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─ 二日目 ② ─


── 千葉 ──


 ふと、目が覚めた。

 誰か呼んだか? 

 ソファから起き上がる。見回すが、もちろん誰もいない。

 壁の時計を見上げる。一時半か・・・すっかり眠ってしまったな。そうだ、晩飯をスマホで・・・あれ? スマホ、どこいった? 辺りを見回す。ソファの脇に転がっていたのを拾い上げ、再び、料理のサイトを開く。しばらく眺めていたけれど、面倒になって決断する。

 カレーにしよう。カレーでいい。

 動画を再生し、作り方を見ながら材料をメモする。なんだ、簡単じゃないか。


 じゃあ、買い出しに行くか。

 と、自分の財布を掴むが、ここで考える。待てよ、晩飯の材料は生活費だよな。

 ならばと、妻のバッグを開き、妻の財布に手を伸ばす。が、なんだか、後ろめたい。悪いことをしているわけではない。食費なのだから、生活費を管理している妻の財布を持っていくのだ。筋は通っている。それでも、なんだか、親の財布から小銭を盗むような心持ちで落ち着かない。

 悩んだ末、結局、私は自分の財布を持って、スーパーに向かった。

 久しぶりにスーパーに入った。色鮮やかな野菜や果物が目の前に広がる。少し心が浮き立った。目当てのものを探しながら歩くが、目には次々と旨そうな食品が飛び込んでくる。食材を書きつけたメモを手に握りしめていたのだが、あれやこれやと目移りし、気づけば、かご二つにあふれるほどの買い物をしていた。


 家に戻り、買ってきたものを、取り敢えず冷蔵庫に詰め込む。が、入り切らない。

「いや、困ったな」それでも、何とかならないものかと、扉を開けたまま、ああだ、こうだと、食品を出し入れしていると、ピーッ、ピーッ、と冷蔵庫が鳴り出す。

「えっ、なんだ?」

「警告だ! 開けっ放しにしておくからだ。扉を閉めろ!」

「あ、そうか」言われた通り扉を閉めてから、えっ、と振り返る。

 妻が立っていた。

「おい、いいのか、起き出して?」そう問いかけて、気が付いた。

 えっ!

 足がない。

 いや、あるのか・・・もしれないが、膝から下が薄っすらとして、透けるように陰に溶けている。

 幽霊? まさか!

 

 私は、猛然と寝室に走った。

 扉を乱暴に開け、ベッドに駆け寄る。

 布団にくるまった妻。死んでるのか?

 あ、動いている!

 額に手を当てる。熱い。まだ熱は高いようだが、それでもちゃんと息をしている。よかった!

 え? なら、さっきのは?

 幽霊じゃ、なかったわけだ。

 そこで、初めて怖気が走る。全身が粟立つ。何だったんだよ、あれ? 

「お前の妻だ」後ろから声がした。

 びくんと、身体が硬直する。怖い。怖い。それでも、操られているかのように、首だけ振り返る。

 いた!

 妻だ! 

 相変わらず、足が・・・ない! 

 心底驚いた時というのは、声が出ないものらしい。と言うよりも、理解が追い付いていかないだけなのかもしれない。

 私は、目を瞑って頭をぶるんと振ってから、ゆっくり瞼を開けた。

 それでも、いた。どう見ても妻だ。髪型、顔、パジャマ、どれも今寝ている妻と同じだ。ただ、膝から下がない。

 なんなんだ、これは?

「幽体離脱ってやつらしい。つまり、生霊だな」足のない妻が言う。

「生霊?」私は自分の声が震えていることに気が付いた。

「そう怖がるな」

 無理を言うな、幽霊め。

 すると私の心を見透かしたかのように妻が言った。「幽霊とは全く違う。生きているんだからな、今のところは」

 今のところは? 私は、はっとなって、ベッドの妻を振り返った。

「もうじき、死ぬのか?」

「いや、そういうことでもないようだ。少し前に熱を計ったが、八度七分だ。呼吸もそれほど苦しくはないし。今はぐっすり寝ている」

 まるで、他人事だ。

「本当に心配ないのか? 救急車呼んだ方が・・・」

「大丈夫だ。本人が言うんだ、間違いない。それより、冷蔵庫だ」

 私は、ベッドの妻と、後ろに立つ妻を交互に見たが、結局、足の透けている方に促されて寝室を出た。


「開けろ」冷蔵庫の前で、妻が言った。

 さっきから気になっていたのだが、声は確かに妻の声なのだが、言い方が随分とぞんざいだ。妻はこんな横柄な物言いは決してしない。本当に妻なのか?

「くどいな、まだ疑っているのか」

 私は目を丸くした。考えたことが聞こえているのか?

