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─ 一日目 ② ─


── 千葉 ──


 予約時間の十分前には内科医院に到着し、受付に診察券と健康保険証を出して、待つことしばし。予約制をとっているからだろう、待合室には私たち夫婦の他に二人しかおらず、がらんとしている。

 看護師がやってきて、問診票を渡してくる。私がそれに記入している間に、看護師は、私に寄りかかるようにして座っている妻の体温と酸素飽和度を計った。

 ほどなく、「井上香奈さん」と声がかかり、妻が立ち上がる。

 私も一緒に行こうとしたが、「子供じゃないんだから」妻はそう言って、一人でふらふらと診察室に入っていった。


 数分して出てきた妻は、私の隣にくたりと腰を下ろした。

「どうだった?」

「綿棒を鼻に、二本、つっこまれた」

 私は、左右の鼻の穴から綿棒を突き出した妻の姿を想像して、思わずくすりと笑う。

「いま、同時に二本つっこまれたと思ったでしょう」するどく言って、ちらと睨んだ。「一本ずつ、順番によ。PCRとインフルエンザだって」

「結果は?」

「PCRは明日分かるって。電話で知らせてくれるそうよ。インフルエンザは十分くらいで分かるから待っていろって」

 妻はそう言うと、咳き込んだ。辛そうだ。

「車で待っていれば? その方が楽だろう。話は俺が聞いておくから」

「ううん、大丈夫」そう言って、私の肩に首をもたれた。

 十五分くらい経ってから、妻は再び呼ばれ、診察室に入っていった。


 インフルエンザは陽性だった。

 薬局で抗インフルエンザ薬を受け取り、家に帰ると、妻はベッドの上で、ヒューと音を立てて、容器から薬を吸入した。

「インフルエンザってことは、コロナではないのかな」布団に潜り込みながら、妻が言う。

 私は首を横に振った。「いや、そうとは限らないらしいよ。同時にかかる場合もあって、そうだと厄介だって何かでやってた」言ってから、しまった、と後悔した。何も、弱っている人間を余計に心配させることはないではないか。

 妻はそんな私の心中を見透かしたのか、「馬鹿正直に言えばいいってものじゃないわよ」と、僅かに口元を緩めて布団にくるまった。

 私は、静かに寝室を出て、居間のソファに座ると、しばらくの間反省した。



── 本郷三丁目 ──


「それで? 何だと言うんだ?」新田は、革張りのハイバックの椅子にもたれながら、大きな机の向こう側に立つ田所を不機嫌そうに眺めた。

「ですから、絵付けの色目が違うという指摘でして」田所は引き締まった体を前に丸め、いかにも恐縮している。

「それは聞いたよ。色目が違うから何だと言ってるんだ?」

 その時、扉がノックされた。

 どうぞ、と新田が声を上げると、控えめに扉が開いて秘書が顔を出した。

「常務。社長がお呼びですが」

「え、社長が」新田は一瞬、苦虫を噛んだような表情を浮かべた。四角い顔の上の銀縁眼鏡が頬の隆起に載って少し傾く。「来客中だから、十分後に行く、そう伝えておいて」

「はい、承知しました」

「ああ」と閉じかかった扉に声を投げる。「急ぎだって言われたら、そのときは教えてくれ」

「はい」秘書が小さく言い、扉が閉まった。


 新田は、椅子の背に後頭部を付けると、空を睨み、「くそ。どうせ、また、プロジェクトの進捗状況はどうなんだ、予定より売り上げが伸びてないじゃないか。対策はあるのか。なんだかんだ」そう吐き捨てるように言った。

「あの、出直しましょうか・・・」田所がかしこまりながら上目遣いで言うと、

「課長の君が、部長を抜かして何度もここへ来るのは不自然だろう。何かあると勘ぐられたらどうするんだ!」声は大きく、高圧的で不穏当な物言いだ。

 だが言われた田所は気にしていなかった。新田は、いつでも、誰にでもそういう態度をとり、それが相手を不愉快にさせることに、本人はまったく気づいていない。権力というものに慣れ切ったこの男にとっては、普通の会話の一部に過ぎない。悪気も無ければ、何かの意図があってのことでもない。田所はそれをよく分かっていた。

「井上部長は、今日休んでいるので、そこは大丈夫かと思います」

「あ、そうか。そう言えば、そんなメールが入ってたな。ま、いい。で、西京デパートは何だと言っているんだ?」

「後から入荷した分の色味がくすんでいて、絵付けの発色にばらつきが目立つそうです」

「ばらつきが?」眼鏡の縁をくいと持ち上げる。

「五郎右衛門窯ではないものが、混じっていないかと」

「なんだと!」椅子にもたれていた新田の体が、電流でも流したように、びくんと跳ね起きた。「なんと答えたんだ?」

「そんなことは絶対に起こりえない、そう伝えました。すぐに、確認しますからと、いま担当の山之内が行っています」

「そうか・・・。西京デパートの仕入れの責任者、ええと」新田が視線を泳がす。

「大石部長ですか?」

「ああ、そうだ、大石」ぱちんと机を打ち、「大石からは何か言ってきたか?」

「いえ、大石部長からは、まだ何も言ってきていませんが、当然、連絡は入っていると思いますので、じきに呼ばれると思います」

「そうだろうな」新田は少し考えるように顎をさすり、「二度ほど会っているが、あの大石は曲者だぞ」

 田所は頷いた。「しかし、キーパーソンでもあります。西京百貨店の取り扱い製品の決定権を握っていると言っても過言ではありませんから。ただ、あまり良くない噂も聞こえていまして。あちこちからリベートをせしめているらしいと」

「そうだと思った」新田が口を歪めた。「しかし、それなら、好都合じゃないか」

「は? 好都合?」

「話の付けようがあるってことだろう。呼ばれる前に、こっちから連絡しろ。先手を打って丸め込むんだ」

 この手の駆け引きについては、心得ている。田所は、わかりました、と頷いた。


「それにしても、こんなに早くクレームが来るとは・・・。工房の方は大丈夫なんだろうな」新田が顔を顰めて、椅子の中から田所を見上げた。

「六と七、ですか?」田所は顔を強張らせた。

 新田が声を落とす。「そうだ」

「先方には、伝えてあります」

 新田は頷き、「色で文句をつけられるなんて不手際は、今後二度と許されないぞ。検品を厳しくやらせろ。それでも出来ないなら、切れ」きつい口調で言う。

「承知しました。もう一度、念押ししておきます」そして一礼して、踵を返す。

 その彼の背中を、新田の声が追った。「おい。この件、まさか井上部長には?」

 振り返った田所は「いえ、わたしだけです」と当然だと言う調子で答える。

「それでいい」新田が頷いた。「あいつは妙に真面目なところがあるからな」

「わたしも真面目ですが」田所が真顔で言う。

 新田の口元が綻んだ。「頼りにしてるよ、真面目な田所課長。ここを乗り切れ。そうすれば、君の将来はわたしが約束する」

 田所は、もう一度頭を下げてから、部屋を出て行った。

お読みいただきましてありがとうございます。

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