─ 四日目 ② ─
── 御茶ノ水 ──
スタッフステーションで、待合所にいるようにと言われてから五分。小柄でゆったりとした服装の女性が歩いてきた。私よりもだいぶ年嵩に見えるその女性は、きちんと化粧をしている。
「ニッタ商事の方ですか」と私を見る。
「大石部長の奥様でいらっしゃいますか」
「昨日見えられた方かと思ったら、違うのね」と眼をしばたたく。「昨日はもうちょっと若い方でしたわ」とちょっと上を見て、「そうそう田所さん、課長さんでしたよねえ。名刺を頂いたんですけれど」
私は慌てて自分の名刺を取り出すと、彼女に差し出した。「井上と申します。連日お伺いして申し訳ありません」
「あら、部長さんですか。やっぱり、一昨日の晩は主人と一緒に?」
「いえ、わたしは同席していなかったのですが。あの、大石部長のお具合はいかがでしょうか?」
「それが、まだ意識が戻らないんですよ」と下を向く。顔が陰になると、途端にやつれた表情が際立った。
「そうなんですか」大石部長も山之内と同様に意識がないのか。これでは、話の訊きようがない。「あの、昨日来た田所は、何か話しましたか?」我ながら、何とも不審な問いをしたものだ。もっと、自然な話の持っていきようがあったろうに。
案の定、大石夫人は訝しむように眉根を寄せた。
私は急いで言い繕う。「食事をご一緒した経緯とか、うちの者もその階段で落ちたことなど、お伝えしたでしょうか」
「ええ、伺いましたよ。おたくの社員の方も、やっぱり意識が無いそうですね。よほど酷い落ち方をしたのね、きっと」夫人は深く息を吐き、「でも、どうして・・・ええと落ちた方」
「山之内ですか」
「そうそう、山之内さん。主人と一緒に落ちるようなことになったんでしょうかねえ。それがどうにも不思議でね。昨日、課長さんにも訊いたんですけどねえ」
「田所は何と言ってました?」
「主人とは駅で別れたので、なぜ神社に行ったのかは分からないって」
「そうですか」と頷いてから、あれ、と思う。何かが引っ掛かった。寸の間考え、その正体が分かった。「落ちた場所が神社と言ったのですか、田所は?」
「ええ。警察からもそう聞いていますよ。ええと、服部神社です、確か」
私は記憶を手繰った。私も落ちた場所が神社だとは聞いた。が、誰から? そうだ、山之内の奥さんからだ。だが、彼女は田所から、場所のことは訊かれなかったとも言っていた。そして、私が田所と話したとき、彼は、どこの階段かは分からない、警察が教えてくれなかった、そう言っていた。
山之内の奥さんからも警察からも場所を聞いていない田所は、なぜ神社と知っていたんだ?
「どうかなさって?」
夫人の声に、私は、はっと我に返った。「ああ、すみません。ちょっと考え事を」
その時、夫人が不意にふらついた。私は、咄嗟に腕を伸ばして彼女の腕を支えると、壁際の長椅子に彼女を座らせた。
「ごめんなさいね。あまり眠っていないものだから」夫人は数回瞬くようにしてから額に手をやる。
「看護師を呼んできますから、座っていてくださいね」私はそう言い置いて、スタッフステーションに走っていき、看護師を連れて戻った。
看護師は手慣れたもので、夫人の手を取って脈を計り、どこからか車椅子を持ってくると夫人を座らせて、階下の診察室へと素早く移動させた。
行き掛かり上、ではこれで、とは言えない。夫人に付き添って診察室まで行き、扉の前で待っていると、やがて看護師が出てきて、「疲れだということです。今、点滴をしていますので、三十分くらいで終わります」
仕方ない。ここは待つしかないだろう。
と、「トイレに行け」耳元で声がした。妻だ。
振り向いたが、姿はなかった。言い合っても仕方ないと、もう充分に分かっていたので、私は素直にトイレに行き、個室に入った。
「さあ、出てきていいぞ」
すると、背後に気配を感じた。振り向くと妻がいた。
「どうして、後ろから出てくるんだよ」
「そういうものだから、仕方ない」
だがそこで、また、ぞくりとした。
えっ?
