─ 七日目 ② ─
── 本郷三丁目 ──
午後三時前。
会議室の中央に据えられた大きな机の端に置いたパソコンをいじっていると、スマホが鳴った。
「井上です。あ、分かりました」そして、部屋の反対側まで歩いていきパソコンの方を見る。「オーケーですか。よかった。では、ここで待ちます」そしてスマホを切った。
それから、十分。
会議室の扉が、控えめに押された。扉の向こうから覗き込むような恰好で、田所が入ってきた。
「部長。あの五郎右衛門のことで話があるって、なんでしょう? 返品の件なら、先日、説明したとおりで」と早口に喋り出した彼の言葉を、私は、「まあまあ」と遮った。
「もうちょっと待ってくれ、あと一人来るんだ」
田所は怪訝そうな表情になったが、口は閉じた。私が壁際に立ったまま座らないので、彼も扉の側に突っ立ったままだった。
数分して、扉が勢いよく開いた。何の躊躇もない開け方だった。
「あ、常務」田所が驚いた様子で、脂ぎった五十男の顔を見る。
新田は田所をちらっと見て何か言いかけたが、壁際に私の姿を認めると途端にその顔を険しくした。
「井上部長。なんなんだ、会議室に呼びつけるとは!」
「申し訳ございません、常務」私は頭を浅く下げてから、「漏れるとまずい話でして」
「漏れるとまずい? 五郎右衛門の件でと、言っていなかったか?」
「そうです」
「五郎右衛門に出来の悪いのがあって、返品されるという件なら、君が休んでいた間に、田所課長から報告を受けている。そのことか? なら、もう済んでいるだろう。改めて話を聞く」までもない、と言い終える前に、私は声を投げていた。
「違います、常務」
言葉を遮られたことなどないのだろう。創業家の跡取りは、驚きと憎しみに目を剥いて私を睨みつけた。
「とにかくお座りください」私は右奥の上座の席を手で示す。「田所君も。常務の隣に」と田所も座らせ、私は、並んだ二人と机の角を挟んで斜めに向き合うかたちで腰を下ろした。
「で、五郎右衛門が何だと言うんだ」新田は憤怒の表情だ。
私は、鼻から大きく息を吸い、少し止めてから、ゆっくり口から吐いた。そして、おもむろに口を開く。
「返品される五郎右衛門は、すべて偽物です」
目の前の二人の目が大きく見開かれる。
「何を言っている!」「そんなことはない!」彼らの声が重なった。
「いいですか、部長! あれは五郎右衛門窯から、直送されてきているんですよ。偽物が混じるわけがない!」田所が喚くように言った。今にも立ち上がらんばかりに、椅子から腰を浮かせている。
その勢いに一瞬怯みそうになるが、私はぐっと堪えて、静かに言った。
「いや、間違いなく偽物なんだ」
「そんな筈ないんですって。現物を見たんですか?」
「ああ、見たさ」
「だったら、見る目がないんだ!」
「妻が見たんだ、間違いない!」口が滑った。
新田が怪訝そうな顔をする。「妻? 君は、なにか。奥さんを連れて西京に行ってきたと言うのか」
「いえ、そうではなく。あの、写真を見て」しどろもどろになる。
「とにかく部長。そんな筈はないんです。五郎右衛門窯から送られてきたリストと照合してみれば分かる」田所が言い募る。
が、このリストという言葉を私は待っていた。すかさず切り返す。
「ああ、それは一致するだろうね。リストを作ったのは五郎右衛門窯の桐谷課長だから。桐谷さんが、偽物を混ぜて送ったんだろう? 五郎右衛門窯にも製造品リストがあるだろうから、それと送られてきた納入品のリストを比較したら、数量が大幅に違っているんじゃないか。な、田所課長」
田所は押し黙る。
横で新田が、「そうか、桐谷か!」と大きな声を出した。「桐谷が、仕出かしたことなんだな。偽物を混ぜるとはな」と腕を組み、渋面を作って見せる。
「確かに、桐谷課長がやったことですが」と私は新田の目を見た。「彼一人ではないんですよ。常務」
新田がぎろっと睨んでくる。
その迫力に目を伏せそうになるのを耐えながら私は続けた。
