─ 三日目 ⑨ ─
── 春日 ──
窓から差し込む長い陽光が、がらんとした談話室の壁を茜に照らしている。
待っていろ、そう妻に言われてから、三十分ほども経ったろうか。未だに妻は現れない。人にくっつかなければ移動できないと言っていたよなあ、とぼんやり考えていると、廊下の向こうから歩いてくる人影に気づいた。山之内の奥さんだった。
まだいたのか、そう思われるに決まっている。なんと言い訳したものか、と考えているうちに、彼女は間近にまで来てしまっていた。
私は、取り敢えず立ち上がる。
「あの」と、二人の声が揃った。そして、これまた揃って気まずそうに下を向く。
「ちょっと腰を下ろしていたら、うとうとしてしまって」苦しい言い訳を口にする私を、奥さんが見詰めてきた。
「あの」彼女はもう一度そう言い、一旦口をつぐんだ後、「ここでわたしを待っていて下さったんでしょうか?」一気に吐き出して、ばつが悪そうに視線を下げる。
「あの、待っていて、くれたとは?」どういう意味だ。私は当惑顔を向けた。
彼女は下を向いたまま顔を歪めている。そして、ややあってから上目遣いに私を見ると、「すみません、変なこと言っているのは、分かっているんですけど。でも、待っていたわけでは、ないですよね。ええ、いいんです、それなら、いいんです」と体の前で小さく両手を振る。
「いや。待っていたと言えば、待っていたんですが・・・」妻を、という言葉は飲み込む。
それを聞いた奥さんが、はっと顔を上げた。
「本当ですか? 本当に?」
「え・・・あ、はい」
「あの・・・」彼女は言いかけたものの、話すのを躊躇うようにもじもじとする。やがて、思い切ったように私を見た。「夫が言ったんです。部長さんがここで待っているから、伝えてくれって」
「山之内君が! じゃあ、意識が戻ったんですね」私はほっとして一歩前に出た。
が、彼女は、「いいえ、そうじゃないんです」と思いの外大きな声で否定した。はっと息を吸い込むと、消え入りそうな声で、「わたし、見ちゃったんです・・・お化け」そう告白した。
何が起きたのか、私はすぐに察した。
奥さんは泣き出した。
彼女を壁際のベンチまで連れて行って座らせ、少し間を開けて私も腰を下ろした。
ひょっとして、山之内君が目の前に現れたのではないか、そして彼の足は透けていなかったか、とゆっくり訊ねた。
彼女があんぐりと口を開ける。そして、涙で濡れた目をしばたたくと、どうして知っているのか、と縋るように体を寄せてきた。
ここは遠回しに言っても仕方がない。私は、一昨日から私の周りで起こった理解し難い出来事を話して聞かせた。
「なので、奥さんの前に現れたのも、同じことだろうと、そう思います」
私が、そう言葉を結んだ時、彼女は泣き止んでいた。
「じゃあ、あれ、幽霊じゃないんですか」
「だって、山之内君、死んではいないでしょう」
「それはそうだけれど・・・生霊、だなんて」と視線を泳がせる。無理もない。気持ちは痛いほど分かる。怖いとかではない。ただ、理解できないのだ。
「こんなこと、人に言えないわ。おかしくなったと思われる」
私は大きく頷いた。「ええ、同感です。私も誰にも話していません。娘にも。言えないですよねえ、妻の生霊が出たなんて」
奥さんは不意にくすりと笑った。「わたし、てっきり、頭が変になっちゃったんだと思いました」とハンカチで目の周りに散った涙を拭う。
「そんなことは断じてありません」私は請け合った。「あなたが変なら、わたしも変ということになってしまいますから。それより、山之内君が伝えろと言ったことを聞かせてくれませんか」
まだ、少し混乱しているのだろう。彼女は口を結んで何やら考えている様子だったが、やがて、はあ、と勢いよく息を吐き出すと、話し出した。
「わたしの知らない話なので、聞いたままを言います。『階段で押された気がする。前に大石部長がいて、僕は大石部長に被さって、二人で落ちた』」
私は驚いた。俄かには信じられない言葉だった。「押された気がするって、言ったんですか?」改めて問うと、彼女は頷いた。「でも、一体、誰に?」
「いえ、それは言ってなかったですけど」
本当に押されたとなれば、意図的ということだ。犯罪じゃないか。「こりゃ、大変だ・・・」動揺に声が震えていた。
それが彼女にも伝わったらしく、「そうですよねえ、大変だわ」とおろおろとする。「あの、警察にも言った方が?」
そうですね、と言いかけて、はたと気が付いた。
どう説明するんだ?
