─ 四日目 ① ─
── 千葉 ──
朝五時半。はっとして目を覚ました。いかん、炊飯器をセットしておくのを忘れていた。慌ててベッドから飛び出し、キッチンまで小走りに行く。
あっ。
炊飯器が蒸気を上げている。近寄ってパネルをのぞき込む。炊き上りまであと十五分だ。娘がセットしておいてくれたのか。頼りになるもんだな。
ほっとして寝室に戻ったが、ここで二度寝は危ない、そう思い起きることにした。ワイシャツに着替えながら、今日の予定を考える。
朝飯が済んだら食器洗って、会社にメールして、病院に行って妻の様子を確かめて・・・あ、待てよ、その前に洗濯しないと。では、すぐに洗濯機を回して、それから、朝飯の支度だな。あ、ゴミの日だ。危ない、忘れるところだった。じゃあ、洗濯機回して、朝飯の用意をして、食べ終わったらゴミ出して・・・。
考える内に、私はくすりと笑っていた。「それにしても、家事は色々あるなあ、やることが」呟きながら着替えを終え、寝室から出ていくと、娘がキッチンに立っていた。
何のことはない、朝飯はまた娘が作ってくれた。朝飯を食い終わると、洗濯機がピーッピーッと呼んだ。洗面所に入って、脱水の終わった洗濯物を乾燥機へ放り込む。もちろんパンパンと皺を伸ばしながら。
「食器洗いはやっておくから、小百合は学校へ行きなさい」と、洗面所から声をかけると、「ゴミはわたし出しておくから」そう言って玄関に行きかけた娘が、ゴミ袋を手に戻ってくる。「お父さん、板についてきたね」にっとして、出ていった。
「板についてきたかあ」苦笑に顔が歪む。いやいや、まだまだ、と言いながら妻が出てきそうな気がして辺りを見回したが、この朝は出てこなかった。
食器を洗い、棚に戻し、今日も遅れて出社する旨の一報をメールし、ついでに昨日の午後のメールをチェックしているうちに、衣類の乾燥が終わり、洗濯物を取り出して畳む。
よし。ひとまず片付いた。
しかし、すっきりとした気分も束の間、病床の妻を思うと落ち着かず、会社に行って田所と話すことを考えると、さらにずんと気が重くなった。
── みつわ台 ──
妻は相変わらず、機械に囲まれて眠っていた。
「あの、容態はどうなのでしょう?」病室に入ってきた看護師に訊ねると、
「落ち着いてますよ。熱もそれほど高くないですし、あ」と点滴を交換する手を止め、「井上さん」と妻に呼びかける。
「あの?」私が不安な顔を向けると、看護師は、「目を開けられたようなので」と妻の近くに顔を寄せ、「井上さん」とまた呼びかける。
妻の目がうっすらと開いた。眼球が左右に動いている。
「ご主人がいらしてますよ」
口に被せた透明なマスクが、僅かに動く。何か喋ったのだろうか。だが、声は聞こえなかった。マスクが白く曇っていて、唇も見えない。
妻はまた目を閉じた。
「薬が効いていますからね。今はまだ」看護師が申し訳なさそうに言う。
それからしばらくして、担当医が回診に来た。その間、私は病室の外へ出されたが、出てきた医師は、「快方に向かってますよ。容態は安定しているし、薬もちゃんと効いているようなので、ま、あと少し様子をみて、順調であれば強くない薬に出来ます。そうすれば、ちゃんと起きて話せますので」そう言って、私を安心させるように頷いた。
病室に戻った私は、改めて妻の顔を見詰め、「もう、おとなしくここにいろよ」と小さく言ってから、そこを出た。
── 本郷三丁目 ──
十一時前に本社に着いた私は、事務所に入るとまず自席に鞄を置き、よし、と気合を入れてから、田所の席に向かった。
昨日の夜も、そして、出勤する間も、ずっと、何を問うか、どう訊いたらどう答えてくるか、そんなことを考え続けていた。が、結局は、分からん、なるようになれだ、と開き直るしかなかった。
田所は席にいなかった。
「課長は?」庶務の女性に訊ねる。
「出張です」
「出張?」こんな、ごたごたしているときに何処へ?