振り返る。
「わっ!」
男がいた。
恰幅の良い六十男が、薄い寝間着のような姿で、私を見下ろしている。反射的に足元を見る。やはり膝から下が透けている。
「お、大石、部長」
のけ反っている私に、大石は片手を挙げる。挨拶のつもりか。
私は顔を妻に向けた。
「君が連れて来たのか!」
「話を訊きたいだろう」
「あのなあ」踏み出した途端、足が便器の端にぶつかり、よろける。なにしろ、一人でも狭い個室の中に、三人がいるのだ。幸いなのは、私以外の二人は、床に足を着けてはいない、つまり、立ち位置を選ばないということだ。便器の上だろうが、パイプの上だろうが構いはしない。
私は、どうにか真っすぐに立って、体を安定させると、左前方と右上方の二つの顔を交互に見た。
「さあ、質問しろ」妻が言う。
「ええと。では、大石部長」と右上を見る。
「なんでしょうか、井上さん」何やら、なよなよとした言い様だ。いつもの威勢のよさがまるでない。
「あの、大石部長、ですよね?」つい確認してしまう。
「はい。大石です、井上さん」
どうにも調子が狂ってしまうが、とにかく訊くことは訊かねば。「五郎右衛門について訊きますが、色合いがおかしいと思われましたか、部長は?」
「はい。少し」
「この件について、山之内は何と言ってました?」
「手作りなので、ばらつきが出るものだと説明されました」
「部長は納得されたのですか?」
「ああ・・・はい」
返事に間があった。妙な間だった。
「一昨日の会食で、田所と新田とはどのような話をなさいました?」
「・・・」
「あの、田所はどう説明していましたか、色について」
「山之内さんと同じです」
「田所は、あなたに金を渡したんですか」
「・・・」
「五郎右衛門に偽物が混じっていたということはありませんか?」
「・・・」
しばらく待ったが、大石部長は口を開こうとしない。
「会食が終わってから、二人でどこに行こうとしていたんです?」
「ワインバー」
「ワインバー? なんで神社に寄ったんですか?」
「近道だから」
なるほど、通り抜けようとしたのか。「で、どうして階段から落ちたんです?」
「上から降ってきたんです」
「何が?」
「山之内さん」
「山之内が降ってきた? 誰かが、山之内を押したんですか?」
「・・・」
「階段から落ちたことは、五郎右衛門に関係あるんですか?」
ふっ、と大石が消えた。
私は、狭い個室の中を見回した。「どこ行った?」
「お前の背中に付いている」妻はそう言うと、私の背後を指さした。
私は、自分の背中に手を回し、やたらと擦ったり叩いたりしたが、大石は現れなかった。
「ここまでだな。戻ろう」
妻に言われて、個室を出る。
「大石さんは、ちゃんと俺から離れて、夫人の方へ戻ってくれるんだろうな」
そう言って振り返った時には、妻も姿を消していた。
── 有田 ──
田所は、有田駅からほど近い喫茶店で冷めたコーヒーをちびりちびりと口に運んでいた。腕の時計を見る。約束の時間はとうに過ぎていた。
ガランとカウベルが鳴った。田所は首を伸ばして戸口を見ると、息を吐いてカップの中身を飲み干した。
田所の前に男が座った。くたびれた背広の上に載った狸顔が、皺を寄せて愛想のいい笑みを浮かべている。「いやあ、どうも」
「遅いですよ、桐谷課長」
「申し訳ない。奈苗工房で話が長くなっちゃったもんですから」
「野尻専務ですか。大丈夫なんでしょうね。今回の返品はほとんど奈苗の物ですよ」
店員が近くに来たので、田所は話を中断する。
桐谷が紅茶を注文し、田所もコーヒーのお代わりを頼んだ。店員が離れると、田所が話を再開した。
「オリジナルの見本は置いてあるんでしょう。どうして、検品で弾かないかな、あんな色の悪いものを。まさか、奈苗で作るものが全部、あんなじゃないんでしょうね」田所の口調はきつい。
が、それを聞いている桐谷はのんきに鼻の頭を掻いている。その人を食った態度が田所の感情を逆なでる。
