─ 三日目 ⑤ ─
── 本郷三丁目 ──
私は事務所の扉を開けながら、腹が減っていることに気が付いた。昼飯を食うのを忘れていた。
妻の病院から戻ったあと、食卓に座って、延々とメールチェックをしているうち、今日も、まあ休んでもいいか、とそんな気になってきていた。が、あと三通で読み終わる、というところで、営業部長からの怒りのメールが飛び込んできた。
西京百貨店に収めた五郎右衛門窯の製品が少なからぬ数、返品されると、西京側から営業部に連絡が入ったらしい。営業部が確認したところ、一課長の田所が了解しているとの回答だったらしく、寝耳に水の営業部は、いったい何がどうなっているのだ、と田所の上司であり新規市場部の長たる私に、説明しろと言ってきたのだ。
こういうこじれた問題は、メールで済ませるわけにはいかない。とにかく、出社しなければ、と私はあたふたと会社にやってきた。
自席に鞄を置き、さて一課長は、と首を伸ばす。いない。一課の行先掲示板を見る。出社のマグネットが付いているだけで、行先は空欄、つまり社内にはいるということだ。
一課の列まで歩き、庶務の女性に声をかける。「田所課長、どこかな?」
「あれ、さっき戻られたんですけど」立ち上がって、辺りを見回す。
と、向かい側の課員が、「警察が連絡を待っているって伝えたら、部屋出て行っちゃいました。廊下で電話してるんだろうって思ってたんですけど、いませんでした?」と事務所の出入口を眺める。
「いなかったが・・・えっ、警察って」私は驚いて目を見開いた。「なんで警察?」
「山之内さんが怪我した件を調べているそうです」
「え、だって、家の階段から落ちただけだろ?」
「さあ、よくは分からないんですが」と彼は肩をすくめ、「昨日の夜の行動が分からないか、なんて訊かれました」
その時、庶務の女性が、あっ、と声を上げて、私の後方を指さした。
見ると、田所がうつむき加減で歩いてくる。何やら険しい顔つきだ。
「あ、部長。いらしたんですか」私に気づいた田所は、はっと顔を上げた。「おはようございます」
「はやくはないよ、もう午後だ。それより」と私は、田所を自分の席まで引っ張っていき、「何がどうなってるんだよ?」と声を落として訊ねた。
「山之内のことですか?」
「警察が来たっていうじゃないか。それもだし、五郎右衛門、西京百貨店から返品になるんだってな」
「え、どうしてご存じなんです?」田所の眉が上がる。
「どうしてじゃないだろう!」私は思わず声を荒らげた。「営業部からわたしに問い合わせが来たんだ。営業部長、かんかんだぞ」
「ああ、そうか」と田所は顔を顰めた。「営業を忘れてた」
「とにかく、状況を」
「部長」田所は声を落とし、「会議室で、いいですか」
私が頷くと、田所は私を誘導するかのように先に立って歩きだした。上の階にいくと、廊下の端の会議室に入った。
「報告が遅れて申し訳ありません」扉を閉めるなり、田所は深々と頭を下げた。
叱責モードに入っていた私は気勢を削がれた格好だ。田所の上手いところだ。
「まあ、いいよ」と椅子を引き、田所にも座れと促す。「とにかくさ、この三日間で何が起こったのか、説明してくれよ」
「はい」
田所は、西京百貨店に収めた五郎右衛門の一部に色目の違いが指摘されたこと、仕入れ責任者の大石部長に立ち会ってもらって許容範囲だろうと納得してもらったこと、騒がせたお詫びに昨夜、大石部長を接待したこと、その帰り道で山之内と大石部長が、どうやら一緒に階段から落ちたらしいこと、二人はそれぞれ入院していること、そして、今日、五郎右衛門について八嶋主任から色目の違いが目立つものは返品すると告げられたこと、最後に、大石部長と山之内の転落について警察が調査していること、以上を要領よくまとめて、私に説明した。
聞き終えた私は、少しの間、頭を整理してから訊いた。「まず、五郎右衛門だけど、五郎右衛門窯の製品ではあっても発色の良くない物があるので、それは返品する。これが、八嶋主任」
「はい」
「発色が悪いのは、制作のばらつきで、窯が復活してから間もないせいで、これからは検品を厳しくする。これが、君の説明で、八嶋さんは了解した」
「はい」
「返品されるものは、君が現物を確認し、返品に同意した」
「はい」
「そんなに、悪かったのか、発色?」
「ええ、見る人が見れば」田所は神妙な顔で言う。
「なるほど。で、山之内君の怪我の件。これ、労災じゃあないのな?」
「はい。完全に業務外ですから」
「接待終わった後だもんな」私は内心でほっとする。途端に自己嫌悪が頭をもたげた。部下が怪我をしたというのに、何たる薄情か。私は気持ちを誤魔化そうと、思い付きの質問をした。「あのさ、なんで二人して落ちたわけ?」
「いや、それは」と田所は首を傾げ、「分かりません」
「どこで落ちたの? 接待終わってからすぐのこと?」
「あの、それも分かりません。そういったことは警察は言えないそうで」
「言えないって、事故だろう、ただの。ま、あなたに言っても仕方ないけど」溜息を吐き、「分かった。営業部長にはわたしから説明しておくから」と立ち上がった。
田所も腰を上げる。「すみません。わたしから一報しておくべきでした。けど、なにしろ、どたばたで」
「ああ、事情が事情だから、仕方ない。山之内君だけど、どこに入院したの?」