「五郎右衛門窯に行かれると聞いてますが」
「五郎右衛門窯って、佐賀ってこと?」
「はい」
「泊まり?」
「いえ、日帰りと聞いてます」事務的にそう答えた時、机の電話が鳴って彼女は受話器を取り上げた。
私は、溜息を吐きながら田所の机から離れた。せっかく入れた気合が抜けたのが半分、田所を問い詰めずに済んだ安堵が半分だった。
「あ、部長」庶務の女性の声が背中を追ってきた。振り返ると、「すみません」と受話器を手で押さえながら、意味ありげに頷く。どうかしたのか、と近づくと、
「あの、下に警察の方が来ています」小声で言う。漏れ聞いた周囲の数人が私の顔を見た。
「わたしを訪ねて?」
「いえ、課長のところに。出ていると伝えたんですが、上司の方はいないかと言うので」
「そうか。分った。会議室を取ってくれるかな」
彼女は頷くと、電話の向こうに答えながら、パソコンのキーボードを叩いた。
一階の受付に行くと、二人のスーツ姿の男が待っていた。一人は私と同年代と思しき痩せた中背の男で、もう一人は三十前半といったところか、胸板が厚く背も高い。本当にコンビで動くものなのだな、と変に感心している私に、彼らは音羽署の澤野と南田だと名乗った。身分証は見せてこなかった。代わりに、澤野と名乗った年かさの方だけが名刺を渡してきた。本物は警察手帳を見せないんだな。と少しがっかりする。
私は、「ま、どうぞ」と、二人をエレベーターに案内し、五階の会議室へと通した。
そこで名刺を渡すと、澤野はそれをまじまじと眺めてから、「ああ、部長さん自ら申し訳ありませんねえ」と人懐っこい笑みを浮かべる。
机を挟んで席に着くと、澤野は鞄からノートを取り出して広げた。やっぱり警察手帳じゃないんだ。
「山之内さんが階段から転落された件につきまして、お訊きしたいことがありましてね。昨日、田所課長さんから電話で少し伺ったのですが、追加でもう少し・・・課長さんは、外出されておられるんですか?」
「ええ、今日は出張しています」
「出張ですか。どちらへ?」
「取引先ですが」なぜそんなことを訊くのか、と問う前に澤野は次の言葉を挟んできた。
「部長さん、ええと、井上さんは、一昨日の夜は皆さんと一緒じゃなかった、わけですね」
皆さん、とは、大石部長の接待に参加したニッタ商事の三人を指すのだろう。どうせ、なぜ部長のお前が参加しなかったのだ、と訊かれるに決まっている。私は、妻が肺炎で一昨日は休みを取っていたのだ、と訊かれる前に説明した。
澤野は何やらノートに書きつけた後、顔を上げ、「入院されているんですか。それは大変ですねえ」といかにも同情したような顔を向けてきた。
「入院したのは、夜なんですけどね。救急車呼んで」
「ちなみにどちらの病院です?」
「千葉東総合病院ですけど。あの、なぜ妻の病院を」
「いえいえ」刑事は気色ばむ私の前で、両の掌を向けた。「お気を悪くしないでください。参考までに伺っているだけです。色々と、細かいところを訊いておかないと、後になって、またお訊きする必要が出てきたりするものですからね」そして、ノートに何かを書きつけた。妻の病院名に違いない。後で裏どりでもするつもりなのだろうか。
「ところで、その一昨日の会食ですが、どういった趣旨のものだったんでしょう?」
「山之内の事故と接待が何か関係していると言うのですか?」
「接待、ああ」澤野が頷く。「やはり接待だったんですね。大石さんは」とノートに視線を落とし、「西京百貨店の仕入れ担当の部長さんでしたよね。この会社のお客さん、ですね」
「そうです」
「重要な人なんでしょうねえ。常務の新田さんまで同席するほどだから」
「ええ」
「で、接待の目的は、何だったんです?」澤野の目が細くなる。
「目的って言われても。うちは商社ですから、食事に取引先を招待することは日常茶飯事ですよ」
「しかし、前日に急に決まったらしいじゃないですか。西京百貨店の方に聞いたんですがね。なんでも、同じ日に社内の宴会があったそうで、大石部長さんも出席予定だったのが、突然キャンセルなさったってことですよ」
別に隠す理由はない。私は頷いた。「確かに、決まったのは前日でしたけど」
「何かトラブルがあったんじゃないですか、西京百貨店との間で」
なるほど、それを訊きに来たわけか。
警察は西京百貨店にも行っているに違いない。もし、そこで五郎右衛門の件を聞き込んでいたとしたら? ここで隠したなら、要らぬ疑惑を招くことになりかねない。私は、警察の嗅覚に恐れ入りながら、率直に話すことにした。
「西京百貨店で五郎右衛門特別展というのをやっているのをご存じですか?」
「五郎右衛門? いいえ」刑事が若い方を見るが、彼も首を横に振った。
「磁器です。有田焼とか九谷焼とかご存じでしょう」
「ああ、皿や茶碗ですか」
「そうです。そのブランドの一つなんです。当社が西京さんに卸しているんですが、ちょっと、見た目の問題で、行き違いがありましてね」
「行き違い、と言いますと?」
「絵付けの色が、発色が悪いとか、ま、そう言ったことで」
「絵付けの色が悪かったんですか?」根掘り葉掘り訊いてくる。
私は話したことを後悔し始めていたが、もう途中では引き返せなかった。結局は大石部長の接待に至るまでの経緯の全てを話す羽目になった。
刑事は私が話す間走らせていたペンを止めると、ノートから視線を上げた。
「なるほど。五郎右衛門の色の具合にばらつきがあったが、大石部長さんが大事にならないように取り計らってくれた。それで、お礼に一席設けた。そういうことですね」
「はい」私は項垂れるように頷いた。何やら言い知れぬ敗北感がある。
「しかし、妙だなあ」刑事が首を傾げた。
「はあ?」
「そういう偉い方の接待ならば、その、銀座とか赤坂とか、あるじゃないですか。茗荷谷の店に行ってみたのですがね。料理は美味いのだろうが、地味な店でしたよ」
それは、私に訊かれても知らない。手配したのは山之内だし、何しろ私はその場にいなかったのだ。だから、私は堂々とそう言った。
刑事は、分かりました、と頷くと、ところで、と話題を変えた。
「弁天堂大学病院へ行かれたそうですね? どうして入院先をご存じなのですか?」
「は?」私は首を傾げた。何のことだ?