「出来ないなら、切るしかないですよ! あんな問題起こされたんじゃ、この先、やっていけない!」田所の声が高くなる。
「分かっていますよ、課長」と息子と言ってもおかしくないほどの歳の相手に、桐谷は、まあまあと両の手を動かす。聞かぬ幼子を宥める年寄りのようだ。
「切るのは簡単ですが、そうなると数量が確保できませんよ。西京には月産量を約束してあるんでしょう。それに五郎右衛門窯だけじゃ、利幅も減ってしまいますしねえ。なにせ、卸値が高いから。それじゃ、困るでしょうに、そちらも」
「なんだそれは! 脅しているつもりか!」
桐谷が、しーっ、と言うように、口の前に指を立てた。
「そんなつもりじゃありませんって。野尻専務もこれからはこんなことはないって、約束しましたから」
「約束って」田所がなんとか荒い息を抑える。「約束して出来るなら、最初からやれよ」
「まあ、窯が違いますからねえ。どうしても、オリジナルと全く同じってわけには、いやいや」田所がまた声を荒らげそうなのを見て、慌てて手を振る。「大丈夫ですよ。数を作って、検品をしっかりすれば、それなりに出せますから」
「花緑製作所は? あっちも大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫です。社長にきちっと言ってありますから」
店員がコーヒーと紅茶を載せたトレイを持ってやってきた。二人はまた口を噤む。配膳した店員が去っていくのを、目で追ってから、田所は低い声で言った。
「いいでしょう。ま、とにかく、現場を確認します」
「あ、五郎右衛門窯に行きますか?」
田所が目を剥く。「五郎右衛門窯は何も知らないんだ。僕がいきなり行ったりしたら、変でしょう! 奈苗と花緑ですよ。今からなら、二か所回れるでしょう。この目で確認しないことには、安心できない」
だが、桐谷は手を横に振った。「いや、それは止めた方がいい。ニッタさんに製品を納めているのは、上層部しか知らないんですよ。工房にいきなり顔を出したりすれば、あれは、どこの人間だってことになって、それこそ、どう話が漏れるか分かったもんじゃない」
そう言われてしまうと、田所も言い返せない。苦い顔になる。
「しかし、工房を見ずに帰ったのでは、ここまで来た意味がない」
「だったら、五郎右衛門窯にどうぞ。特別展の開催を祝して、明日、工房の慰労会をやることになってましてね。丁度いい。ニッタ商事の課長さんが来てくれたとなれば、皆喜びますよ。どうです。今日は工房をご覧になって、明日の夕方、慰労会に参加して。ね、せっかく佐賀まで来たんだから、いいでしょう。昼間は、車で観光地を案内しますから」
だが、田所は一人で盛り上がっている桐谷に、軽蔑するような眼を向けた。「遊びに来たわけじゃないんですよ。今日はこれで帰る」と田所はコーヒーを一口啜って、立ち上がった。
桐谷が、椅子に座ったまま、田所を見上げる。「そうですかあ。そりゃあ残念だあ」
田所は、苛ついた表情で席を離れかけたが、ふと足を止めて振り返ると、桐谷に顔を寄せた。
「西京の八嶋主任からは、何と言って呼ばれたんです?」
え、と桐谷は目を上げ、「昨日、説明したでしょう。製造元の人に直接話を訊きたいからだって」
「製造量と価格の話を訊きたい、そう言われたのでは?」
「いやいや、違いますよ」
「五郎右衛門窯に今度来てくださいと言ったのは、なぜです?」
「え、言ったかなあ」
「言ったじゃないか!」田所は息を飲み込むようにし、声を抑えると、「まさか、八嶋主任を抱き込もうなんて、考えているんじゃないですよね」
桐谷は何も答えぬまま、首を傾げて見せた。その口元が僅かに緩んだように、田所には見えた。
田所は前に屈めていた上体をまっすぐに伸ばすと、桐谷を上から一睨みして、店を出て行った。
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