「五郎右衛門の製造法は門外不出で、五郎右衛門窯内部の人間しか知らないことは、ご存じですよね」
新田が、ああ、と頷く。田所は黙ったままだ。
「原材料についても、一般の有田焼とは違うものを使っているんですが、大半は当社が一括買い付けをして、五郎右衛門窯に安く卸しているんですよ。コスト削減のための、協力をしているわけです」
田所がごくりと唾を飲んだ。
「ところが、その五郎右衛門窯専用の原材料が、当社から別の会社にも卸されていたんです。五郎右衛門窯と同じ、佐賀県有田町にある、花緑製作所と奈苗工房です。知っているよな、田所!」
田所は、引き攣らせた顔を小刻みに横に振った。
「桐谷課長は、この花緑と奈苗に五郎右衛門の製法を漏らして、コピーを作らせていたんです。だよな、田所」
田所は顔を下に向けている。小さく呟くような声が漏れる。「わたしは知りません」
「実はな、先週の金曜日に、桐谷課長に電話をしたんだ。その時の会話だ」私はスマホを取りだし、その録音を再生した。
がさごそと音がした後、声が流れ出る。『ああ、すみません。ちょっと、手帳が落ちちゃって。で、桐谷さん、花緑製作所と奈苗工房は大丈夫なんですか?』『田所課長さんからは、どういう話がいっているんでしょう』『今回の五郎右衛門の返品は、その二つの工房のものだと。今後はこんなことはないんでしょうね』『いやあ、申し訳ないです。花緑と奈苗には厳しく言いました。特に奈苗には、検品をしっかりさせますので。田所課長さんにもそのようにお伝えいただければ』私はそこで、再生を止めた。
充分だろう。そういう思いを込めて田所に首を傾げて見せる。
「なんだ、田所君。そんな裏があったのかね!」新田が、声を張り上げた。「一体、どうしてこんなことを」と田所を睨む。
新田に向いた田所の顔は驚愕に歪んでいた。そして、彼は、力なくうつむいた。
田所は今、見捨てられた。そして失意の中に沈んだのだ。
語らぬ田所に代わって、私が答えた。「製品数の確保とコストダウンのためですよ。五郎右衛門は手間がかかる。復活して間もない工房で、職人の数も多くはない。しかし、西京百貨店側は、増産と値下げを求めてきました。厳しい要求で、一時は商談が頓挫しそうになった。ところが、半年前から製造量が増えだし、価格も下がった。田所は、工房が軌道に乗ってきたからだと、社内にも西京にも説明した。しかし、そうじゃなかった。別の工房に造らせ始めたんです。桐谷と田所が手を組んで。そして、その企みを指示したのは、新田常務、あなただ!」
新田が私を睨んだ。その顔はみるみる赤くなる。「何を言い出すんだ、井上!」
私は続けた。
「田所が独断でしたこととは到底思えない。西京が手を引けば、五郎右衛門の拡販体制は暗礁に乗り上げる。田所の業績評価も悪くなる。でも、それだけのことだ。しかし、常務、あなたにとっては違う。五郎右衛門から西京が手を引くということは、ビッグバンプロジェクトにとって国内の販路が失われるということだ。そうなれば、プロジェクト自体が大いに危うくなる。それは即ち、あなたが社長になる望みが断たれるということだ。だから、あなたは、野心の強い田所を動かして、強引な手を使ってでも西京を繋ぎ止めようと目論んだ。大石部長に金を渡して騒ぎを収めようともした。しかし、大石部長は西京百貨店で仕入れの責任者を務めるほどの人だ、目利きは人並み外れていたでしょう。五郎右衛門の一部がコピーであると見抜いていたんじゃありませんか? で、接待の席で、そのことを突かれたんでしょう。あなたは口を封じろと、田所に命じた。田所は駅から跡をつけて、二人を階段から突き落としたんだ。そして、桐谷課長も同じようにしたんだろう、そうだろ、田所!」
田所は己のへそを見るかのように下を向いている。肩が震えている。その隣で、新田は顔を紫色にして私を凝視していた。
「ともかく」新田がそう口を開いた。「これは、社内の話だ。私が処理をするから、これ以上は口を挟むんじゃないぞ、井上」
