、こういう時は」と、こちらも上機嫌で無茶を言う。

 なにやら分からないが、問題は解決したようだ。山之内は、ほっとして座ると、ぬるくなったビールに口を付けた。



── 千葉 ──

 

 娘は夜七時前に帰宅した。

「コロナ、どうだった?」ただいま、よりも前にそう訊いてきた。

 陰性だったと伝えると、「なんだ。早く帰ってきて損した」母親が熱を出しているからと、部活を早めに切り上げてきたという。

 しかし、損したとはどういう言い草だ。それに、ちっとも早くないではないか。

「学校から家までどんだけかかると思ってるわけ? 部活のある日はいつも八時過ぎだよ、帰ってくるの」まったく、そんなことも知らないの? と呆れ顔を向ける。最近、ますます妻に似てきている。

「でも、熱はまだ下がらないんだ」

「えっ、そうなの。コロナじゃないのに。お母さん、大丈夫なの?」そう言って、寝室を覗こうとするので、うつるから駄目だ、と娘を止めた。

「父さんも、看病と家事でへとへとだよ」とぼやくと、

「少しは主婦の有難味が分かったようだね」

 お前に言われたくはない。

「いいから、さっさと着替えてこい。飯だ」

「今晩なに? またお弁当じゃないよね」疑うように目を細める。

 馬鹿にしてるな、こいつ。「カレーだ」と少し偉そうに言う。

「おお、やったー」娘が拳を突き上げた。カレーでそんなに喜ぶのか。まるで小学生だな。

 娘は階段を駆け上がったかと思うと、何分も経たぬうちに、ばたばたと降りてきた。

「へえ、おいしい、おいしい」娘は一口食べるなり、驚いたように顔を上げた。

 私は思わず、にんまりする。

「これ、全部、お父さんが作ったの?」

「そりゃそうだ」

「でも、あれでしょ。スマホ見ながらでしょ」

「違う」生霊の指示通りに手を動かした、などとはもちろん言わない。


 夕食後の後片付けは、娘がやってくれた。さすがに私よりは手際がいい。食洗機も使っている。残ったカレーは、密閉袋に小分けにして、冷凍庫に入れていた。どうせ、明日食べるんだから、鍋のまま置いておけばいいんじゃないのか、と口を挟むと、「ほんと、お父さん、知らないねえ。この時期、腐りやすいんだよ。カレーなんて一日放置したら、一発」

「一発?」

「食中毒ってこと。それに冷凍すれば一週間は大丈夫だから」

 なるほど。ああ見えて、日頃、それなりに、家事を手伝ってはいるようだ。


 やっと出来た、くつろぎの時間。

 テレビの前で私はぼんやりと考えていた。

 妻は、生霊は、もう出ないだろうか? 今出たら、どうしよう。あの足の透けた姿を見たら、娘はパニックになるに違いない。しかし、ああいった心霊現象は、見える人間とそうではない人間がいると聞いたことがある。もし娘には見えず、私だけが見えていたら、どうなる? 一人で喋りながら動き回る私を見たら、きっと頭がおかしくなったと思うだろう。その方が最悪だ。妻が再び現れても、娘の前では気を付けねばならないな。

 そんなことを考えている間に、娘は風呂に入り──ちなみに風呂を洗う余裕などなかったので、今日もシャワーだけとなったが──髪の毛を乾かして、歯を磨き、「じゃあ、おやすみなさい」と、二階の自室に引っ込んだ。


 妻が現れたのは、テレビのニュースをつけながら、ソファでうつらうつらしていた時だ。

「救急車を呼べ」耳元でそう言われて、私はびくっと体を震わせた。

 目の前に妻の顔があった。

「わっ!」叫んでしまってから、ソファの背を擦りながら上体を起こした。

 しゃがんでいる妻の足を見る。折り曲げた膝の、その下がやはり透けて見えない。またこっちの方か。

「だから、急に出るなって。本当に、俺、死ぬぞ」

「死にそうなのはわたしだ。救急車を呼べ」

「えっ」死にそう、という強烈な言葉に、私は立ち上がって寝室に走った。

 妻は寝ている。ときおり咳込むがそれほど苦しそうなわけではない。額に手を当てる。熱は夕方より下がっている、ように思える。

「落ち着いているんじゃないのか・・・」ぼそっと漏らすと、後ろから、「早く呼べ、救急車」と足の透けた妻が平坦な声で言ってくる。

 私は振り向き、「でも、苦しそうじゃないぞ」

「お前、医者なのか。診断できるのか」そう詰め寄ってきて、「いいから呼べ。本人が言ってるんだ。放っておくと死ぬぞ」

 そうは見えない。

「そうは見えなくても、そうなんだ」

 え? やっぱり思ったことが分かるのか?

