─ 七日目 ① ─
── 本郷三丁目 ──
月曜日。この朝、私は妻の病院には寄らずに真っすぐに出勤した。始業九時の十五分前に事務所に入る。田所はもう出勤していた。
自分の席につき、パソコンを開いて仕事を始めたものの、全く集中できない。田所が気になって仕方がない。
五郎右衛門に関わる今回の件について、大筋は分かった。確かなのは、このままにしてはおけない、ということだ。
だが、問題が二つある。
まず、一つは、裏付けが充分ではないということだ。田所を問い詰めるにしても、突き付けるだけの材料が足りない。言い逃れられたら、それまでだ。
そして、もう一つは、ことが表沙汰になった後の会社へのダメージだ。
「新田常務が絡んでいるのは間違いないじゃないか。でも、それを示すものは何もない。その辺をきちんと掴んでからでないとまずいぞ。幕引きが長引けば、社長派と創業家の対立といった話題を、週刊誌に提供することにすらなりかねない。面白おかしく騒がれたら、五郎右衛門どころかビッグバンプロジェクト全体が潰れちまうぞ」これは、先日、桐谷へ電話した後で、糸井が私に言ったことだ。
私も同感だった。
この件は一気に決着をつけなければならない。
だが、どうやる?
「部長」
声をかけられて顔を上げると、机の向こうに田所の顔があった。思わず頬が引き攣る。
「下に警察が来ているんですが。わたしと部長に話を訊きたいということで」
「君とわたしに?」階段転落の件で何か進展があったのだろうか? 「ああ、分かった」私は椅子から立ち上がり、田所と二人で事務所を出た。
会議室に入ると、すでに刑事たちが座っていた。
先日訪ねてきた二人だった。「すみませんねえ、何度も」と年配の細い刑事が頭を下げた。
「あの、山之内が階段から落ちた夜のことについては、もうお話し出来ることはありませんが」椅子に座りながら、田所がそう牽制した。
私はちらとその横顔を見る。不機嫌なのか緊張しているのか、明らかに強張っている。
「いえ、その件ではないんですよ」
私は、えっ、とまぶたを上げた。
その件ではない? いったい、他に何があるというのか?
刑事は目の前に置いたノートをめくる。「ええと、佐賀県有田町の五郎右衛門窯。西京百貨店の五郎右衛門特別展の製造元でしょうか?」
思いもよらぬ質問に、私は思わず、へっ? と高い声を上げていた。
「どうかしたんですか、それが」横で田所が、突っ掛かるような調子で言う。
刑事は勿体をつけるように間を空けてから、「営業課長の桐谷さん、ご存じですか?」
田所の顔が引き攣ったように見えた。
彼が答えないので、私が口を開いた。
「当社との取引の窓口になっている方ですが、あの、何か?」
「お会いになりましたか、最近?」
「いや、会ったのは一か月くらい前だったと思いますが」私は答えてから、君は、と田所を見る。
刑事たちの視線も、田所に動いた。
「先週、会いました」田所が答える。その声は心なしか緊張している。
「先週のいつです?」
「木曜日です。なんでですか?」
だが、刑事はそれには答えず「ちなみにどちらで?」と質問を重ねる。
「池袋ですよ。一緒に西京百貨店に挨拶に行ったんです。それが、どうかしたんですか!」明らかに苛立っている。
私は、落ち着け、と彼に左手をかざし、「あの刑事さん。桐谷さんがどうかしたんですか?」と訊ねた。
だが、刑事はそれにも答えようとはしない。田所を見たまま更に訊いてくる。「金曜日は会われませんでしたか? 桐谷さんの手帳の金曜日の欄に、N社、田所、とあるんですがねえ」
私は訳が分からずにいた。桐谷の手帳? 何の話をしているんだ?
田所を見ると、彼の頬は僅かに痙攣している。
刑事はさらに畳みかけた。「土曜日はどうです? 金曜、土曜と佐賀に行っていたんじゃありませんか」
「いえ。違います」田所が低い声で答える。
「金曜日は出張なさっていましたよね。行先は佐賀なんじゃないですか?」
田所が大きく息を吸った。「金曜日は確かに、佐賀に行きました。桐谷課長と会いました。けど、その日のうちに、東京に戻りましたよ」
「本当に?」刑事が田所に顔を寄せる。
「ちょっと待ってください」私は横から割って入った。「何の質問なんですか、これは? きちんと説明してもらえませんか」
身を乗り出していた刑事が、すうっと椅子の背に体を戻した。
「桐谷さんが、お亡くなりになられました」
「えっ!」私は寸の間絶句し、「いつです?」
「土曜の夜です」
「事故ですか?」
「どうして事故だと?」刑事が、鋭く私の目を覗き込んできた。
私は一瞬ひるんだが、「あなた方が、こうして調べているからですよ」
刑事は、ああ、と頷き、「ごもっとも。ええとですね」とノートに目をやり、「高台の崖から、転落したそうです。昨日の朝、発見されました」
刑事の説明によれば、故人の手帳と名刺ホルダーから、田所の名が浮上し、佐賀県警から問い合わせてきた、ということだった。
「桐谷課長が、崖から・・・」私はにわかには飲み込めず、手を口に当てて黙り込んだ。
「奇妙ですよね。山之内さんと大石さんが階段から落ちて、次に製造元の方が崖から転落。偶然と思われますか?」刑事は幾分前屈みに上体を乗り出し、両肘を机についた姿勢で、眼をぎょろぎょろと私と田所に向けた。
「参考までに、土曜日の夜どこにおられたか、教えていただけますか?」
私と田所は順に答えたが、二人とも家にいた、証明できる人間は、私は娘だけ、単身赴任中の田所は誰もいなかった。
それから、幾つかの質問をして、刑事たちは帰っていった。
田所も私も、黙って事務所に戻り、それぞれの席に散った。
それから三十分ほど経った頃、私は鞄を持って事務所を出た。
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