まだ隠すつもりでいるのか! 呆れた。呆れ果てた。
「社内の話では済みませんよ、常務。二人が重体で、一人が死んでいるんだ!」私は声を震わしながら言った。
だが、新田はふんと鼻を鳴らす。「それは事故だ。誰かがやったって言うなら、それは田所かもしれんがな。いずれにせよ、わたしは知らない」
「この期に及んで、まだ白を切るつもりですか!」
その時だった。顔を伏せていた田所が、突然立ち上がった。
「証拠があるのかよ! 突き落としたっていう証拠が! 五郎右衛門が偽物だ? は、知るか! 桐谷が勝手にやったことだ。あのおっさんが何言ったって、知らないものは知らないんだ!」そう吠えた彼の目は、まるで獣のように、鋭く、悲しい。
開き直ったか。
「仕方ない」私は椅子から立ち上がって、扉の辺りまで後ずさった。そして、首だけ後ろに回して、「二人を出してくれ」と囁いた。もちろん、妻に言ったのだ。
私の背後から、二つの影が湧いて出た。
山之内と大石部長だ。
膝から下が透けている彼らに、「聞いていましたよね。後は任せます」私はそう言って一歩下がった。
二人は、私の脇を抜け、すうっと滑るように、田所たちに近づいていった。
田所も新田も、何が起きたのか、皆目理解できない様子で、首を前に突き出すと、眼を細めたり、瞼をこすったりしている。
「山之内、大石部長、なんでいるんですか? 退院したんですか?」田所が問う。
しかし、いよいよそれが近づいてくると、膝から下が無いのが分かったのだろう、あんぐりと口を開けた。そして、これ以上開かぬ程に瞼を上げて、ぐえ、とも、があ、ともつかない音を喉から発した。
さらに山之内が田所の目の前まで近づくと、立ち上がっていた田所が、腰が抜けたように椅子にへたり込んだ。
「ゆ、幽霊?」
山之内が体に触れそうなほど、寄っていく。
田所と新田は、椅子の上でうずくまるようにして、「わああ!」「あああ!」と悲鳴を上げだした。二人とも半狂乱だ。
「助けて、助けて!」田所が拝むようにして頭の上で手を合わせる。
山之内が言葉を発した。「突き落としたな」低く、くぐもった声だ。
「ち、違う!」田所が叫ぶ。
「突き落としたな」青白い手が伸び、田所の顎の下から首へと沿って動く。今にも締めてしまいそうだ。
田所がのけ反った。「押したのは俺だ、認める! 常務に言われたんだよ。仕方なくやったんだ。俺が悪いんじゃない!」顔の前で掌をぶんぶんと振り回すが、山之内の腕をすり抜けてしまう。
「突き落としたな」山之内の無表情な顔が、田所の鼻につきそうなほど寄っていく。
「お前を狙ったんじゃないんだ。大石部長だったんだよ」隣で新田が、黙れ、と声を上げるが、田所は黙らない。「偽物だって知って、金を要求してきたから、だから口を塞げって! 常務の指図なんだあ!」田所が椅子の上で、繭のように丸まった。
田所が絶叫してから、二分ほどが過ぎた。
山之内と大石部長は消えていた。妻が呼び戻し、二人とも今は私の背中に付いている。
田所と新田は、背を丸めて、頭の上で合わせた手を一心不乱に前後に振っている。
私は、彼らの側まで歩いていき、机の反対側でこちらを向いているパソコンのカメラに向かって頷いて見せた。
程なく、五人の人間が会議室に入ってきた。音羽署の刑事二人、山之内の奥さん、糸井営業部長、そして社長の室井である。
私が事情を話して集まってもらい、隣の部屋で、カメラの映像と音声を視聴してもらっていたのだ。ついでに言うなら、あの生霊二人も、私がそれぞれの病院まで行って、妻に呼び出してもらい、私の背中にくっつけてきたのだ。
「画像は録画できましたか?」一団に私が問うと、「ああ、大丈夫だ」と糸井が答えた。
「それにしても、あの二人はどうしちまったんだ? 突然喚き出したかと思えば、自供を始めてさあ」全員が首を傾げている。ただ、山之内の奥さんだけは、笑いを堪えるように口を結んでいた。
