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─ 二日目 ① ─


── 千葉 ──


 トントントンとリズミカルに響く音で目が覚めた。体を起こす。景色が違うことに寸の間戸惑った。

 そうだった。居間のソファで寝たのだ。

「お母さんを隔離したんだ」対面式キッチンに娘が立っていた。こちらに向けていた顔を下に戻し、右腕を再び動かし始めた。何かを刻んでいるらしい。

「いや。睡眠を邪魔したくなかったんだよ、父さん、たまにいびきをかくらしいからさ。それに、インフルうつされて、共倒れになるわけにもいかないだろう」

「やっぱり隔離じゃん」娘は、まな板を持ち上げると、横の方にそれを傾けた。鍋に野菜でも入れているのだろうか。

「朝飯、作ってるのか?」

「朝からコンビニ弁当ってわけにいかないでしょ」

 昨日は、朝から慣れぬことに振り回されたせいか、昼食は食べ損ねた。正確には、食べるのを忘れていた。会社のことも気にかかったので、パソコンで部下とメールのやり取りをして午後を過ごしたが、夕方前にはすっかり疲れ果て、近くのコンビニに出向き、自分と娘の分は弁当を買い、寝こんでいる妻には、ゼリー状の栄養補助食、そしてアルカリイオン飲料を買ってきて、それで晩飯をしのいだ。

「それにしても、お父さん、本当に家事だめなんだね。炊飯器もセットしてないじゃん」

 言われて気づく。ああ、そうだった。

「今炊いてて間に合うのか、学校?」

「早炊き、っていうのがあるんだよ。あとちょっとで炊ける」

 へえ、と娘の意外な頼もしさに感心しているうちに、朝食が食卓に並ぶ。いつもと同じメニューではあるが、みそ汁の味がちょっと違っていて、これはこれで美味かった。

「お父さん、今日も休むんでしょ、会社」箸を動かしながら、娘が私を見た。

「あ、そうか・・・どうしようかな」考えていなかった。

「熱、まだあるんでしょ、お母さん」

 言われて、あっと箸を止める。今朝はまだ確認していない。慌てて立ち上がる私に、娘が呆れた顔を向けてくる。


 薄暗い寝室に入ると、妻は静かに眠っていた。苦しそうな様子ではないが、顔は赤いように思えた。そっと額に手を当てる。熱い。昨日と同じくらいだろう。体温計で計りたいところだが、起こすのも気が引ける。

 と、妻が不意に目を開け、私を見た。「体温計、そこ」と、視線をベッド脇の台に向ける。

 体温計を取って渡しながら、「起こしちゃったか」と問うと、「ううん、眠ってるような、眠ってないような、だったから」小さな声で言った。

 三十八度九部。少し上がった。

「水分、摂った方がいいよ」そう言って、妻の半身を起こさせ、傍らに置いておいたアルカリイオン飲料のペットボトルを渡す。「あと、栄養もとらないと」とゼリー状の栄養補助食のパックを掴み、蓋をねじ取った。


「熱、下がった?」寝室から出ると、キッチンで洗い物をしている娘が訊ねてきた。

「いや、下がってない」

「じゃ、お父さん、休むのね」念を押すように言ってくる。「じゃあ、わたし、もう行かないと。お昼はまた買って済ませるから、お弁当代よろしく」 

 濡れた手を拭き、私から千円札を受け取ると、娘は元気よく出かけて行った。

 キッチンは、鍋も炊飯器も、綺麗に片づけてあった。食卓の上には、私の食べかけの朝食だけが載っていた。


 食卓の上にまたぞろパソコンを広げ、上司と部下にもう一日休む旨の連絡文を打ち、休暇の申請をしてから、昨日の夕方以降に着信したメールのチェックを始めた。

 しばらく読み進めるうち、ふと一つのメールに目が留まる。

「『大石部長は明日の七時ならOKだそうです』・・・なんだこりゃ」

 大石部長と言うと、西京百貨店の大石部長だろうか。七時ならオーケー? 発信は一課の山之内、宛先は一課長の田所で、私には写しで送られてきている。次の山之内からのメールを見ると、一課の庶務担当者に、接待でたまに利用している小料理屋を予約するように依頼している。

 西京百貨店の大石部長とくれば、いま開催中の「五郎右衛門特別展」に絡んでのことだろうが、なぜ、今日、接待?

