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─ 一日目 ① ─

── 千葉 ──


 いつものように、私と妻は六時にベッドから出た。私は身支度を整え、髭を剃る。その間に妻は、朝食の用意をする。

 洗面所から出てきた私は、食卓に並べられた皿に目をやり、「たまには焼き鮭とか食べたいなあ」と呟きながら椅子に座った。

「いただきまーす」ごはん、みそ汁、納豆、目玉焼き、お新香。いつも通りのメニューをいつも通りの順番で食べ終え、「ごちそうさま」と立ち上がって、食器をキッチンに持っていく。


 あれ? 

 妻がいない。いつもなら、娘の弁当を作っているのだが・・・。今日、弁当、要らないのか?

 気になって、寝室へと戻る。妻は布団にもぐっていた。

 え? 

 近づいて覗き込む。布団に丸まっている妻の顔が赤い。

「熱あるのか?」小声で訊くと、「すこし」と返事がある。

 手を伸ばして、額に当ててみる。

 わっ! 少しも「すこし」ではない。

「体温計持ってくる」

 私は居間に戻って、薬箱やらサイドボードやらを引っ掻き回した。一通り探し回ったが見つからず、もう一周同じルートで探し直し、結局は最初に覗いた小物入れの中にそれを見つけて、寝室に戻った。


 三十八度八分。

 やはり高かった。頭の中に、「コロナ」の三文字が浮かぶ。咳はしていないし、くしゃみも鼻水もない。が、症状はそれぞれだと言うから油断は出来ない。

 確か、抗原検査キットを買っておいたはずだ。私は再度居間に行くと、今度は一回で、薬箱の中にそれを見つけた。


 果たして、結果は陰性だった。

 ほっ、と小さく息を吐く。

 だが、いや、まて、とすぐに気を引き締めた。症状が出てすぐだと、検査が陰性の場合もあると聞く。これはきちんと受診しないと駄目だ。今日は休みをとって、医者に連れて行こう、と決めた。

 食卓の上に、会社から渡されているパソコンを開き、立ち上げる。セキュリティー強化のため、三段階のコード入力が必要で、こんな時には煩わしいことこの上ない。やっと開いた画面で、上司と部下に、簡単に事情を記したメールを送り、勤怠管理ソフトを開いて、有給休暇を申請する。

 これで、よし、と。

 次は、ええと・・・医者だ、医者。

 医者に診せるには・・・健康保険証、薬手帳、あと診察券。また探すのにてこずったが、どうにか、寝室の隅に仕舞ってあった妻の手提げバッグの中にこれら一式を見つけ出した。


 七時二十分頃になって、階段をドタバタと降りてくる音が響いた。

「なんで、起こしてくれないの!」娘の声だ。私が寝室から出ていくと、「あれっ、お母さんは?」

「寝てる。熱あるんだ」

「えっ。そうなんだ」と不機嫌を引っ込める。「高いの?」

「八度八分」

 娘は顔を曇らせた。「大丈夫なの?」

「あとで医者に行く。そういうことだから、弁当作ってないんだ」

「弁当? あ、いいよ、大丈夫。なんか買って食べるから、お金ちょうだい」と手を出してくる。

「ああ、そうか」私は寝室に戻って財布を取ってくると、「はい」と五百円玉を一つ渡した。

「えっ?」娘がきょとんとする。「遠足のおやつじゃないんだから。お昼買えないって、これじゃ」

「そうなのか」学校の購買部だろう。五百円も出せば吐くほどパンが買える。私が高校生の時はそうだった。だから、その感覚で渡したのだが、物価はそれほど上がっていただろうか? 仕方なく、代わりにと千円札を差し出す。

 と、娘は五百円玉を握ったまま、もう一方の手で千円札をぱっと引き抜いて、「ありがとう。じゃ、行ってきまーす」とバッグを肩に掛けた。

「おい」千五百円はぼったくりだろう。俺の昼飯だって、コンビニで七百円を超えることはないのに。言う前に、娘は行ってしまった。

 なんだよ、高校生の分際で。心の中でもう一度ぼやくが、いやいや、そんなことを気にしている場合ではない。

 妻を病院に連れて行かなくては。


 コロナの分類が二類から五類に変更されてから久しい。が、まず保健所に連絡してから指示に従って発熱外来へ、というニュースで散々聞かされた昔の手順しか頭に入っていない。はて、いまはどうすればよいのだろう。普通のインフルエンザと扱いが同じになります、とテレビは言っていたように思うけれど・・・。