「いや、わたしにも分かりませんが、きっと自責の念から、幻覚でも見たんじゃないですかね」私は素知らぬ顔でそう言った。そして、山之内の奥さんの側に寄り、小さな声で、「映らなかったですよね?」と訊ねると、彼女は、にっこりと頷いた。
妻は鏡に映らなかった。だから、きっとカメラにも映らないだろうと踏んでいた。だが、確信があったわけではないので、ギャンブルではあったのだが、とにかく妙な騒ぎが起らずに済んでよかった。
「まあ、よく分からないが、警察への協力が必要な事態だということは分かったよ」社長の室井が、まだ拝んでいる二人を眺めやる。そして刑事二人に向き直ると、「捜査には、全面的に協力いたします」と殊勝な面持ちで言った。
糸井が二人の肩を叩くと、彼らは電気ショックでも受けたかのように、飛び上がった。そして、しばらく周りをぼうっと見回していたが、刑事が「話を訊きたいので、隣の部屋へお願いできますか」と声をかけると、田所はうつむくように頷いた。が、新田は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
皆がぞろぞろと部屋を出て行く。
新田もその列について行こうとしたが、
「あ、常務さんは、別に話をお訊きしたいので、この部屋でお待ちいただけますか」
刑事に言われて、新田は、むっとした顔を向けたが、言い返さなかった。ふてくされたように椅子に座る。
刑事二人に続いて、田所、室井、糸井と出て行き、最後に山之内の奥さんと私が扉に近づいた時だった。
「あっ」私の肩で声がした。妻の声だった。「まずいぞ。新田が」と続けて声が言う。
私は反射的に新田の方を見た。声が聞こえたのだろう、扉から出かけていた山之内の奥さんも半身を残して同じ方を見た。
椅子に座った新田の背後に、大石部長がいた。頭の上半分が透けて見えない。その透けている範囲はどんどんと下に伸び、見る見るうちに顔が無くなった。
妻の声が言う。「生霊が死霊に変わっていく。身体が死にかけているんだ」
大石の両手が前に伸びた。と、新田の両肩から中に突き刺さる。
新田の体がぶるぶると大きく震え出した。目も口もこれ以上はないというほど、大きく開いている。
そして、次の瞬間、大石の両手は何かを持って引き抜かれた。大石が掴んでいたのは、新田だった。新田の体から、膝から下の透けた新田が、掴み出されていた。
もはや胸から上のない大石は、その腕に新田の生霊を抱きかかえた。そして、大石は、それを抱えたまま、空気に溶けるように消えてしまった。
「向こう側に持っていってしまった」妻の声がぼそりと言った。
椅子の上で、新田の体がぐにゃりと崩れた。
「きゃあ!」「常務!」山之内の奥さんと私の声に、出て行った者たちが、何事かと戻ってきた。
刑事たちの動きは俊敏だった。すぐに新田の脇に駆け寄ると、呼びかけながら、呼吸と脈を確認した。
「息はありますが、意識がない。何があったんです?」
私は、山之内の奥さんと思わず顔を見合わせた。
言えるわけがない。
「それが、急にぐたりとして」
私の言葉に、刑事は訝しそうに私を見てから、隣に立つ山之内の奥さんに、その視線を移す。彼女も頷いた。
刑事はうーんと唸り、「脳卒中かな。とにかく、救急車を」
それから後は、慌ただしく過ぎた。救急車が到着し、新田を搬送する間、刑事たちは部屋の中を確認して回った。だが、もちろん、何も出てくるわけはない。事件性はないと判断したらしいが、念のため新田の診察結果が出るまで、と言って、会議室を施錠させた。
しばらくして、田所の事情聴取が始まり、その日の内に、彼は任意で音羽署に連れていかれた。
山之内は、山之内の奥さんの背中に付いて帰ってもらった。
糸井と私は社長室に呼ばれ、その夜九時過ぎまで、今後の対応策について話し合った。私は、消えてしまった大石部長のことが気になっていたが、西京百貨店の八嶋主任から大石部長の訃報が届いたのは、翌日のことだった。
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