 途端に不安が頭をもたげる。


 私が統括する新規市場部は、ニッタ商事の創業家の四代目である新田常務が立ち上げた──実際のところを言えば、経営方針を巡って創業家と対立している室井社長一派に対抗するために、かなり強引に作った部門である。

 主要な企画として、「日本伝統工芸ビッグバンプロジェクト」──これも新田常務発案だが──を推進しており、個人経営の多い日本各地の伝統工芸品を、ニッタ商事が大量に買い付け、プロジェクトの名のもとに、国内外に大々的に販売しようというものである。

 その目玉の一つが、幻の白磁と言われた、五郎右衛門である。

 五郎右衛門窯は、一度は途絶えてしまった工房で、窯元の子孫が二十年をかけて工房を再開させようとしていることを聞きつけたニッタ商事が出資をして、三年前、ようやく復活に漕ぎ着けた。

 兼ねてより、その透き通るような白と、絵付けの鮮やかな発色から、海外での評価も高く、復活と同時に多くの注文が入った。しかし、製法や釉薬、絵の具については秘中の秘で、そのせいもあって、大量生産が出来ず、コストも高いため、なかなか利益に結びつかず、つい半年ほど前からようやく数量が伸びコストも下がってきて、利益に貢献するようになってきたところだ。

 その五郎右衛門の国内の販売を担ってくれているのが、西京百貨店グループだ。

 特別展の最中に、そこの仕入れ責任者を接待するということは、何か不都合な事態でも発生したのではないだろうか。

 何にせよ、部長の私が把握していないというのは非常にまずい。私は、発信元の山之内と一課長の田所に宛てて、事情を説明するように、とメールを発信した。


 八時過ぎ、田所から返信が入った。もう出勤しているのか、と感心しながら、内容を確認する。

『ご苦労様です。メール頂いた件ですが、昨日、五郎右衛門特別展への出展品について、西京百貨店側より、絵付けの発色に少しばらつきがあるのではないか、との指摘を受けました。山之内が出向き、催事場で確認しましたが、問題になるようなものではなく、照明の加減もあるのだろうと、納得いただきました。先方で立ち会っていただいたのは、仕入れの大石部長です。お手数をおかけしたので、本日、会食することとした次第です。小職と山之内で対応しておきますので、ご心配には及びません。連絡が遅れ申し訳ありませんでした。奥様、お大事になさってください』

 ふうん。そういうことか。大石部長は仕入れの決定権を握る西京百貨店のキーマンだ。その大石がうんと言ったのなら大丈夫だろう。

『了解です。よろしく頼みます』と返信して、私は残っている他のメールに目を転じた。

 

 電話が鳴った。時計を見ると十一時を回っていた。

 電話は、昨日受診した医院からで、PCR検査の結果連絡だった。コロナは陰性だった。ほっ、と息を吐く。

 だが、気がかりが無くなったわけではない。少し前に妻の熱を計ったのだが、三十九度二分と、上がっていたのだ。電話でそのことを伝えると、少しお待ちください、と言ったあと、昨日診てくれた医師に電話が繋がった。

「ああ、コロナではなかったけど、インフルエンザも熱上がりますんでねえ。薬は服用しました?」

「あの、吸い込むやつですよねえ、一回だけやりました。帰ってすぐ」

「あれは一回でいいんですよ。であれば、効いてると思いますから、今日は様子見てください。明日も高熱続くようなら、また来てください」

 医師として、丁寧なのかそうではないのか、判断がつかぬまま電話を切った。


 寝室に入り、ベッドを覗き込む。妻は目を開けていた。

「お医者さんから?」察しよく訊いてきた。

「コロナじゃないってさ」

「よかった。インフルだけでこんななのに、コロナもじゃ堪んないものね」力なく笑う。

「ゼリー、飲むか?」妻が頷いたので、私は急いで冷蔵庫に行き、ゼリーのパックを二つ持ってきて、栓を捻って妻に渡した。妻はパックをゆっくり潰しながら、中身を飲む。飲み方に勢いがない。

「もっと何か食べてみる?」

 妻が首を横に振る。「ゼリーでいい」

「コンビニに買い物行くけど、ゼリー、他の味にする?」

「同じでいい。それより」

「え、なにか食べたい?」

「お弁当だけじゃ駄目よ」

 私だけのことではない。娘の食事のことも言っているのだろう。私は、分かった、と頷いて、寝室を出た。


 さて。晩飯どうしよう。その前に昼飯も食べないと。うむ、この際だ、昼飯はカップ麺で済ませばいい。それより、晩飯考えないと。

 私は、ソファに座り、スマホで料理のサイトを開いた。簡単に作れるものがいい。出来れば、電子レンジで済むものがあれば・・・。

 指を動かすと、次から次へと、料理の写真が出てくる。どれも旨そうだ。

 へえ、こんなものも出来るんだ。これは、どう作るんだ? と時々指を止めては、作り方の動画を再生し、こりゃ簡単だ、と感心し、そんなことを続けているうちに、眠気が差してくる。体を横たえ、尚もサイトを眺めながら、いつしか眠りの中に落ちていた。

お読みいただきましてありがとうございます。

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