「言いたいことがあるなら言え」

「あ、いえ」

「ほれ、冷蔵庫、開けろ」

 私が扉を開くと、妻は中を見て、「はあ」と漏らし、「ぐちゃぐちゃじゃないか。呆れ果てるな」そして、私を見ると、「買ってきた物、全部出す」相変わらず命令口調だ。が、顔に表情はない。言葉に抑揚もない。つまり、感情がない。ただ言いようはきつい。

 私は先ほど詰め込んだものを、全て取り出した。すると妻は、それらを、全て床の上に並べろ、と言う。私が一つずつ手に取ると、妻は、右、左、と指示を出し、私はその通り床に並べた。

「左と右、違いが分かるか?」

 え、違い? 袋に入ってるとか?

「結構、馬鹿だな」

 馬鹿だと? 思わず目を剥いて妻を睨みつける。

 と、妻の口元が、にやりと曲がった。初めて表情が動いた。が、すぐに無表情に戻って、「馬鹿は馬鹿と言われると、怒るものだ」

「ひとを馬鹿、馬鹿と、何様の」

「いいから」と遮り、「左は冷蔵庫にすぐ入れる。早くしないと腐るぞ。ほれ、やれ」

「じゃあ、右は?」

「常温保存だ。床下収納に入れる。こっちは後でいい。冷蔵庫に先に入れろ」

 私は屈辱を味わいながらも、妻に言われるままに動いた。


 物を仕舞うだけでも、結構な体力を使うもので、終わったとき薄っすら汗をかいていた。

 汗を拭こうと、洗面所に入る。妻は後ろから付いてきている。

 だが、洗面台で水を出しながら、鏡を見ると、おっ、妻がいない! 

 顔をばしゃばしゃと洗い、タオルで拭いながら、もう一度、ゆっくり鏡を見る。

 いない。ああ、良かった!

 疲れているんだ、きっと。

 そう思って、振り返ると、目の前に妻がいた。

「わあっ!」

「大きな声を出すな」

「突然、出るなよな。驚いて、死んじまうぞ!」激しく打つ胸を押さえながら、私は訴えた。

「何を言っている。ずっといた」

「だって!」鏡を振り返る。と、映っていない。向き直る。いた。そうか、鏡には映らないのか。吸血鬼と同じだな、などと、こんな時でも呑気なことを考える。

 どうやら、今見ているものは、幻覚でも気のせいでもなく、実際に見えているらしいが、とにかく落ち着こう、と動揺冷めやらぬまま下を向く。

 と、洗濯機の横の洗濯籠が目に入った。脱ぎ捨てた衣服が山積みになっている。

 あ、洗濯もしないと。またまた、呑気に考える。

 私は籠に手を伸ばした。

「待て」と妻が言う。

「え?」

「わたしを着替えさせろ。パジャマが汗で濡れている」言うなり、妻の姿が照明のスイッチを切ったかのように、ふっと消えた。

 私はしばし立ち竦んでいた。

 辺りを見回し、妻の姿がないと納得がいくと、長い長い息が漏れた。そして、崩れるように膝をつき、両手も床について四つん這いになった。

「怖かったあー。何なんだよ。なんで、急にあんなもんが見えたんだあ? 霊感なんてまるで無いのに」私は半べそをかきながら、しばらく洗面所の床で動けずにいた。


 五分か十分か。膝の痛みを覚えて、はっと我に返る。

 生霊ショックからは、立ち直れてはいなかったが、動悸と足の震えは収まっていた。また出るかもしれない、という緊張はあったが、不思議なことに怯えてはいなかった。

 とにかく、こうしているわけにもいかない。夕食を作らなければならないし、その前に溜まった洗濯物をやっつけなくてはいけない。そうだ、それに妻の着替え・・・。

 おっかなびっくり寝室に入る。ベッドにそうっと近づくと、妻が目を開けた。

「ああっ、よかった!」思わずそう言っていた。

「どうしたの?」妻が怪訝そうに見る。

「えっ、あの、覚えてない?」

「何を?」妻が眉根を寄せる。

 覚えていないんだ。

「いや、何でもない」そう言ってから、妻の額に手を当てた。「まだ高いな。パジャマ、着替えよう。汗で濡れたままだと良くないから」

 お湯で湿らせたタオル二枚を持ってきて渡した。妻がそれで体を拭い、着替えをする間に、私はベッドのシーツを交換した。


 また布団にもぐった妻は、「ありがとう、少しさっぱりしたわ」と言って、また目を閉じた。

 それからは、ドタバタと時間が過ぎていった。洗濯機を回す。米を研ぎ、炊飯器をセットする。ジャガイモの皮を剥き、ニンジン、玉ねぎを刻んで、豚肉に塩コショウをする。と、列挙していくと、いかにも流れるようにこなしたようだが、実際のところは、洗濯機は操作方法が分からず、取扱説明書を探し回り、やっと見つけて読んでみるも、何のことはない、スタートボタンを押すだけなんだと分かった時には、すでに二十分以上を浪費していた。米の研ぎ方は知っていたので、そこは問題なかったが、炊飯器のセットにこれまたてこずった。カレーの材料の準備は、スマホで料理サイトの動画を見ながらでなんとかできたが、やはり手際が悪く、カレーの下準備が終わるころには、夕方五時を回っていた。