 スマートフォンを手に取り、検索を始める。記事が出たが・・・読めない。目はいい方だ。しかし、四十を過ぎてから老眼が始まり、このごろでは、この小さな画面の文字はかなり厳しくなっている。指で文字を拡大するが、そうすると、記事のような長い文章は非常に読みづらい。

 ええい、くそ。

「メガネ、メガネ」苛々と呟きながら、老眼鏡を探す。だが老眼鏡というものは、往々にしてどこかに置き忘れるもので、まったく見つからない。散々探した挙句、玄関の靴箱の上に置いてあるのを発見したときは、「あったー!」と小さく叫び、「なんで、こんなとこ置くんだよ、馬鹿か!」と己に毒づいた。


 ともかくも、無事記事を読み、必要な情報を手に入れた私は、まだ何もしていないにも関わらず、少し落ち着いた心持ちになる。

 記事によれば、保健所への連絡は必要なくなったし、直に病院に行けばいいということである。が、病院によって対応が異なるので事前に連絡をしてから行くようにとの記載もあった。

 妻の手提げバッグから、先刻発見した、診察券をまとめて入れてあるポーチを再度掴み出し、中を漁った。歯科、眼科、内科、耳鼻科の各医院の診察券と最後に、少し離れた総合病院の診察券があった。随分と、色々な医者に世話になっているものだ、と妙な感心をする。

 私は総合病院の診察券を引き抜いて記載してある診察時間を確認した。私も二度ほど行ったことがある病院で、大抵の設備は整っているので安心だ。

 受付開始時間は九時となっている。まだ一時間以上あるが、すぐに出られるようにと、そわそわと動き出す。


 まずは、寝室に入り、眠っている妻の額にもう一度手を当てた。相変わらず高い。それはそうだ。さっき熱を計ってから、三十分ほどしか経っていないのだから。次に、着ていくものを考える。まさか、寝間着のまま連れてはいけない。クローゼットを覗いてみた。しかし、何を着させればいいのか、さっぱりだ。

 気持ちが急いている。いかん、少し落ち着け。

 着ていくものは、自分で選ぶだろう。子供じゃないんだから。

 ええと、次は? 考えながら、寝室を出る。

 居間とそれに連なるダイニング、キッチンを見渡す。妻がいないと、随分としんとしている。

 あっ。そうだ、私の使った食器がそのままだ。

 とりあえずシンクの前に立ち、スポンジに洗剤を垂らし食器を洗いはじめる。食洗機は使わなかった。食器の数が少なかったし、何より、食洗機の操作がよく分からないのだ。

 食器を洗い終わり、布巾で拭いて、食器棚に収める。と言えば、さもスムースにことを為したように聞こえるが、布巾を見つけるのに引き出しと扉を幾つも開け、拭いた食器をどこに入れるのかに迷い、たかが食器を片付けるために随分とキッチンをうろついていた。

 そして、ふと気づく。あっ、ゴミの日だ。


 常日頃、ゴミを集積場に出すことだけは手伝っていたので、と言っても出勤のついでに持っていくだけなのだが、そのおかげで、ゴミ出しの曜日と回収車の来る時間はしっかり覚えていた。

 時計を見る。ぎりぎりだ。

 シンクの下の扉を開く。

 えっ、どこ?

 あの見慣れたゴミ袋がない! 市指定の緑色のゴミ袋。確か、前はここに積んであったのに。隣の扉、引き出しと片端から開けてゆく。が、見つからない。タイムリミットは刻々と迫っている。もう、回収車が来ているかもしれない。

 落ち着け! 

 私は自分を叱咤した。これは、焦っているときのよくあるパターンに嵌っているに違いない。探し物は、大抵は最初に探したところにあるのだ。

 私は、一度深呼吸をしてから、シンクの下の扉の中をもう一度眺めた。空き瓶、空き缶、新聞紙、厚紙・・・全て、分別回収するものだ。

 うん? 