田所は、上着の内ポケットから手帳を取り出して開くと、小石川中央病院、と告げた。「わたしは、これから病院に行ってきます。容態が気になりますので」
「ああ、分かった。わたしも後で行くよ」
会議室を出た後、私は真っすぐ営業部へと向かった。
「よう、これはこれは。地の果て、第五営業部へようこそ」糸井が、椅子に座ったまま大仰に手を広げると、「新規市場部長、御自らかたじけない」と頭を下げた。
「相変わらず、嫌味な奴だなあ」私が嫌な顔を向けると、
「嫌味を言われるようなことをしでかしたのかな?」にやっ、とする。
「分かったよ。とにかく、五郎右衛門の件は謝る。この通り」と立ったまま彼の机に両手をついた。
「はっ。謝って済めば警察は要らないってね」彼は椅子の背にそり返りながら私を見上げると、「じゃ、どういうことか説明してもらおうか」と体を屈めて、机に両肘をつき指先を組んだ。
第五営業部の部長である糸井は、私と同期入社の男で、とにかく足で稼げ、が口癖の根っからの営業マンだ。カマキリのような顔と細身の体は、ぱっと見、今にも萎えてしまいそうだが、実のところは、その体力たるやマラソンランナーのようである。実際にこの男と一緒に外回りをしたことがあるが、通りを二つも跨がぬうちにこちらの息が上がってしまった。何しろ歩くのが速い。持久力もある。地下鉄の駅三つ分を歩くことくらい、彼にとっては屁でもない。この細い体のどこにエネルギーを蓄えているのかと、全身を舐めまわして見たほどだ。だが、本当に感心させられたのは、商談が始まってからだ。その滑らかに回る口から紡ぎ出される言葉は、魔法のように相手を丸め込んでしまう。
「お前が詐欺師をやれば、大犯罪者になるだろうな」以前、私がそう揶揄したことがある。すると彼は、「いや犯罪者にはならないさ。俺が詐欺師だったら、それが詐欺だと、誰も気づかないからな」と宣った。
とにかく、こんな奴が相手では、こちらの非をどう言い繕い、言い訳したところで、無駄な努力というものだ。私は、近くの席から椅子を拝借し、糸井の机の前に据えて腰を下ろすと、全面降伏するつもりで、今回の五郎右衛門に関する件で把握している全てをありのまま話した。
「話すなら、全部話せよ」黙って聞いていた糸井は、私が話し終えると、開口一番そう言った。
私は、しばし考え、「話した。漏れはない」
「なら、訊くがな。なんで、全部、田所によると、なんだ? 井上部長殿はいったい何をしておいでだったのかな? まさかバカンスなんてことないよな、特別展やってるってときに」
「ああ、そこか」私は手をぱちんと打った。もっともなご指摘だ。「実は、この二日半、休んでたんだ」
「え、本当にバカンスか」糸井が眉を上げる。
「そうじゃないよ」私は家庭の事情を、最小限ではあるが説明した。
糸井は途端に気遣わしげな表情を向けてきた。「そりゃ大変だな。奥さん大丈夫なのか?」もう大丈夫だと返すと、「ま、分かったよ。色目が悪いとクレームつけられてからは、課長の田所が対処したわけか。で、西京側は、紛い物疑惑は晴れたものの、今日になって、それでも発色の気に入らぬものは返品する、となったわけだな・・・だが、妙だな」と顎を摩る。
「妙? え、何が?」
「だって、西京の仕入れ責任者は大石部長だろう。納得してもらって事が収まったから、昨日、大石部長を接待した。うちは新田常務が出張っていって、しゃんしゃん、だったんだろうよ」
「そう聞いてる」
「それを、なんで今日になって、返品なんて話になったんだ? 大石部長は知っているのか?」
ああ、それは、話していなかった。「実はな、昨日の接待のあと、大石さんとうちの山之内で、もう一軒行こうとしていたらしいんだよ」
「していたらしい?」糸井が語尾を上げる。
「で、二人して、どっかの階段から落ちた」
「えっ?」
「二人とも怪我して、入院中なんだ」
「入院!」糸井が目を丸くする。「ひどいのか、怪我?」
「分からない。このあと、病院へ行ってみるつもりだ」
「まさか、山之内のせいで大石部長を巻き込んだんじゃないだろうな? お客を怪我させたなんてことだったら、大事だぞ」
「山之内が巻き込んだ?」私は、はっ、となった。
今の今まで、そんな考え方はしていなかった。しかし、確かに、大石部長の怪我の責任が山之内にあるなら、糸井が言うように、大事だ。
私は立ち上がっていた。「確かめないと」そう言って、行こうとする私を、糸井が呼び止めた。
振り返る私に、糸井は、「五郎右衛門の方も、確かめてくれよ」
「確かめる、五郎右衛門を?」
「クレーム品、見てないんだろう」そう言って、彼は私の眼を指さし、「その目で、確認してくれ。返品されるものが、実際にどんなものなのか」そして指を引っ込めると、「どうもな、納得いかないんだよ。うちが出資したのは最近だけど、五郎右衛門窯自体は二十年もかけて復活したんだろう。絵付けの色がばらつくなんて、なんか、きな臭いぜ」
私は、山之内と大石部長の怪我のことで一杯になっていた頭の隙間に、彼の言葉を押し込んだ。
「じゃあ、また連絡する」そう言って背中を向ける私に、「次は事前にな」と糸井の声が飛んできた。
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