「ああ、分かる」

 そんな。霊だからって、何でもありなのか!

「何でもありだ。霊だからな」

 何が何やら分からなくなってきた私は、「ふん、なら、今何を思ったか言ってみろ」と、食ってかかっていた。

「わたしが死んでも、かまわないと思っている」

「いやいやいや」私は大いに狼狽し、「馬鹿を言うな。そんなわけ・・・あるか」

「いま、少しある、そう思ったな」

「いやいやいや」死なれちゃ、困るに決まってる。

「だったら、早く呼べ」

 十分後。救急車が到着したとき、生霊は消えていた。

 


── 茗荷谷 ──

 

「なんか、催促したみたいで、悪かったねえ」大石は、街灯に照らされた住宅街の細い道を歩きながら、首だけ後ろに回した。

「いえ、そんなことないです」山之内が、顔の前で小刻みに手を振る。「仕事の話だと、やっぱり飲んだ気しないですもんね」

 山之内にとって大石は、目下の最重要顧客だ。ワイン飲みたいなあ、とほのめかされれば、連れていかないわけにはいかない。新田と上司の田所は、失礼のないように、しかしさっさと帰ってしまった。おかげで、この、少々面倒くさい偉いさんを、山之内が一人で面倒を見ているのだ。

「そうなんだよなあ、苦手なんだよ、接待ってやつは」大石がわざとらしく、しかめっ面を作る。

 山之内は思わず苦笑いを浮かべた。よく言うよ、いつも上機嫌のくせに。

「特に、常務なんていうさ、偉い人に出てこられちゃうとね。こっちも緊張しちゃうんだな」大石は、そう言うと、前に向き直って笑い声を立てた。「あなたと二人の方がいいよ、気を遣わなくてさ」

 俺にも少しは気を遣えよな。思ったが、もちろん言わない。

「ところで、さっき言ってたワインバーって、もう近いの?」

「坂を下ると神田川で、橋を渡ってすぐです」

「坂って言えば、この辺、坂多いよねえ、やたらに」

「やたらにありますね、坂と学校が」

「学校か。学校じゃしょうがねえな。やっぱり、神楽坂までいかないと駄目か。よし、ワインバーのあとは神楽坂に繰り出そう」

 やはりそう来たか。思わず溜息が出る。


 程なくして、山之内はすぐ先で直角に曲がっている道の、脇を指さした。「そこの、ちょっと暗いですけど、降り口が」

 大石は歩きながら目を凝らした。「あ、石柱のところ?」

「はい、そこです。神社の裏に出る階段なんです。そこ降りましょう。近道なんで」

「随分と暗いなあ。怖くない?」

「部長、怖がりなんですか?」

「そうなんだよ。お化けとか駄目でさ」秘め事を漏らすように言う。

 山之内は、はは、と笑い、「大丈夫です。何も出ませんから。でも、急なんで、気を付けてくださいね」

 小さな石柱が二本あり、その間が真っ暗に空いている。人が二人並ぶと窮屈なくらいに狭い。淵に立つと、結構な急角度で石段が夜陰に下っていた。

「なんだよ、怖いじゃない」足を出しながら大石が言うと、「出ませんって」山之内が後ろで笑う。

 恐る恐る下りながら、数段行ったときだ。

「わっ!」後ろで声がして、大石が振り向く。その頭上から覆いかぶさるように、山之内の体が降ってきた。二つの体がぶつかり、回り始める。

 鈍く固い音が、賑やかに闇の底に転がっていく。そしてすぐに、何も聞こえなくなった。



── みつわ台 ──


「肺炎を起こされていますね。今夜処置できてよかったですよ」

 医師は、レントゲン写真を眺めたあと、首を回して私に頷いて見せた。

 処置室からストレッチャーに乗せられて出てきた妻は、そのまま、集中治療室へと運ばれた。待合所でぽつんと待っていた娘は、診察室から出てきた私に走り寄った。

「お母さん、どうだって?」

「入院だ。肺炎になってるって。でも、処置が速かったから、大丈夫だ」

「肺炎だったんだ。お父さん、気づかなかったの?」

「うん」私は床を見詰めた。「咳もひどくなかったしな。気づいてやれなかった。危なかったよ、言われなかったら」

「言われなかったら?」

「あ、いや・・・」私は言葉を濁した。いかん、つい口が滑った。

「怖いね」

「え?」娘の顔をまじまじと見た。知っているのか? 「怖いって?」と問う。

「インフルエンザ」

 なんだ、そういう怖いか。

「舐めちゃいけないね。インフルエンザ」

「ああ。舐めちゃいけないな」

 この病院は、完全看護なので付き添いは認められていない。家族が寝る場所もない。心配ではあったが、私と娘は、病院に全てを任せて家に戻った。


お読みいただきましてありがとうございます。

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