 新聞紙を入れた紙袋の下に、これは・・・あった! 何のことはない、重ねて置いてあっただけのことだった。

 急いでゴミ袋を取り、広げると、それを持って、各部屋を回ってゴミ箱の中身を空けて回った。そして、最後にキッチンの生ごみを詰めると袋の口を結び、玄関から走り出た。


 集積所にゴミ袋を置くと同時に、低いエンジン音がして、角からゴミ回収車が現れた。

 はあ、間一髪だ。

 ゴミが回収される様を呆けるように眺めていた私は、回収車が走り去ると同時に我に返った。

 いかん! ぼうっとしている時ではない。

 家に戻る。茶の一杯も飲みたいところではあったが、時計を見ると九時五分前。ここは水で我慢して、妻の診察券を手に電話機の前に陣取った。

 九時ちょうどに病院に電話をかける。電話はすぐに繋がり、妻が高熱を出し、受診したい旨を伝えた。一分ほどのやりとりのあと、電話を切る。

 丁寧な説明ではあったが、結論から言えば断られた。かかりつけ医をまずは受診し、そこが総合病院での受診が必要だと判断したら、紹介状を持ってこい、と言われた。いつからそんなルールになったのか知らないが、総合病院は基本的に紹介状が無ければ、救急搬送以外は受け付けない、そういうことらしい。


 私は、近所の内科医院の診察券を取り出し、電話をかけた。混雑しているらしく、何度も話し中で、繋がったのは十分も経ってからだった。

 症状について幾つか訊かれた後で、「そうですね、コロナの疑いがありますねえ」そう言われ、え、まさか自宅待機か? とドキリとした。だがそうではなかった。

「五類にはなりましたけど、発熱のある方の診察時間は分けているんですよ。基本的には予約制をとっていまして、十一時、ええと・・・二十分に来られますか?」

「十一時二十分ですね。はい、大丈夫です」

 そして、「井上です。井上香奈」と妻の名を告げて、電話を切った。

 ふうん、そんなふうにしているのか。五類になっても、まだ厳重にやっているんだなあ。まあ、いつまで続くものでもないのだろうけれど・・・。そんなことを考えながら、私は茶を淹れようと、電気ポットに水を注いだ。



── 池袋 ──


 西京百貨店、池袋本店。九階の催事場では、特別展の設置作業が終了し、責任者の八嶋主任が黒縁眼鏡の奥の眼を神経質そうに動かしながら、開店前の見回りを行っていた。

 昭和の初めに途絶えてしまった、幻の白磁と言われる『五郎右衛門』の復活は、ニッタ商事が手掛ける「日本伝統工芸ビックバンプロジェクト」の目玉の一つで、国内での販売は西京百貨店グループが一手に担っている。

 五郎右衛門窯の白磁はその透明感や、独自の鮮やかな発色の青、緑、赤、黄の絵付けから、磁器の印象派とも言われ、国内外から注目を浴びている。池袋本店での特別展は、今回が二回目だが、客足は前回を大幅に上回っており、高額な皿や茶碗などが、連日、飛ぶように売れていた。

 おや? 八嶋の眼に、台に立てて置かれた大振りの八角皿が留まった。隣を見ると、同じような大きさの丸皿がある。どちらも、白磁の白の上に鮮やかな色の文様が載っている。

 しかし。

「色が・・・くすんでないか、これ?」言いながら、八角皿に近づく。黒縁の眼鏡をクイと押し上げてから、さらに顔を近づけた。

「主任、どうかなさいました?」年配のベテラン店員が訝るように声をかけた。

「あ、西内さん。今日、ニッタ商事の山之内さん、来てます?」

「ニッタの方ですか。昨日はいらしてましたけど、今日はどうかしら・・・。ちょっと、事務所見てきます」

「すみません。あ、それで」と小走りに行く店員の背中に向かって、「もし、いなかったら、仕入れの大石部長を呼んでください」

「はーい」と遠くから返事が返ってきた。


お読みいただきましてありがとうございます。

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