「大石さんの奥様が言っていたのですがねえ、ニッタ商事の部長さんが見舞いに来たって」
「いいえ」私は頭を振って否定した。「大石部長がどこに入院されたのか聞いていませんから」
刑事は舌打ちでもしたように、一瞬、頬をひきつらせた。「部長じゃなく、課長だったのか?」と声を潜めて、若い刑事と顔を見合わせると、改めて私に向かって「田所課長さんからは、何か聞いておられますか? 大石さんの病院に見舞いに行ったとか?」
「いや、聞いていません」
「そうですか」と頭を掻き、「田所さんは、何時ごろお戻りでしょうかね?」
「今日は会社には戻ってきません。明日、あ、土曜日か。月曜日に出社すると思いますが」
「月曜か。分りました」刑事はノートを閉じて鞄に仕舞い、「お時間頂いて、ありがとうございました」と立ち上がる。
私は腰を上げながら、思わず訊いた。「あの、田所が、何か関係しているとお考えですか?」
刑事が椅子の背を掴んだまま、まじまじと私の顔を覗いてきた。
「関係している。何に、ですか?」
「ですから、五郎」私はそこで、口を開いたまま固まった。五郎右衛門ばかりに頭がいっていたことに、気が付いたのだ。しかし、警察が調べているのは、山之内の転落事故だ。慌てて言い直す。
「あの、ですから、山之内が怪我したことに」
「そんなことは言ってはいません。一応、調べているだけです。仕事なんでね」
会議室を出てエレベーターまで二人を送っていく。エレベーターの扉が閉まるとき、刑事の顔が笑った、ように見えた。が、それは、私の被害妄想だったかもしれない。
私は、会議室に戻った。一人で、頭を整理したかった。あの刑事たちは、結局のところ、何を調べにきたのだ? 転落事故の状況について、いやそれどころか山之内のことにさえ、一つも触れなかったではないか。私は何を喋った? 五郎右衛門だ。そう、問題を起こした五郎右衛門。だが、警察の目的は転落事故の調査だろう。
と、いうことは、五郎右衛門と転落事故は繋がっている? まさか! だが、もし繋がっているのなら、その接点にいるのは、田所だ。
唐突に、結論が浮かび上がる。
田所が、二人を突き落とした!
恐ろしい考えだ。だが、そう考えれば、しっくりくるように思える。事故のタイミングも。刑事たちの質問も。
けれど、何でそんなことをする必要がある?
五郎右衛門にクレームはあった。しかしその事実はもはや公になっている。西京百貨店側の関係者は皆知っていることだし、田所にしたところで返品にまで応じているではないか。ビジネスとして、すべて済んだ話だ。
何も隠ぺいすることなどない、筈だ・・・違うのか?
「田所は、何をしに佐賀へ行ったのかな」
背後の声に、どきりとする。
私は振り向くなり、噛みつくように妻に言った。「だから、急に出てくるなって! いや、そんなことより、どうしてまた付いてきた?」
「一人だと退屈だ」
「退屈って、あのなあ」
「来たものはしょうがないだろう」ぬけぬけと言い、「それより、大石の病院に、田所は何をしに行ったんだ? 入院先を田所は知らない筈だ、刑事はそんな口ぶりだったじゃないか」
「ああ。それは俺も気になった。けど」
「確かめよう」
「え?」
「行こう、弁天堂大学病院へ」
「ちょっと待てよ。急に行ったら変だろう」
「変じゃない。取引相手の見舞いに行くだけだ。ほら、行くぞ」
やたらと威勢のよい妻に急かされて、私は大石部長の病院へと向かった。
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