彼女もすぐに思い至ったらしく、「でも、説明のしようがないですよね」と目を伏せる。
二人で少しの間、黙していたが、やがて彼女がおずおずと言った。
「あの、他にも言っていたんですけど、いいですか?」
「ええ、お願いします」
「『店に入ったとき、田所が紙袋を用意していた』それから、ええと、『五が半分で六と七でもう半分と』そう誰かが言っていたと名前を言ったみたいなんですけど、よく聞き取れなくて。わたしも動転していたものだから」
「無理ないですよ」とは言ったものの、誰が言ったのか気にはなる。それにもっと訊きたいこともある。
そこで、私は提案した。
「あの、奥さん。お願いがあるんですが」
彼女が不安そうに見返す。
「いま、集中治療室からいらしたんですよね」
「あ、いえ。中には入れないので、隣の待合室に」
「では、もう一度、そこへ行ってもらえませんか」
途端に彼女は怯えた表情になり、首をぶるぶると横に振る。
私は構わず言った。「山之内君から、もう一度話を聞いてもらいたいんです。大切なことなんです」そして、手帳を取り出して質問事項を書きつけ、そのページを破ってボールペンと一緒に彼女に渡した。「大丈夫です。二度目は慣れますから」無責任に言う。
彼女は、見るからに不安そうに、何度も私を振り返りながら、それでも廊下の向こうへ歩いていった。
十五分ほどして、奥さんが戻ってきた。心なしか足がふらついている。
彼女は、紙とペンを返してよこし、「あまり慣れませんでした」ぶるっと身を震わせる。「今日は、もう家に帰ります」そう言って頭を下げると、彼女はゆっくり遠ざかっていった。
── 千葉 ──
家に帰ると、夕飯が出来ていた。
朝言った通り、娘が作ってくれていた。帰ってきて、飯の支度が出来ているというのは、なんと有難いことだろう。そのうえ風呂まで沸いている。
「ありがとうな」
テレビを見ていた娘が、私を振り返って照れたように笑みを見せた。
色々あって、すっかり麻痺していたが、夕飯を食べ出して、猛烈に腹が減っていることに気が付いた。カレーをお代わりし、食後に買い置きのアイスクリームまで食べると、さすがに腹が苦しくなった。
食器を自分で洗っていると、「へえ、お父さん、家事慣れてきたね」娘が冷やかしてくる。
一息ついて、風呂に入り、さっぱりして出てくると、まだ九時前だというのに、眠気が襲ってきた。さすがに疲れている。
さて、もう寝るか、と寝室に入ると、
「やっぱり、妙だな」真後ろで声がした。
びくんと振り返る。妻がいた。
そうだった。病院の妻のところに置いてこなければいけなかったのに、すっかり忘れていた。
「あのさ、自分の体に戻った方がいいよな。今から病院に行こう」
「大丈夫だ。体はゆっくり眠っている。それより」
「それより、ってさあ」
「山之内の言っていたこと、放っておけないだろう。よく検討しろ」
言われて、私は渋々、上着から手帳の切れ端を取り出し、改めて眺めた。
山之内の奥さんから受け取ったその紙には、
『押した人物は?──背中を押されたので分からない。
田所が用意していた紙袋の中身は?──多分現金。
五が半分で六と七でもう半分とは何のことで誰が言った?──五郎右衛門の話、電話で桐谷が言った。桐谷は、課長さんにしか分からないかな、とも言っていた』
と書いてあった。
誰かが本当に突き落としたとしても、本人が見ていないのでは仕方ない。
紙袋の中身は現金らしいが、だとすれば大石部長に渡したのかもしれない。ことを丸く収めてもらった礼だろう。無論、褒められたことではないが。
五、六、七は何だろう。納期のことだろうか。もっと具体的なことが聞けるかと思ったのだが、これではさっぱり分からない。
「分かんないよ、何にも」私がぼやく。
「そんなことはない」妻が言う。「だんだんと分かってきた」
「何がさ?」
「やはり、返品される五郎右衛門は偽物だ」
またそれか! 思わず溜息が出る。「偽物って言うけどさ、根拠があるのか? 山之内も現物を見ているけど」そこまで言って、私は思い出した。妻に言っておきたいことがあったのだ。
「なんか言いたそうだな」相変わらず、人の心を読んでくる。
「あのさ、他人様の、その、霊を、勝手に操るのはやめてくれ」
「霊を操る?」
「分かっているぞ。君なんだろう、山之内を引っ張り出して奥さんの前に連れ出したのは」
「操るとか、引っ張り出すとか、人聞きの悪い。あの男が、狭い部屋の中で退屈そうにうろついていたから、外に出たらどうだ、奥さんがいるぞ、と教えてやっただけだ」
「やっぱり! あの若い奥さんがどれだけ驚いたと思ってるんだ。お化け見たって、泣いてたんだぞ」
「でも、役に立ったろう」
「そういう問題じゃない。お化けに会うってのは、ショックなんだって」
「お化けじゃない。生霊だ」
「見る側にとっちゃ、同じだ!」
「しかし、お前だって、もう一度その怖いお化けに会ってこいって、山之内の妻を行かせたじゃないか。そのおかげで、疑問の答えが手に入った」
言葉に窮した。確かに、私も他人のことは言えない。
「とにかく、もう、勝手にうろつくな」
妻は答えない。そして、都合の悪い部分だけきれいさっぱり忘れたように、「山之内も現物を見てるけど、なんだ?」と会話を強引に巻き戻す。
「え?」すぐには思い出せない。何を言いかけていたんだっけ。「ああ、そうだ。彼も現物を見ているけど、偽物だなんて報告は上がってない。課長の田所も確認している。五郎右衛門窯の桐谷課長と一緒に」だが、田所は桐谷がいたことを私に言わなかった。それはそれで引っ掛かる。
「ということは、田所が何か知っているな。桐谷も絡んでいる。間違いない」
「知っているって、何を?」
「製造元からの直送品に偽物が混ざっていたんだぞ」
「だから、偽物って決まったわけじゃない」
「いいや、偽物だ。誰かが混ぜたんだ」
「誰が? なぜ?」
「わたしに訊くな。田所に訊け」
「田所にって・・・」私は唸りながら腕を組み、天井を仰いだ。
確かに田所は何か知っているように思える。しかし、どう訊き出せばいいのだ? そもそも何がどうなっているのかすら、分かってはいない。何かおかしいことだけは確かだけれど。
「じゃあ、田所に何と」訊けばいいと思う? だが、言いかけて顔を上げると妻の姿はなかった。
くそっ、言うだけ言って、消えるなよな。
私は、もやもやを抱え、一人ベッドに座り込んだ。
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