 ふうと息を吐き、いよいよ、炒めるか。そう思った時である。

「洗濯物!」

 えっ! 横を見る。

 また妻だ! また足がない。

「洗濯は、したけど・・・」

「脱水したままだ。放置すると、臭くなる。さっさと乾燥機に入れろ」

「あ、乾燥機か・・・」

 言われるままに、洗面所に移って、洗濯機の蓋を開け、脱水された衣類を取り出して上段に設置されている衣類乾燥機に放り込んだ。

「駄目だ! 乾燥機に入れていいものか、マークを確認しろ。常識だ」

「あ、そうか・・・」

 またしても怒られながら、妻の指示で衣類についたタグを一つ一つ確認しながら入れる。幸い、このときは全て乾燥機に入れられるものだった。

「ええと、これは」どれを押せばいいのかな。

「電源ボタン。次に、その右の、標準コース」

 言われた通りに押すと、乾燥機は無事動き出した。

 この乾燥機にしても洗濯機にしても、必要な情報はセンサーで読み取って、時間から何から、自動で設定してくれるようだ。今の家電は本当に賢くできているのだな、とつくづく感心する。

「本当に、何にも知らないな」呆れたように妻が言う。

 ふん、偉そうに。透けてるくせに。と見えない膝の下に視線を向ける。

「言っておくが、幽霊じゃないぞ」

 面倒なので、言い返さなかった。


 あとは乾燥機まかせなので、私はキッチンに戻った。もちろん、妻が付いてきたが、振り向かず、なるべく意識しないようにした。

 キッチンに立ち、スマホをいじり、カレーの動画をスタートさせる。

「何している? 料理するんじゃないのか」

 無視した。

 動画を見ながら、材料を炒める手順をしっかり覚える。カレーを作るくらい、一人で出来る。口出しされたくない、「幽霊ごときに」思わず呟いていた。

「幽霊ではない、生霊だ。何度言ったら分かるんだ」

 ああ、面倒くさい!

 スマホの動画を一通り見終わった私は、いよいよ作るぞ、と食器棚の上の扉を開き、フライパンを取り出した。

 五徳に載せ、火を点けようとスイッチに手を伸ばす。

「フライパンではないぞ」妻が言った。

「いいんだ。合ってる。カレーなんだから」

「保温鍋だ。フライパンではない」妻が言い張る。

「保温鍋? あの寸胴鍋みたいな、でっかいやつ?」

「そうだ。鍋本体で沸騰させて、そのまま保温容器に入れればいい」

 しかし、私は動画を見て学習済みなのだ。「いいんだ、あんなでっかい鍋使わなくても。フライパン一つで作れるんだから」

「ふん!」妻が鼻を鳴らす。幽霊も鼻を鳴らすのか?

「お前が見ていたのは、独身者用の動画だろう」

「いや、単身赴任者向け男の料理、ってやつだけど・・・」

「一人前だけ作ってどうする。わたしは食べないが、小百合の分がある。小百合は高校生だ、たくさん食べるぞ。それにどうせ、明日もカレーで済ませる気だろう」

 それは、確かにそのつもりだ。

「だったら、六人前は要る。フライパン一つで入りきると思うか?」

 あ・・・。

「だから、保温鍋を使えと言っている。炒めて煮込むまで、保温鍋一つで出来る」

「・・・はい」

「じゃあ、フライパン戻して。保温鍋を出す。そっちじゃない、下の扉だ」

 結局、主導権を取られ、それから後は、全て背後から妻が指示を出した。私は、それに従って、ただ手を動かす。肉と野菜を追加し、切って、炒めて、水を入れて沸騰させ、ルーを溶く。

 煮立ったその後は、鍋を保温容器に入れれば余熱で勝手に煮込んでくれる。ほったらかしで調理の出来る優れものに、私は少し感動した。

 少しして、乾燥機からピーピーと音がした。

「乾燥が終わったぞ。畳め」

 言われるままに、乾燥機から、ふかふかになった衣類を取り出し、居間のソファに抱えて持っていく。

 衣類を畳むのが、ここまで面倒だとは、この時まで知らなかった。適当に畳み出すと、すぐに背後の妻が声を上げた。

「それじゃ、皺になる。裾を引っ張る」

 私の畳み方が雑なせいもあるのだが、「真っすぐ。そこ引っ張って、皺伸ばしてから。両端揃えて。それじゃ折りすぎ、三分の一重ねて」と、次々と指示が飛んでくるものだから、全て畳み終えた頃には、私はへとへとになっていた。妻も、もし生霊などでなく、生身だったら、きっと声が枯れていたに違いない。

 とにもかくにも、洗濯物をやっつけ、ご飯が炊き上り、保温鍋の中でカレーが出来上がって、後は娘の帰りを待つだけとなった時、気づけば、妻の姿は消えていた。

 私は部屋の中を見回し、はあ、と息をこぼしていた。

お読みいただきましてありがとうございます。

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土曜、日曜は、昼十二時ころに更新いたします。

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